Lou Music & Films

Lou Music & Films

Official Blog

★14年前に記したものをリプライズします。
 思い出したことを少しづつ書き加えています。



あの日に何があったか知らない人はいないだろう。
自分も巻き込まれていたかもしれなかった。


1995年。
卒業して何となくどこかの企業に就職することに違和感を覚え
1留して大学は5年目に。
前年夏から始めた
TX報道ニュースの現場でアルバイトとして働いていた。

「業界で何としても働きたい」と必死でアピールし
良くしてもらっていた先輩の紹介で
制作会社に就職が決まったのが2月。
報道ニュースのバイトもあと少しという頃。

何かあればすぐに動ける心の準備はしていた。
”何か”とは今でいうところの”有事”

この年の1月、阪神大震災があった。

明け方まで卒論を必死に書いて眠っていた朝、
TV局のバイト仲間から電話が。
「TVを見て!」

TVスイッチを付けた瞬間、画面には高速道路が横倒しの様子が映っていた。

卒論はどうでもよくなった。

すぐに報道フロアにかけつけ
まる1日スタジオを仕切っていた。
”有事”を伝える側の心構えは
その時に養われていたのかもしれない。
卒論は教授に事情を話し、少し書き足すだけで無罪放免。
何とか無事卒業することに。



あの頃、新宿から乗る丸の内線はよく遅れていた。
「駅で不審物があるのを発見」のニュースは毎日流れていて
前兆があったのはわかっていた。
それを確かめたかったのかもしれない。

TXにはいつも9時に入ればOKだったが
あの日の前日、ついに思い立った。
「あすはいつもより1時間は早く着けるように行こう」

早めに目覚ましをかけて寝た。
しかし、少し家を出るのが遅かった。
それが幸いしたのかもしれない。

京王線・新宿駅西口改札を8:00には駆け抜けたかったが、
実際に駆け抜けたのは8:10すぎ。

そう。

後から分かったことだが
あの忌まわしき出来事が起こっていた時間は、過ぎていた。



丸の内線ダイヤはすでに乱れていた。
ホームに入ってきた車両に乗り込むも速度が遅い。
ついに赤坂見附駅付近からまったく動かなくなった。

20分、30分待てども動く気配はない。
すると、国会議事堂前駅で全員下車をというアナウンス

「いったい何が…」

駅に到着して改札を抜けとにかく猛ダッシュで地上に上がった。
どの出口から出たのかまったく記憶にないが、
目の前の光景はいままで見たことのないものだった。


霞が関方面から必死に逃げる人たち。
表情を見れば映画の撮影ではないことはわかった

空は少し黒っぽい曇天 風も強かった
激しく鳴り響くサイレンの音
逃げ惑う人の数が半端じゃない
まさに”異様”だった。

悲鳴が聞こえたのと、自分も頭が痛かったことを覚えている。

「局へ急がなくては」
 

内閣府下の交差点を南下し
米大使館の脇を通り
ホテルオークラを横目に走りながら
坂を下って神谷町へ

ホテルオークラから下る坂道の先
TX建物の奥にある神谷町交差点の先
そこにも無数の人波が

でも足は局へ向かっていた。

局に着くと、通常番組を差し替えて生中継になっていた。
すぐに報道フロアへ
バイト仲間と交代しスタジオを仕切る

無数の人並だった神谷町でも
事が起こっていたことをスタジオのモニターで知った。


あの日は何時間フロアを仕切っていただろうか。
次々と入る現場の様子と事件内容に驚愕するのと同時に
阪神大震災で経験した「伝える」という冷静さ
怒りと怖さの震えの方が強かった。

夜、志願して聖路加病院へ中継に行った。

どうしてこんなことが起きたのか。
とにかく知りたかった。

運び込まれてきた人たちで埋まっていた通路には
ほとんど人がいなかったが
院内建物内の進入禁止通路の先で
まだ治療中の方が何人もいることを聞き取った。
OAが迫っていたリポートする記者に急いで伝達する自分がいた。
伝えることが「使命」だと誓った日でもあった。


いつ 誰が 何を どこで なぜ
この姿勢はいまでも変わらない。

3月20日は忘れない

忘れるわけがない。




あれから29年。

いまも国会議事堂から日枝神社のあたりをよく歩くが
地上に出てからの
あの忌まわしい光景をどこで見たのか
内閣府下の交差点を南下したまでは記憶にあるが
周辺の建物が変わってしまい
当時を思い出せる要素は失われつつある
あの黒い曇天にも巡り合わない。

