十字架の愛 ~イエス・キリスト~ | 聖書・教会

十字架の愛 ~イエス・キリスト~ | 聖書・教会

聖書を通して示される、
創造主なる神さまの愛と救いをお伝えします!
God loves you.☆

イエス・キリストは神さまの愛
東京で聖書を学ぶ教会「神愛エクレシア」

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ハレルヤ!

教会に行くのは10年ぶりという看護師さんが、神愛エクレシアの礼拝に導かれました!!


その方は、25年前にキリスト教を信仰し、洗礼も受けて熱心な教会生活もしたけれど、

あるトラブルから教会に通うことは止めたという女性でした。


10年の時を経て、再び神さまが導いて下さっていることを感謝します!


聖書には、放蕩息子の喩えがあります。


ある地域に、資産家の父に2人の息子がいて、

財産を分け与えてもらいました。

すると、弟の方がその財産を持って遠い国にいき、

遊び金として全財産を使い果たしてしまいました。


そのまま父のもとに帰るわけにもいかず、

大富豪の息子なのに豚の世話係として働くようになり、

豚の食料で自分の腹を満たしたいほどに飢えていました。



もう耐えられなくなり、

せめて父のもとで働く雑用係でもいいから雇って欲しいと、

赦しを求めて帰りました。


「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。

 ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、

 かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。


 息子は言った。
 
 『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

  もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

 
 ところが父親は、しもべたちに言った。

 『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。

  それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

  そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

  この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』


 そして彼らは祝宴を始めた。」


                 (聖書・ルカ15:20~24)



このように、私たちの父なる神さまは、私たちが立ち返るのを待って下さっておられる方です。


いままでどんなことをしてきても、

このままではとても受け入れられないのではないかと思うようなことをしてきても、

私たちが悔い改めるとき、神さまの大きな愛で迎えて下さいます。



この神さまの愛を、共に喜び、受け取っていきませんか。


教会の中でも、あるいは自宅の部屋の中でも、

神さまに祈り求めるなら、必ず応えて下さいます。


God loves you.☆


http://bible-church-christ.tokyo/heaven-earth/
神さまを礼拝し、祈り、賛美を捧げていると、神秘的な体験をすることがあります。


体が熱くなったり、あたたかいものが全身を包んだり、
室内なのに風が吹いているような感覚になったりなど、

時によっても、人によっても様々な経験をします。


けれども、一部の教会ではそのようなことに否定的な方もおられるようです。

そのような時は、たいてい聖書の次の箇所が引用されます。


「 パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。

 イエスをためそうとしたのである。

 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。

 『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。

 まことに、あなたがたに告げます。

 今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』」

 
                  (マルコ8:11,12)


そして、「不思議な体験や超自然的な現象を求めることは罪だ」

という主旨のメッセージがお決まりのように語られます。


しかしながら、祈りや賛美の中で聖霊体験をするとき、

多くの場合、自分からしるしや不思議を求めているわけではありません。


神さまを愛し、神さまを求めた結果、そのような神秘的な体験をするのです。


イエスさまは、次のようにお語りになられました。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、

 それがどこから来てどこへ行くかを知らない。

 御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」


              (聖書・ヨハネ3:8)


風は、目には見えません。

けれども、風が吹くと感じることができます。

また、風の音を聞くことができます。


神さまの聖霊を体験するときも、それと同様だという教えです。



聖書を読んだり、賛美歌を聴いたりしているときに、

涙が出ること、

心があたたかくなること、

あるいは、手が震えたり、

体が浮いたような感覚になること。


そういったことは、聖霊さまの働きであり、

神さまの愛の現れです。



初めて経験するときは、

「なんなんだろうこれは」と思うかもしれません。


また、それを経験したことがない人に伝えても、

「そんなの気のせいだ」と言われます。



けれども、熱心に祈り、賛美を捧げるとき、

確信することでしょう。


神さまは確かにおられ、

私に愛を示して下さっている
と。



私たちは、否定的な言論に惑わされることなく、

神さまの愛を受け取り、味わっていきましょう!


God loves you.☆


東京 教会
後藤健二さんが殺害された映像が本物だったとしたら、
その日は後藤さんの召天日でもあります。

後藤さんは、キリスト教を信仰していて、
田園調布の教会で洗礼を受けたクリスチャンだったそうです。


そうだったなら、神さまはなぜ後藤さんをお守りにならなかったのですか?

信仰者が後藤さんの救いを求めて祈っていたのに、

神さまは後藤さんを見捨ててしまったのですか?

