29年目 REP)1995年3月20日 | Lou Music & Films

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★14年前に記したものをリプライズします。
 思い出したことを少しづつ書き加えています。



あの日に何があったか知らない人はいないだろう。
自分も巻き込まれていたかもしれなかった。


1995年。
卒業して何となくどこかの企業に就職することに違和感を覚え
1留して大学は5年目に。
前年夏から始めた
TX報道ニュースの現場でアルバイトとして働いていた。

「業界で何としても働きたい」と必死でアピールし
良くしてもらっていた先輩の紹介で
制作会社に就職が決まったのが2月。
報道ニュースのバイトもあと少しという頃。

何かあればすぐに動ける心の準備はしていた。
”何か”とは今でいうところの”有事”

この年の1月、阪神大震災があった。

明け方まで卒論を必死に書いて眠っていた朝、
TV局のバイト仲間から電話が。
「TVを見て!」

TVスイッチを付けた瞬間、画面には高速道路が横倒しの様子が映っていた。

卒論はどうでもよくなった。

すぐに報道フロアにかけつけ
まる1日スタジオを仕切っていた。
”有事”を伝える側の心構えは
その時に養われていたのかもしれない。
卒論は教授に事情を話し、少し書き足すだけで無罪放免。
何とか無事卒業することに。



あの頃、新宿から乗る丸の内線はよく遅れていた。
「駅で不審物があるのを発見」のニュースは毎日流れていて
前兆があったのはわかっていた。
それを確かめたかったのかもしれない。

TXにはいつも9時に入ればOKだったが
あの日の前日、ついに思い立った。
「あすはいつもより1時間は早く着けるように行こう」

早めに目覚ましをかけて寝た。
しかし、少し家を出るのが遅かった。
それが幸いしたのかもしれない。

京王線・新宿駅西口改札を8:00には駆け抜けたかったが、
実際に駆け抜けたのは8:10すぎ。

そう。

後から分かったことだが
あの忌まわしき出来事が起こっていた時間は、過ぎていた。



丸の内線ダイヤはすでに乱れていた。
ホームに入ってきた車両に乗り込むも速度が遅い。
ついに赤坂見附駅付近からまったく動かなくなった。

20分、30分待てども動く気配はない。
すると、国会議事堂前駅で全員下車をというアナウンス

「いったい何が…」

駅に到着して改札を抜けとにかく猛ダッシュで地上に上がった。
どの出口から出たのかまったく記憶にないが、
目の前の光景はいままで見たことのないものだった。


霞が関方面から必死に逃げる人たち。
表情を見れば映画の撮影ではないことはわかった

空は少し黒っぽい曇天 風も強かった
激しく鳴り響くサイレンの音
逃げ惑う人の数が半端じゃない
まさに”異様”だった。

悲鳴が聞こえたのと、自分も頭が痛かったことを覚えている。

「局へ急がなくては」
 

内閣府下の交差点を南下し
米大使館の脇を通り
ホテルオークラを横目に走りながら
坂を下って神谷町へ

ホテルオークラから下る坂道の先
TX建物の奥にある神谷町交差点の先
そこにも無数の人波が

でも足は局へ向かっていた。

局に着くと、通常番組を差し替えて生中継になっていた。
すぐに報道フロアへ
バイト仲間と交代しスタジオを仕切る

無数の人並だった神谷町でも
事が起こっていたことをスタジオのモニターで知った。


あの日は何時間フロアを仕切っていただろうか。
次々と入る現場の様子と事件内容に驚愕するのと同時に
阪神大震災で経験した「伝える」という冷静さ
怒りと怖さの震えの方が強かった。

夜、志願して聖路加病院へ中継に行った。

どうしてこんなことが起きたのか。
とにかく知りたかった。

運び込まれてきた人たちで埋まっていた通路には
ほとんど人がいなかったが
院内建物内の進入禁止通路の先で
まだ治療中の方が何人もいることを聞き取った。
OAが迫っていたリポートする記者に急いで伝達する自分がいた。
伝えることが「使命」だと誓った日でもあった。


いつ 誰が 何を どこで なぜ
この姿勢はいまでも変わらない。

3月20日は忘れない

忘れるわけがない。




あれから29年。

いまも国会議事堂から日枝神社のあたりをよく歩くが
地上に出てからの
あの忌まわしい光景をどこで見たのか
内閣府下の交差点を南下したまでは記憶にあるが
周辺の建物が変わってしまい
当時を思い出せる要素は失われつつある
あの黒い曇天にも巡り合わない。

風化させないためにも
これから何度も歩いて記憶を一つ一つ辿ってみることにする。