風化させないためにも
これから何度も歩いて記憶を一つ一つ辿ってみることにする。



自分の映像制作の魂を引き上げてくれた西垣さんに
この番組を捧げます。

「アミューズメント・シン時代

    ~グランドオープンまでの1年間に密着~」
中京テレビ
2023年 9月23日(土・祝)
10:55~11:25

★再放送
2023年10月 6日(金)
25:09~25:39

★Locipo ※9/23 放送後から約1か月間

 

 

 

教授が旅立った。

1月にユキヒロさんが旅立たれたのに続いて…。

何から書こうかな。

 

僕が教授の音楽に出会ったのはズバリYMOの時代。
YMOといえば「Rydeen」という意見もあるが、
僕にとっては「Technopolis」「Tong Poo」
さらにいうと「Behind The Mask」。

コードがロック調だとわかる人はどれぐらいいるだろうか?

当時、音楽好きの兄が「YMOって、すごいんだぜ」と
ウキウキで「Technopolis」のシングルレコードを手に入れて
弟である自分に見せびらかせてきた。
ジャケットに3人以上映っているのを見て
「YMOって3人って言われているけど5人かもしれないんだぞ」と
自慢げに話してきたのをいまも覚えている。
そんな興奮気味の兄の言葉を遮るように
9歳の弟は「YMOは細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏の3人が中心」と
言い張って、兄弟喧嘩したなぁ。

最初に聴いた印象は「歌がない」。
当時はテレビ・ラジオから溢れるように音楽が流れていた時代。
ここ数年の「シティポップ」ブームで
当時の音楽性の高さが証明されているが、
自分にとってはもちろん、
その頃の音楽は比較するものがないほど”最高”だと思っている。
教授はそのメインストリームではないが、
アングラの世界では知る人ぞ知るアーティストで
僕が東京の大学に行ってから、
様々なアーティストとセッションしたり、芸術家と会って飲みに行ったりして、
その方たちの中には教授と仕事をした人がいて、
その音楽性がものすごいことも知った。

「歌がない。」
でも”歌”がなくても、いまも強烈な音として印象に残っている。

歌で言うところの”サビ”ない構成、マイナーで繰り出される曲調、
後で知ったことだが、
某ヒット曲などを徹底解剖して作り上げた曲。
”行ったらいきっぱなしでもどらない”楽曲が並んだ
93年「Technodon」のアルバムの曲とはずいぶん違うが、
思わせぶりな展開は見えていた。

「Technopolis」はレコードの溝がすり減るまで聴いた。
いまでもそのレコードは残っています。
もう一度聴きたくてアルファレーベルではない、
極少数販売されたA&Mレーベルのものも所有しています。
(自分はかなりのYMOマニアでもあります。)

79年の「Solid State Survivor」が初アルバムだと思ったら
78年にファーストアルバムが出ているのを知って
大慌てで買いに行ってもあるはずがなく。
当時、イニシャル(出荷数)が数千枚だったんだから
手に入らないわけだわ…
綺麗な状態のアルバムが手に入ったのはなんとつい最近のこと。
YMOのレコードはいまも世界中のファンが欲しがっていて、
とにかく手に入りずらい状況。
「テクノデリック」初回の後に発売されたコルホースオレンジ盤が
どうしても手に入らずです。


YMOが作るサウンドはとにかくすごかった。
50過ぎた自分がいま聴いてもぜんぜん色あせない。
むしろ聴くたびに新しさを感じる。
ユキヒロさんの楽曲は

ニューウェーブに影響されている甘美な感じがモロ。

細野さんはアメリカンな感じ。
教授は独創的。
YMO散開以降、アジアを始めワールドワイドなところから
数多く影響を受けた曲を数多く作り出しているが、とにかく独創的。
訃報を伝えるメディアの中に「努力家」と書いたものがあったが、
それ以上の、地獄状態から生み出したのではと思えるものもある。

だから、永遠に残るのだと。

83年にYMOが散開したのはすごいショックだった。
散開ツアーを知ったのも12月ですでに名古屋公演は終了。
83年12月31日 NHK特番ライブを観た。
あのプリプロはいまも衝撃で、

「Propaganda~Tong Poo」はその散開ライブがベストだと思っていて、

何かの自分のライブでは
まんまラストの「Technopolis」「Rydeen」をカバーでやったほどだった。

大学に入ってジャズ研に入ると、やはりYMOマニアがいて、
ほぼ毎日YMOの話ばかりしていた。
再結成話は、その筋に近いところでアルバイトしていた
同期から聞いて知っていた。

