生き方を自分自身に問い直す。『小屋 働く建物』を読んで( ^^) _U~~ | love-junのブログ

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聖書、陸上、防災、教育、女性問題などについて書いています。

昨日、手作りの作品は何を作ったらいいか、売れるのかと元気シニアの会議で議題になった。

男性会員が「ふんどし」と言った。「あれは非常に便利だったらしいねー」と私が言った。

海の中でサメなどに襲われた時にはふんどしを流してさめより大きな者として難を逃れたと聞いたことがある。

私は設計事務所にいたことがあり、解体する建物を測量したり、何本の木が使われているか木拾いにも行ったことがある。

そして予算を組んで通産省に図面を提出し(コピーがなく青焼きをしていた)、新しい建築の金額をはじき出すと言うものだった。

今でも古い建物を見ると懐かしさがこみあげてくるのだが、多分その経験があるからかもしれない。

昨日も芸工大で二冊本を借りてきた。その内の一冊が「小屋の本」。もう一冊が「スポーツと科学の本」。

その中に衝撃を受ける文章があった。海女たちはふんどしをつけ、手ぬぐいで鉢巻きをしめて潜ったと言う。

それも写真入りで説明されていた。勿論前向きではなく、小さな写真なのであまり明確ではなかった。

海女小屋の前で横向きに撮った写真だったので……。

読み進めていくと、炭焼きの話が書いてあった。紀州備長炭の山小屋の話。

丸太の枠に木の皮を張ってドアを作り、広さは人数分の(一人畳一枚分)の広さ。

そのような環境の中で炭を焼き、家族で生活を共にしたと、そして、筆者はその家、手作りの家で生まれたと言う。

そしてその小屋が心安らぐ家だったという。風呂、炊事はどうしたのだろうか、買い物はしなかっのだろうかと考えた。

生きていくということは衣食住が整わないと成り立たないものである。出来上がった炭を届けて買い物をしたのだろうか?

多分電気も水もどうにかして調達したに違いない。車もなかっただろうから炭を担いで山を下りたのだろう。

今はお金さえあれば何でもすぐに買うことが出来、簡単に食べ物も手に入れることが出来る。そしてお金がないお金がないと言って騒ぐ。

現代社会において、本当に必要なものは何なのだろう。スマホで振り回されるだけの生活をしているのではないだろうか?

私自身、お金になる文章を書きたいと言うのが今年の目標だったが。

本当に自分らしく生きるということは…もう一度考え直さなくてはならないのかもしれない。便利な生活に胡坐をかいている。