という疑問を抱く方も多いと思います。


けれども、イエス・キリストは、次のようにお語りになりました。


「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。

そんなものより、たましいもからだも、

ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」


              (聖書・マタイ10:28)


悪魔は、人の体を滅ぼすことはできます。

しかし、人の魂までは滅ぼすことはできません。

人の魂は、神さまの御手の中にあり続けます。


「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、

キリストの死と同じようになっているのなら、

必ずキリストの復活とも同じようになるからです」


             (聖書・ローマ6:5)


イエス・キリストが、私たちの救いのために十字架の上で死なれ、
そして、神さまによって復活させられたように、

キリストに従って殺された信仰者もまた
神さまによって復活させられ、天の御国へと導かれるというのが、
聖書の約束です。


「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、
その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。
そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、
太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、
いのちの水の泉に導いてくださるからです。
また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」


                   (聖書・黙示録7:14~17)



神さまによって天の御国へと召された後藤健二さんに、

永遠の平安と慰めがありますように。


→ 後藤健二さんの追悼
神の家族、クリスチャンのジャーナリスト、後藤健二さんがテロリストによって
殺害されてしまった可能性が高いことを知り、とても心が痛いです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、
 これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 

              (聖書・ヨハネ15:13)

後藤さんが取った行動は、
イエスさまの愛に習った、崇高な隣人愛の現れであったと信じます。


安易な自己責任論で責める人もいるようですが、
そうではなく、友のために命を捨てた善意の人として私は尊敬します。


後藤さんは、「平和と人権」についてメッセージを発信し続けた方だったそうですが、
この事件が、戦争や自衛隊派遣の口実として使われないことを願います。

これをきっかけに、日本の自衛隊が海外に行って戦争や空爆をするようになることは、
後藤さんにとってあまりにも不本意なことであると思います。


願わくは、後藤さんを殺害したテロリスト、イスラムの過激派に、
悔い改めの心が起こされ、悪の支配から解放されますように。


→ 後藤健二さん 召天
ハレルヤ!

神愛エクレシアに通って下さっている女性が、
神さまによってうつ病が癒されたと語って下さったので、シェアさせていただきます!!


その方は、男女のトラブルからうつ病になり、
精神科の薬を服用しながらなんとか仕事に行き、
週末になると一日中、家で寝込んでしまうという生活が1年も続いている状態でした。

つらい悲しみと、薬の副作用とで、
生理が止まってしまうほどだったと言います。


けれども、神愛エクレシアに来て、
賛美をし、お祈りをしているうちに、
なにか自分を圧迫しているものがスウーっと消えていくような体験をしたそうです。

2回目も、3回目もそのような経験をし、だいぶ良くなってきたと感じた頃、
都合がつかなくて病院に行けず薬を切らしてしまっても
正常に生活することができたので、お医者さんにそれを伝えたところ、
しばらく薬を飲まないで様子を見てみましょうと言われたそうです。


そして、神愛エクレシアに通い始めて3カ月が経ったころ、
生理が回復し、うつの症状もなくなって、
薬はまったく飲まなくてもいいようになったと報告して下さいました!

いまでも、生理の前に体調が崩れることがあるけれども、
女性の周期として自然な範囲内だと言います。


このように、聖書の神さまは、現代でも私たちを癒し、救って下さる方です。

同じような苦しみの中にいる方はおられるでしょうか?

ぜひ、神さまに祈り求めましょう!


神さまはあなたを愛して下さっています!!

God loves you.☆


→ 東京 教会
聖書のレビ記を読んだことがある方なら、

あまりの血なまぐさい記述に驚いたことがあるのではないでしょうか?


1章のはじめから、動物を生け贄として屠る(ほふる)ことが書かれています。

「主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。

『イスラエル人に告げて言え。
もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、
だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。

もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、
傷のない雄牛をささげなければならない。
それを、彼が主の前に受けいれられるために
会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。

その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。
それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。

その若い牛は、主の前でほふり、
祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、
会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。』」


(聖書・レビ記1:1~5)


また、動物の体の臓器を取り分け、祭壇に捧げるべきことが書かれています。

「 祭司であるアロンの子らは、
その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを
祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。
内臓と足は、水で洗わなければならない。

祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。
これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」


(聖書・レビ記1:8,9)



動物愛護者の方なら、動物虐待だと言い、

無宗教者の方なら、カルト宗教だと感じるかもしれません。


「次に、彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。

アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。
こうしてそれはほふられた。

モーセはその血を取り、
それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った。

さらに、モーセはアロンの子らを近づかせ、
その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗り、
モーセはその血の残りを祭壇の回りに注ぎかけた。」


(聖書・レビ記8:22~24)


これらの出来事は、現代に生きる私たちにとって、何の意味があるのでしょうか?

古代イスラエルの歴史は、現代の日本に生きる私たちにとって、どんな関係があるのでしょうか?


