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『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 連続テレビ小説『ごちそうさん』の視聴率が、10月16日の放送で27.3%を記録し、前作『あまちゃん』の最高視聴率をやすやすと超えた。あまロス患者としては、別に『ごちそうさん』に対して対抗意識を燃やしている訳でもなく、“朝ドラの王道”を行く本作の面目躍如であるとただただ得心するのであるが、ただ、あの長身で、顔のパーツの一つひとつが際立つ女性が、明治・大正・昭和の激動の時代を生き抜いた人に見えるかと言えば、さて、どうであろう。それに、吉行和子の現在のクレジットが「ぬか床」というのは一体どうしたものであろうか。亡くなった後もヒロインを見守る祖母の役どころというのはよいのだが、大女優を捕まえて「ぬか床」呼ばわりとはあまりに失礼ではあるまいか。
 
 ところで、第73回でも記したように、今夏は尿路結石に散々苦しめられたのであるが、疝痛に身悶えしながら近所の泌尿器科へ駆け込んだところ、医者がとんでもなく横柄なのには大概吃驚した。問診票に詳細を記したにも関わらず、それを一瞥することもなく開口一番、「で、何や?」。一度記したことを再び口頭で説明するも、一々、毒交じりの合いの手を入れてくる。救急搬送された病院名を言えば、「知ってるっちゅうねん。どこどこにある、何々病院やろ? それくらい知ってるっちゅうねん」とキレられるし、どこがどのように痛いかを説明すれば、「そら、結石やねんから当たり前やがな」とツッコまれる。挙句の果てに、腹部エコーを診ながら、「結石もええけど、内臓脂肪が山盛りやで。ちょっとはダイエットしたらどないや」とまで詰られては、こちらの面目が立たぬ。会計時、渡された診察券を「二度と来ませんので結構です」と突き返して出てきてやったわ。
 
 そのような憤懣を抱えながらの“闘病”であったが、確かに、若かりし頃の「身長176cm、体重58kg」の細身はどこへやら、ピーク時よりは15kgほど落としたものの、今なお、体重計に載っては溜め息が洩れるばかりである。しかし、毎朝、『ごちそうさん』の主人公のあの「食」に対する執着心を見ていたら、ダイエットだの何だのと言って摂生に努めるのが阿呆らしくなってくるし、むしろ、食べたいものを食べたいだけ食べるのが人間としてのあるべき姿ではないかとさえ思えてくるのである。
 
 大学生になり大阪に戻ってきて一人暮らしを始めた当初、それはそれは貧しくて、例えば「具の無いお好み焼きにソースだけかけて食う」なんてことを日常茶飯事としてやっていただけに、アルバイトの時給がアップに比例して、徐々に生活水準が向上して食のレベルも上がっていったのには本当に幸せを実感できた。自分の金で寿司屋とか焼肉店とかに行けるようになったのは社会人になってからであるが、極貧を経験した戒めから、豪勢な晩餐は「頑張った自分へのご褒美」の位置づけである。所帯を持つようになった現在でも「ご褒美」は月1回というのが我が家の取り決めだ。
 
 同様に「ご褒美」を食に求めるという人は少なくあるまい。今年、私の勤務先に入社してきた大学を出たばかりのある若者が、社会人デビューして最初の1か月を頑張った「ご褒美」に、初任給を握り締め、鴨料理を食しに行った。生まれて初めて口にする鴨に、相当心を昂らせて店に入ったことは想像に難くない。一人で鴨料理というのも凄いと思うが、哀れなるかな、彼はその「鴨」に当たって吐くわ下すわの大惨劇に見舞われたのである。会社を1日休み、回復して出勤するや、上司はこう言った。「鴨ってさあ、それ自体を食うというより、どっちか言うたら出汁を取るためのもんという認識やねんけどなあ……」と。折角の「ご褒美」を出汁扱いされるなんて。
 
 彼は後に、今度は旅先で鯨を食した。下関の市場で昼食を摂ることになって、当地であれば普通はふぐを注文するものだが、メニューを眺めて「鯨を食べたことがない」と思い立った彼は、「鯨定食」を頼んだのである。旅行後、如何に美味であったかを語るのであるが、それを聞いた上司は、「あのな、捕鯨ってどうやってやるか知ってるか? 撲殺やねんで撲殺。魚には痛覚がないから釣っても酷(むご)いことはないねん。でもな、鯨は魚やないんやで。我々と同じ哺乳類やねんで。殴られたら痛いんやで。そないして捕った鯨を食うなんて、自分は一体どういう了見をしてるねん。二度と鯨なんか食うなよ、ええな分かったか!?」と、シーシェパード張りに責め立てたのだ。彼はどこまで食に関して不運なのであろうかと、いよいよ哀れに思えたのである。
 
