第34話|愛された名前
謎の剣士は、ゆっくりと剣を下ろした。
戦意が消えたわけではない。
ただ、もう――斬る必要がなかった。
月明かりの下、スカーレットを見下ろし、薄く笑う。
「……誤解するなよ」
声は穏やかだった。
だからこそ、余計に冷えた。
「最初から、父上を殺すつもりなんてなかった」
スカーレットの指が、わずかに震える。
「一目見れば、それで十分だった」
「それは……嘘じゃない」
剣士は視線を逸らし、どこか遠い場所を見る。
「顔を見たかった」
「声を聞きたかった」
「……それだけだった」
短い沈黙。
「でもな」
剣士の瞳が、再びスカーレットを捉える。
「父上は、私を見て――戸惑った」
「それだけで、胸がいっぱいになった」
唇が、歪む。
「それなのに」
声が、低くなる。
「父上は、お前の名前を呼んだ」
スカーレットの心臓が、強く打つ。
「『どうしたんだい? スカーレット』」
その一言を、剣士は何度も噛みしめるように繰り返した。
「優しくて」
「心配そうで」
「……ああ、本当に」
肩が、小さく震えた。
「笑っていたよ」
剣士は、嗤った。
「それを見た瞬間、全部が壊れた」
感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「どうしてだ?」
「どうして、あの時――お前じゃなくて、私だった?」
「どうして、私だけが“いらない”と判断された?」
剣士は、胸元を押さえる。
「お前は、何も知らずに」
「何も奪われずに」
「ただ、愛されていた」
その瞳に、狂気が宿る。
「……耐えられると思うか?」
答えを待たず、剣士は続けた。
「父上の剣を奪った」
「突き飛ばして」
「斬って、斬って、斬り続けた」
笑みが、広がる。
「楽しかったわけじゃない」
「復讐でもない」
だが――
「それでも、笑った」
スカーレットは、言葉を失っていた。
「父上を殺した瞬間」
「私は、確かに“見られていた”」
剣士は、静かに言う。
「……最高だったよ」
夜風が吹き抜ける。
「父上を亡き者にして、死者の国に戻った時」
「もう、目的らしい目的はなくなった」
剣士は肩をすくめた。
「私は、さまよう骸みたいに生きていた」
「死ぬこともできずにな」
そして、ゆっくりとスカーレットを見据える。
「ただ一つ、想像していなかったことがある」
口角が、吊り上がる。
「――お前が、死者の国に来ることだ」
狂気的な笑み。
「なあ、スカーレット」
まるで、待ち望んでいたかのように。
「今度は、お前の番だ」
姉と妹。
奪われた者と、奪われなかった者。
逃げ場は、もうなかった。

『第34話|愛された名前』 終了
第35話へ続く