再生ライブ@東京ドームのチケットは発売と同時にすぐ手に入れ、

初のYMO(当時はYMOに×)のドキドキ感はいまも忘れない。

しばらく余韻が残って1週間ぐらいいろんなことが手につかなかったかな。
「Technodon」のアルバムを酷評する方たちがかなりいたが、
当時としてはよくまとまめたなという印象、いま聴くとやっぱり”新しい”。
レコードももちろん入手。

その後の教授の活動はここに書ききれないが、
「1996」「BTTB」などなどアルバムが出るたびに買い込み、いまも聴いている。

教授が残した言葉の通り、
教授の作った楽曲は永遠に残る。

とにかく、YMO&教授の残したアルバム&文献を
聴きまくり読みまくっている自分でも、
まだまだ書ききれないことが山ほどあるので、
少しづつ書き記していこうと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

★13年前に記したものをリプライズします。

  思い出したことを少しづつ書き加えています。

 

 

あの日に何があったか知らない人はいないだろう。
自分も巻き込まれていたかもしれなかった。


当時の自分は大学5年
TX報道ニュースの現場でアルバイトとして働いていた。
 

1ヶ月前(1995年2月)に制作会社に就職が決まり
報道ニュースの仕事もあと少しという頃。

何かあればすぐに動ける心の準備はしていた。
”何か”とは今でいうところの”有事”

この年の1月、阪神大震災があった。

卒論を必死に書いている最中にTV局のバイト仲間から電話が。
「TVを見て!」

TVスイッチを付けた瞬間、画面には高速道路が横倒しの様子が映っていた。

卒論はどうでもよくなった。

すぐに報道フロアにかけつけ

まる1日スタジオを仕切っていた。

”有事”を伝える側の心構えは

その時に養われていたのかもしれない。

(その後、卒論は教授に事情を話し、少し書き足すだけで無罪放免。

 何とか1留だけで卒業することができました。)


あの頃、新宿から乗る丸の内線はよく遅れていた。
数日前から前兆があったのはわかっていた。
それを確かめたかったのかもしれない。

TX(テレビ東京)にはいつも9時に入ればOK。

「あすはいつもより1時間は早く行こう」

前日、早めに目覚ましをかけて寝た。

しかし家を出るのが遅かった。

それが幸いしたのかもしれない。

 

京王線・新宿駅西口改札を8:00には駆け抜けたかったが、

実際に駆け抜けたのは8:20すぎ。

 

そう。

 

後から分かったことだが

あの忌まわしき出来事が起こっていた時間は、過ぎていた。

 

丸の内線ダイヤはすでに乱れていた。

ホームに入ってきた車両に乗り込むも速度が遅い。

ついに赤坂見附駅付近からまったく動かなくなった。

20分、30分待てども動く気配はない。

すると、国会議事堂前駅で全員下車をというアナウンス

「いったい何が…」

駅に到着して改札を抜けとにかく猛ダッシュで地上に上がった。

どの出口から出たのかまったく記憶にないが、

いままで見たことのない光景を目撃した。

 

霞が関方面から必死に逃げる人たち。
表情を見れば映画の撮影ではないことはわかった

空は曇天

激しく鳴り響くサイレンの音

しかも逃げ惑う人の数が半端じゃない

まさに”異様”だった。

悲鳴が聞こえたのと、自分も頭が痛かったことを覚えている。

「局へ急がなくては」

米大使館~ホテルオークラを横目に走りながら

坂を下って神谷町へ。

ホテルオークラから下る坂道の先

TX建物の奥にある神谷町の方角

そこにも無数の人波が。
でも足は局へ向かっていた。

局に着くと、通常番組を差し替えて生中継になっていた。

すぐに報道フロアへ

バイト仲間と交代しスタジオを仕切る

神谷町駅でも事が起こっていたことをスタジオのモニターで知った。


その日は何時間フロアを仕切っていただろうか。
次々と入る現場の様子と事件内容に驚愕すると同時に
阪神大震災で経験した

伝える側という冷静さ
怒りと怖さの震えの方が強かった。

夜、志願して聖路加病院へ中継に行った。

どうしてこんなことが起きたのか。
とにかく知りたかった。

運び込まれてきた人たちで埋まっていた通路には

ほとんど人がいなかったが

院内建物内の進入禁止通路の先で

まだ治療中の方が何人もいることを聞き取った。

OAが迫っていたリポートする記者に急いで伝達する自分がいた。

伝えることが「使命」だと誓った日でもあった。


いつ 誰が 何を どこで なぜ
この姿勢はいまでも変わらない。

3月20日は忘れない

忘れるわけがない。

 