 尤も私とて、折角下関まで行きながら、何故わざわざ鯨を食おうと思うのかと首は傾げた。彼はふぐとて食したことがないのである。それに、彼は美味いと言って憚らなかった鯨肉というものは、我々の世代にとっては(少なくとも私にとっては)、「食の拷問」たる学校給食と不即不離の関係にあり、当時のトラウマが、今でも私に、箸を鯨へは運ばせようとしないのである。
 
 如何に安価に毎日の食事を摂らせてもらっているからとは言え、あんな固く噛み切れない肉を食わされ、食べ残しは決して許されないなんて、「食の拷問」以外の何物でもあるまい。そうこうしているうちに給食の時間は終わり、掃除が始まってしまうのだが、なお解放されることなく、机もろとも教室の後ろに追いやられ、埃にまみれつつ、号泣しながら肉との格闘が続く。そのうち耐え切れなくなり、先生の目を盗んでティッシュに口から吐き出したものを包み、密かにランドセルの中に押し込む。しかし、それを忘れて数日間放置し、そこから名状し難い悪臭が放たれ、異変を察知した担任に中身を改められて自らの罪状が白日の下に晒される。クラスメイトの衆人環視の中、苛烈な折檻を受けたのは言うまでもない。私はその後暫く、鯨肉に限らず肉類の全てを拒み、「草食系男子」として過ごすようになったのである。体重58kgの痩身が保たれたのには、かかる必然があったである。
 
 こうして私の偏食は、“食わず嫌い”ではなく、“食うたけれども嫌い”として形成された。でも、それを如何にも美味しそうに食べている人の姿を見ると、自分はきっと勿体ないことをやっているのだろうという切なさに身をつまされるのだ。その思いが嵩じて、恐る恐る口にしてみると、子どものときにあれだけ忌避していたのが嘘のように、つるりと喉を通ることもある。おかげで、極めて部分的ながらも偏食を克服し、「草食系男子」は一転、「肉食系男子」へと変貌を遂げたのであるが、良いもの、美味しいものは人の人生観を変え、生きることの喜びを実感せしめるのだと思う。
 
 そして、一家の大黒柱は時に“主夫”となり、「男の料理」に目覚める今日この頃である。自らキッチンに立てば、「馳走」してくれた人への感謝を持って、心の底から「いただきます」と言えるのだ。豊かな食生活は、豊かな心と体を作る。その意味で私は、四十路を迎えてもまだまだ成長中である。
 
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 朝の起床のモチベーションであった、連続テレビ小説『あまちゃん』が終わって、間もなく1か月が経つ。この喪失感を「あまちゃんロス症候群」、略して「あまロス」というのだそうだが、正に私は、重度のあまロスである。
 
 抱腹絶倒、クドカンワールド満開の作品であったが、クライマックスであった9月以降は、ほぼ毎朝涙しながら視聴していた。特に9月2日(月)の第133話は、涙腺が完全に決壊した。本作が避けては通れなかった、東日本大震災の発生当日が、とうとう描かれたのである。少々の落涙を大仰に「号泣」と表現することがあるのだが、今回ばかりは本当に号泣であった。
 
 中でも私が駄目だったのは次のシーンである。――トンネル内で緊急停止した北三陸鉄道(北鉄)の列車に添乗していた駅長の大吉(杉本哲太)が、安全確認のために線路に降り、トンネルの出口に向かって歩いてゆく。そしてその先に広がっていた光景に愕然とする。大吉の後を、アキ(能年玲奈)とGMT5のジョイントコンサートに行くために上京すべく列車に乗っていたユイ(橋本愛)が追ってきた。大吉は言う。「見るな……ユイちゃん、見てはだめだ」と。しかしユイは、「ごめん、もう遅い……」と、力なく呟くのだった。あまりの惨状を目の当たりにし、呆然と立ち尽くすユイと、その前で項垂れる大吉の様子をトンネル越しに映すカットがあり、そして、涙が止めどなく頬を伝う大吉の表情のアップになったとき、声を上げて泣いてしまった。震災をできるだけ生々しく描かず、観光協会のジオラマで表現したことに、各方面からさまざまな賛辞が上がっているが、私はこの、ほとんど台詞がなく表情だけで表現した杉本哲太の芝居も、本作中屈指の名演だと思うのである。
 
 ところが、この大吉の芝居が、一部でちょっとした物議を醸したのである。大吉は暗いトンネルの中を歩くとき、十八番の『ゴーストバスターズ』を口ずさむのであるが、ここに物言いがついたのだ。あの状況下で歌など歌っていられるのか、と。外野の勝手な批評なら流せるのだが、被災地の人の意見として、そういう声が上がったのだから、これはちょっと立ち止まって考えなければならないと思った。自分が落涙したのは、被災地や、そこに生きる人々に思いを馳せたからというより、表現が不適切かもしれないが、「震災という劇場」への感情移入だったのだと思い知らされたのである。
 