実は、旧約聖書の生け贄は、イエス・キリストを象徴しています。

旧約聖書の時代に行われていた祭儀は、

イエス・キリストの十字架の贖いを前もって教えるためのものでした。


新約聖書では、次のように解き明かされています。

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、
手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、
さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

また、やぎと子牛との血によってではなく、
ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、
永遠の贖いを成し遂げられたのです。


もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、
それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、

まして、キリストが傷のないご自身を、
とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、

どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、
生ける神に仕える者とすることでしょう。」


(聖書・ヘブル9:11~14)


人間の罪の身代わりとして、動物を屠ること。

生け贄を引き裂くこと。

その血を注ぎかけること。


すべては、イエス・キリストが神さまの小羊として天からこの地上にこられ、

私たちの罪の身代わりに刑罰を受け、十字架の上に磔にされることを示すためでした。


動物を殺し、引き裂いて、生け贄にすることは、残酷だと思うかもしれません。

レビ記だけを読んだら、

聖書を信じているユダヤ教やキリスト教は、

なんて残酷な宗教だと思われるかもしれません。


しかしながら、その残酷なまでの生け贄に

神さまの御子、イエス・キリストご自身がなられました。



イエスさまが流された血を、自分の罪の赦しのためとして、

イエスさまが引き裂かれた体を、自分の救いのためとして、

信じることにより、私たちは神さまとの関係を回復することができます。




「イエスは彼らに言われた。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、
あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

わたしの肉はまことの食物、
わたしの血はまことの飲み物だからです。』」


(聖書・ヨハネ6:53~55)



この救いを、この十字架の愛を、

あなたは信じますか?




「神は、実に、

そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。」


(聖書・ヨハネ3:16)


神さまの愛と救いを、共に喜び、祝っていきましょう!

→ 神愛エクレシア イエス・キリストは神の愛

God loves you.☆
聖書に記されている「生ける石」について、
新しい理解が与えられたのでシェアさせていただきます!


「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。

そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、

神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」


       (聖書・Ⅰペテロ2:5)


「生ける石」という箇所を読んで、
はじめ私は、道端に落ちている石ころを思い浮かべました。

その辺にある灰色の石ころが積み上げられて、
家が作られていくイメージでした。


けれども、旧約聖書には、次のような御ことばがあります。

「あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。

それをエポデの細工と同じように作らなければならない。
すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、
それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。
それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、
幅は一あたりとしなければならない。

その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。
すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。
第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。
第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、
第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。
これらを金のわくにはめ込まなければならない。


この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、
彼らの名にしたがい十二個でなければならない。
十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、
なければならない。」


       (聖書・出エジプト記28:15~21)



これは、大祭司が着る、神さまの栄光と美を表わす祭司服のことですが、
その胸あてには、12個の宝石がはめ込まれ、イスラエルの12部族を象徴しています。

そして、新約聖書では、次のように教えられています。

「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」


       (聖書・ガラテヤ6:16)


イエス・キリストの十字架の救いを信じ、受け入れた者は、
「神のイスラエル」だと教えられています。

ですから、私たちは神さまにとって、「宝石」なのです!



聖書の黙示録には、天国の光景が次のように描写されています。

「都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。
第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、
第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、
第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、
第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。

また、十二の門は十二の真珠であった。
どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。
都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。

私は、この都の中に神殿を見なかった。
それは、万物の支配者である、神であられる主と、
小羊とが都の神殿だからである。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。
というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。

諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」


       (聖書:黙示録22・19~24)


神さまの都は、宝石でできています。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(聖書・Ⅰペテロ2:5)
というとき、何もその辺に落ちている石ころを思い浮かべる必要はなく、
宝石をイメージする方が適切だと教えられました。


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。

 わたしはあなたを愛している。」


       (聖書・イザヤ43:3)


あなたは神さまに愛されている、高価で尊い宝石です!!

God loves you.☆        聖書
東京都港区、品川駅近くで、教会の開拓を始めました!

→ 東京で聖書を学ぶ教会 「神愛エクレシア」


年賀状・クリスチャン


皆さま、新年いかがお過ごしでしょうか?

昨年10月以来、更新が滞ってしまいましたが、
気持ちを新たにし、神さまの福音を分かち合っていきたいと願います。


2015年、戦後70年にあたるこの年。

旧約聖書の時代、イスラエルの民は
70年間、バビロンの地で奴隷生活を強いられた後、
イスラエルに帰還する大解放時代を迎えました。

日本でも、戦後70年を期に、霊的な大解放時代が訪れることを願います。


私たち夫婦は、品川で教会の開拓を始めました。

会堂があるわけではなく、会議室などのレンタルスペースで
礼拝を行っています。

聖書を通して、私たちの造り主である神さまの愛と救いを受け取って、
その愛に応えていく生き方を目指しています。


教会に通ったことがない方、まだ聖書を読んだことがないという方や、
教会に行ったことはあるけれども、しばらく遠のいている方でも大歓迎です!


現代でも生きて働かれ、
私たちを守り、導いて下さっている神さまの愛を救いを、
共に分かち合っていきましょう!

→ http://bible-church-christ.tokyo/


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