あれから28年。

いまも国議事堂前から日枝神社のあたりをよく歩くが

地上に出てからの

あの忌まわしい光景をどこで見たのか

場所はわかっているが

周辺の建物が変わってしまったのか、思い出せない。

あの曇天にも巡り合わない。

 

風化させないためにも

これから何度も歩いて記憶を一つ一つ辿ってみることにする。

 

 

 

先日、久しぶりにTXへ。

それは…

 

 

都議会特番の収録。

古巣・オフィスユニ 林田組が魂込めて制作している
あの伝統番組のお手伝いに。

 

 

なんとAP(アシスタントプロデューサー)
しかもチーフAPと言われて…もぉ聞いてないよ。まぢかよ(笑)
気分的にはADなんですけど
キャリア的には、もうPクラスなんですよね。
頼られて仕事ができることに感謝です。

 

自分がユニに入社した1995年もやっていた都議会特番。

たくみくんによると、おそらく35年以上はやっているとのこと。

もちろん最初はADでしたけど、
当時はADと呼ばれるのも言うのも嫌だったなぁ。

TV番組の制作に携わる仕事に憧れて
バイトから初めて、制作会社に入ったはいいけど、
仕事できる以前の、まったく力量がないと感じていて。

甘かったなぁ、ほんとに(笑)

 

この都議会特番で忘れられないことがあります。


先代が常に言っていたこと。

「東京を良くしていこうよ。この番組で変えていけるんだよ」

 

先代は番組に”希望”を抱いていました。
当時の自分たちのような若者の意見に必死に耳を傾けていたこと。

世直しというか、これで東京が良くなるなら必死にやろうよ!と、
やる気を引き出してくれていたこと。

そして常に先を見据えて動いていたこと。

この都議会の番組で思いを伝えていたんだなと、
離れてからわかったことでした。

 

ともかく25年ぶりの都議会特番スタジオ収録。

再び伝統番組に携われるという嬉しさで、

APなんて肩書忘れて
スタジオ&館内中を走り回って対応しました。

 

 

ADの頃は出演者打ち合わせに立ち会うことなんてなくて
「打ち合わせって何を話すのかな」
「そもそもどんな段取りなの?」とか。
些細なことしか頭になく…
当時はスタジオ周りを仕切ることだけで精一杯でしたが、

いまは出演者のケアやスタッフ・関係者の気になることを

いち早く察してどう動くとか。

スタッフの食事の時間配分をどうしようとか。

議会局に話す順番をどうする?とか。
25年経って、

見えてくることと感性は研ぎ澄まされていたというか。
先代と上羽さんはこうやって気を配っていたんだなと感じながら

つとめさせていただきました。

 

 

セットで出演者揃っての収録は2年ぶりとのこと。

25年ぶりに戻ってきたことを伝えると

さすがにみなさんに驚かれましたが(笑)

ともかく収録は無事終了。
関係者の皆様、ありがとうございました。

しばらくビシバシとやっていきますので、
今後ともよろしくお願いいたします。

 

東京都議会特別番組

「暮らしの再生!東京の挑戦」
~東京都議会各会派政調会長にきく~
6月6日(月)テレビ東京10:00~10:50
※関東ローカルだけの放送となります。

 

 

 

★12年前に記したものをリプライズします。

  思い出したことを少しづつ書き加えています。

 

 

あの日に何があったか知らない人はいないだろう。
自分も巻き込まれていたかもしれなかったのだから。


当時の自分は大学5年
TX報道ニュースの現場でアルバイトとして働いていた。
 

1ヶ月前(1995年2月)に制作会社に就職が決まり
報道ニュースの仕事もあと少しという頃。

何かあればすぐに動ける心の準備はしていた。
”何か”とは今でいうところの”有事”

この年の1月、阪神大震災があった。

卒論を必死に書いている最中にTV局のバイト仲間から電話が。
「TVを見て!」

TVスイッチを付けた瞬間、画面には高速道路が横倒しの様子が映っていた。

卒論はどうでもよくなった。

すぐに報道フロアにかけつけ

まる1日スタジオを仕切っていた。

”有事”を伝える側の心構えは

その時に養われていたのかもしれない。


あの頃、新宿から乗る丸の内線はよく遅れていた。
数日前から前兆があったのはわかっていた。
それを確かめたかったのかもしれない。

TX(テレビ東京)にはいつも9時に入ればOK。

「あすはいつもより1時間は早く行こう」

前日、早めに目覚ましをかけて寝た。

しかし家を出るのが遅かった。

それが幸いしたのかもしれない。

 

