1⃣平成の受胎告知~追いやられた二人の姉~ | love-3025のブログ

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     今日はラブの足の向くままの散歩で、途中から新しいルートに挑戦して

     ましたよ。後ろを振り返ったり、学校が近かったせいか子供たちの野球をしてる

     声やアナウンスの声に反応して立ち止まって様子を窺ったりと、たぶん刺激的な

     散歩だったでしょう。時間がかかって私にはちょっと・・・運動にはなりません。

 

キリスト教で言われる受胎告知は、処女マリアが大天使ガブリエルのお告げで

精霊によりキリストを身ごもることを受け入れたことを言います。

 

平成の受胎告知といえば、紀子さんが妊娠6週目にして国会で

当時の安倍元官房長官が、「お腹の子の皇位継承権を奪うのか」とまで発言し

(生まれてないが、生まれる子は男子と分かっていた・・・)

当時の安定的な皇位継承論、女性天皇や女系天皇の流れを止めたことでしょう。

 

 

政府が皇位継承問題を議論する中、平成の皇室から待ったをかけた、

いわば、皇室から持ち出した男系男子論ではなかったのではないでしょうか?

どうしてこうなったのか? 

 

私は前記事で何度か、早い時期から皇統を移すことを美智子さんは考えていた、

と書いてきました。

そのために皇太子を結婚させる気も、子供をもうけるなども阻止したかっただろうと、

しかし思惑通りにはいかず、皇太子さまは雅子様という素晴らしく優秀な方を迎え、

8年後の2001年に敬宮愛子様がお生まれになったわけです。

 

このままでは皇太子から皇統を移すのは困難です、直系のお子様もいますしね。

そこで、考えたウルトラC作戦が、男系男子議論です。

女子しかいない皇太子ご夫妻、とりわけ雅子妃殿下に男子を生むように強要し

宮内庁ぐるみでパワハラやセクハラを行ったわけです。

主導したのは赤坂のご隠居夫婦でしょう。

いわば、皇統移譲のために作り上げられた男系男子議論です。

 

私の記憶ではこのころ盛んに皇室に男子が生まれていないキャンペーンがありました。

 

【昭和22年(1947年)10月24日、皇族の大半が皇籍を離脱したことによって皇室の成員が大幅に減少した。更に、昭和40年(1965年)に礼宮文仁親王が誕生して以降、昭和後期から平成中期にかけて、皇室に男児が一人も誕生しなかったことにより、上述の皇統断絶の危険性が発生した[注釈 1]平成16年(2004年)末に公の議論が始まった段階で、男性皇族の最年少の文仁親王は39歳であった。】     ウイキペディアより抜粋

 

 

少し遡りましょう、

 

皇太子妃雅子様に子供が授からない時期、

明仁天皇は「眞子がいる」と話されたとか・・・

というか、皇太子ご夫妻にお子様が誕生するまでは、平成当時の天皇皇后は

眞子さんにいずれはと考え、それとなく本人にも自覚が持てるように接してきたのでしょう。

特別扱いです。

 

紀子さんの悠仁さんへの偏愛はつとに有名ですが、

公平な子育てがお出来にならないのは今に始まったことではないでしょうね。

1991年生まれの眞子さんと1994年生まれの佳子さん。

偏愛は紀子さんだけでなく美智子さんもそうでしたし、その延長に今があるのです。

いい例がKKの粉飾プロフィールや眞子への生前贈与です。

 

佳子さんは、育つ過程で常に姉が優先され寵愛を受けてる様子を見て育ったのですね、

子供らしく反抗したら、秋篠宮にひっぱたかれるわけです。

姉と仲良くしていれば、自分にもおこぼれがあるということを、小さいころから

身に着けていったのではないでしょうか?

計算高い子供の姿に見えます。 

9÷3=2の方ですが・・・

眞子さんには怖いものがない生活だったでしょうね、久君が生まれるまでは。

 

2006年9月に悠仁さんが生まれます。

 

二人の姉たちは思春期のさなかでしたでしょうから、この母親の妊娠は

かなり複雑だったと思います。

この年代はともすれば、大人の性生活など不潔極まりないと思う年代でもありますから。

 

しかしそれだけでは済まなかったのです。

一夜明けたら、姉妹の境遇、待遇は崩れ落ちたのですから・・・

 

特に眞子さんのショックは大きかったでしょうし

佳子さんは耐性はあるというものの、さらに隅に追いやられる結果になったわけです。

 

何かにつけて、皇族をやめて早く家を出たいと話していた時期はこの頃でしょう。

 

悠仁さん中心の生活は姉妹の結束を固める一方で、孤立も深めたと思います。

それに気づかない親たち、そして公務という名の仕事には駆り出されるわけです。

 

そうこうしてるまに父親は後嗣になり、悠仁君は皇位継承2位と言われ

更には、悠仁君を助けるため女性宮家の問題が再燃し始めるわけです。

しかしこの時の野田政権は(2011年9月から2012年)、女性宮家の案は取りまとめられませんでした。

 

この頃は悠仁君5歳で、障害があることはすでに分かっていたと思います。

女性宮家はそうしたことへの布石でしょうし、悠仁君に子供が生まれない場合に備えてと

女性宮家の理由づけにされていたのです。

 

悠仁君の障害に無精子症があるとわかってたのでしょうね、

 

少なくても悠仁君は3歳前後、眞子さんが18歳前後には、

皇統移譲後には眞子さんが天皇になるか、

眞子さんの子が天皇になる可能性が内々で話し合われていたのでしょう。

 

そうでないと眞子さんがボーイフレンドに「天皇にしてあげる」

という発言は出てこないからです。

 

KK問題はさておき、上皇、上皇后、秋篠宮夫婦の皇統移譲の計画は。

眞子さんを翻弄し佳子さんは隅に追いやられる結果となっていったわけです。

 

今日はここまで

 

    次回は悠仁さんについて話しましょう。

 

      今日も読んでいただきありがとうございます。パー