子宮が2つってどういうこと~韓国行きたいのよぉぉ~ | love-3025のブログ

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ペット、日常、ニュースや皇室など感じたことをつぶやいてます。

      3月25日はラブと私の同居が始まった日、3年目をむかえます。

      家に来てゲージから出され、最初は私の動きだけが気になるようで

      ついて歩きまわってたけど、慣れると室内のあちこちをウロウロ、それでも

      私のいる部屋中心だったなあ。トイレなどは全く苦労せずすみ、互いに

      互いを観察する日が始まったっけ。懐かしい思い出です。

 

平成時代や秋篠宮を語ると、必ずおかしなことや不思議なことにぶつかります。

 

それの一つが、1986年の子宮筋腫の手術のことです。

以前、1963年に胞状奇胎で手術を受けており、私は子宮摘出術を受けたと思っている、

と書きました。

 

では、この子宮筋腫とは何だったのか?

子宮が二つあることになるのですよ・・・

 

胞状奇胎の頃は、昭和天皇が在位中で、美智子さんの入内に反対していたとする秩父宮や

高松宮もお元気でしたから、病名詐称はできなかったはずです。

 

そしてやはり、子宮摘出はあったと思います。

入院期間が3月22日から3月31日? 4月から一人で葉山御用邸に3か月療養し7月から

軽井沢で皇太子や浩宮と過ごし9月に東宮御所に戻ってます。抜糸なども考えると入院期間にも矛盾はありません。

 

ただ、定期的な診察は必要だったでしょうが、どうしたのでしょう?

当時はCTもエコーもなく、医師が往診してたのかもしれませんが。

 

 

【1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された[25]。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行わ

れた[25]。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる[25]。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった[26]。7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の第18回国民体育大会(山口国体)から、段階的に公務に復帰した。】ウイキペディアより

 

 

一方で、1986年の子宮筋腫はどうだったでしょうか?

この時、美智子さんは52歳、更年期中か差し掛かっていた頃ではないでしょうか?

筋腫からくる重度の貧血があれば、公務に支障があるはずですし

それなりの発表があってもいいはずですが、それについての発表はありませんでした。

重症の子宮筋腫でなければ温存療法で閉経を待つことも可能だったはずですが・・・

 

入院期間は4月8日から17日間でした。ちょっと長すぎですね。

なぜでしょうか?

            美智子様 子宮筋腫 に対する画像結果.サイズ: 133 x 185。ソース: blog.livedoor.jp

           

このシチュエーション、胞状奇胎の時もやってましたね、この時は、顔をうずめる前に

明仁皇太子に体をかわされました~。

 

話を戻します。               

 

実はこの前年に韓国から訪問の招待状が来ており、両国間で調整が進んでいました。

一時は訪問が実現するかに見えましたが、ぎりぎりの段階で中止が決まったそうです。

これに腹を立てての入院というのが真相でしょう。

明仁皇太子が、体をかわしたというのは、

「よくやるよ」、とでもいうような反応を示したのでしょう。

 

1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫手術をける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。】ウイキペディアより

 

 

美智子さんには、執念深く固執するという面があるようです、

それは、雅子皇后への執拗ないじめからも分かります。

 

この韓国訪問にもこだわっていたようで、

平成の最初の訪問国に韓国を指定し政府に折衝させています。

招待ではなく行きたいと・・・

 

余談ですが、こうした姿勢が統一教会に近づいていく、つけいれさせる要因になった

かもしれないと思いますよ。

 

 

こだわった背景に、行きたいという思いも当然あったでしょう。

皇族として初めてという初めて好きと、さらに目立ちますし手柄のようにもなるでしょう。

まして、母親は韓国系中国人の血を引いているともいわれてます。

 

とにかく韓国訪問は、叶うことはありませんでした。

 

因縁めいているのは、高円宮様が無くなる半年前にサッカーワールドカップで

皇族として初めて韓国訪問を実現しています・・・

日本サッカー協会の総裁でしたからね。

 

美智子さんは相当、面白くなかった事でしょう。

 

 

  今日はここまで

 

      今日も読んでいただき有難うございます。パー 

 

 

1月にも似た記事をだしています。

この時は、ヒステリー入院と土下座外交が焦点でした。

ずっとはれない疑問にこだわってるわけですが、闇は闇ですね。

気になる方は下に貼っておきますので読んでみてください。