京王線・新宿駅西口改札を8:00には駆け抜けたかったが、

実際に駆け抜けたのは8:20すぎ。

 

そう。

 

後から分かったことだが

あの忌まわしき出来事が起こっていた時間は、過ぎていた。

 

丸の内線ダイヤはすでに乱れていた。

ホームに入ってきた車両に乗り込むも速度が遅い。

ついに赤坂見附駅付近からまったく動かなくなった。

20分、30分待てども動く気配はない。

すると、国会議事堂前駅で全員下車をというアナウンス

「いったい何が…」

駅に到着して改札を抜けとにかく猛ダッシュで地上に上がった。

どの出口から出たのかまったく記憶にないが、

いままで見たことのない光景を目撃した。

 

霞が関方面から必死に逃げる人たち。
表情を見れば映画の撮影ではないことはわかった

空は曇天

激しく鳴り響くサイレンの音

しかも逃げ惑う人の数が半端じゃない

まさに”異様”だった。

悲鳴が聞こえたのと、自分も頭が痛かったことを覚えている。

「局へ急がなくては」

米大使館~ホテルオークラを横目に走りながら

坂を下って神谷町へ。

ホテルオークラから下る坂道の先

TX建物の奥にある神谷町の方角

そこにも無数の人波が。
でも足は局へ向かっていた。

局に着くと、通常番組を差し替えて生中継になっていた。

すぐに報道フロアへ

バイト仲間と交代しスタジオを仕切る

神谷町駅でも事が起こっていたことをスタジオのモニターで知った。


その日は何時間フロアを仕切っていただろうか。
次々と入る現場の様子と事件内容に驚愕すると同時に
阪神大震災で経験した

伝える側という冷静さ
怒りと怖さの震えの方が強かった。

夜、志願して聖路加病院へ中継に行った。

どうしてこんなことが起きたのか。
とにかく知りたかった。

運び込まれてきた人たちで埋まっていた通路には

ほとんど人がいなかったが

院内建物内の進入禁止通路の先で

まだ治療中の方が何人もいることを聞き取った。

伝えることが「使命」だと誓った日でもあった。


いつ 誰が 何を どこで なぜ
この姿勢はいまでも変わらない。

3月20日は忘れない

忘れるわけがない。

きょう2月11日

私たち夫婦は結婚10周年を迎えました。

 

知り合いの独身の友人らで集まった婚活パーティーで

出会ったのがちょうど10年前。

 

これからもよろしくお願いいたします。

 

いつものお店で食事をいただきました。

おかみさんありがとうございました。

 

 

そして…

 

我が家に新しい家族が増えました!

 

 

らむ(来夢)くん
(チワワ オス 3か月半)

モウレツにカワイくてたまりません。

 

らむくんともども
これからもよろしくお願いしま~す!

私が所属するユニットYOuAmI(ユーアムアイ) とTripodのライブ情報です。

 

★YOuAmI

11/14(日)@江南Honey Beet

11/27(土)@納屋橋Mona Petro

 

 

YOuAmIのメンバー全員でのライブは1年ぶりです。

 

 

 

☆Tripod

12/4(土)Lima@新舞子

ラテン中心にクリスマスソングもやります。

 

相変わらずいろいろと難しい状況ですが、

楽しくやりたいと思います!

 

最近の仕事より。

失敗しないソファの買い方~ウレタン編~

https://www.youtube.com/watch?v=anRYTbzby-4&t=13s

#ソファ #sofa #NOYES

最近の仕事より。

 

TX(テレビ東京)「東京交差点」

 

日用品デザイナー 山田佳一朗
https://www.youtube.com/watch?v=yMthF8X2fVo

東京手描友禅 坂原栄
https://www.youtube.com/watch?v=qt8Cat3AFUY

江戸衣裳着人形職人 津田蓬生
https://www.youtube.com/watch?v=Od8K-aEM1UI

ヴァイオリン奏者 古澤巖
https://www.youtube.com/watch?v=ENKyoyXOHXM

クラシックギター奏者 林祥太郎
https://www.youtube.com/watch?v=gcFZSDy2tmI