 18年前の、阪神・淡路大震災でも、同じような思いに苛まれたことを思い出した。関西に住む人間として、直接向き合った震災であり、以前にも綴ったように、当時のバイト先が西宮北口にあって、震災後の日々は辛い記憶が残っているばかりだが、それを乗り越えた体験を語ることが、自らの美談のように映ってはいないかと、自己撞着に陥っていた。今でもそうである。山陽新幹線が復旧した日、1番列車を見送る新神戸駅の駅長が男泣きしていた。復興支援に派遣された自衛隊の人々が引き上げる日、泣きじゃくりながら謝辞を述べる少年を、1人の自衛官が抱きしめた。震災の年に生まれた子どもたちの15年後を描いた関西電力のCM『15歳の君へ』では、「君たちがいたから、15年でここまで来られた」というメッセージが語られた。いずれもテレビの前でよよと涙しながら見たのであるが、これとて所詮、手前勝手な感傷に浸っているだけではないかと、冷静に客観視するもう一人の自分がいる。
 
 「震災を描くこと。それを見て、何事かを思うこと」についての据わりの悪い感情が、心の中で渦巻いてしまった。そんな中、10月10日(木)の読売新聞朝刊に、「『あまちゃん』を終えて」と題する小泉今日子の寄稿が載っているのが目に留まった。
 

 「あまちゃん」は海女ちゃんだけど、甘ちゃんでもある。ヒロインのアキは「海女になりてぇ」「東京さ行ってアイドルになりてぇ」と夢をころころ変えては大人達を振り回す。そんな時にあの震災が起こる。誰の胸にもまだあの痛みは残っている。出来上がった台本を読んで私は泣いてしまった。誰も死なせないというのが宮藤さんの選択だった。夢の箱の中にいる私達に出来ることは希望を与えることなのだと強い気持ちが湧き上がった。ヒロインは地元に帰り、一番好きな場所で自分らしく生きると決めた。

 
 これを読んで、沢村貞子以来の“役者の書く名文”に嘆息を漏らすとともに、何だか救われたような気持ちになって、再び落涙したのである。劇中歌『潮騒のメモリー』に、「三途の川のマーメイド」という歌詞がある。最初は何のこっちゃと思ったフレーズだが、そのうち、この「マーメイド」は、これを歌う小泉今日子、つまり主人公の母である天野春子のことであり、「三途の川」の4文字から、春子はきっと3.11で命を落とすのだろうという深読みがネット上で起こった。8月も下旬となり、“その日”が近づくにつれ、本作に感情移入してしまっている視聴者は皆、胸の苦しさが増していった。でも、「誰も死なせないというのが宮藤さんの選択だった」のである。
 
 この「選択」は、グランドフィナーレの迫る9月25日(水)の第153話で、鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が歌った「三代前からマーメイド 親譲りのマーメイド」の歌詞へとつながってゆく。夏(宮本信子)、春子、アキの母娘三代が、そしてそれを取り巻く多くの個性的な人々が、ちゃんと最終回まで光を放っていたのである。寄稿はこう続く。
 

 若者達が夢を持ちにくい時代なのだと何かで読んだ。ひとりの大人として申し訳なく思う。だから最終回で、アキとユイちゃんがトンネルの向こうに見える光に向かって走り出した時、やっぱり私は泣いてしまった。夢なんかなくても、夢に破れても、何者にもなれなかったとしても、若者はのびのびと元気でいて欲しい。それだけで私達大人にとっては希望なのだから。明るい光を目指して走り出す二人は美しくて、たくましくて、眩しかった。

 
 脚本の宮藤官九郎は自身のサイトで、「あまちゃん133話。非常に重要な回なので煮詰まってしまった」と語っている。宮藤氏自身の中でも、震災をどう描くか、あるいは描くことそのものの是非についての大きな葛藤があって、“逡巡に次ぐ逡巡”の結果、描かれたのが、この「光」であったのだろう。外様の人間は、震災の辛さや悲しみにばかり目を向けては勝手な感傷に浸るのだが、「震災後を前向きに生きる」ことに思いを致せば、心持ちも少しは変わるかもしれない。それでもやっぱり、泣きながら見ているのではあるが。
 
 奇しくも、キョンキョンの寄稿に涙した日の夕方からは、同志社大学寒梅館ハーディホールで『大友良英×あまちゃんスペシャルビッグバンド』のライブが開かれ、それに行った。大友氏のトークや劇伴制作の裏話に笑いながら、半年間聞き馴染んだ曲が次々に演奏されるのは楽しかったし、何より生演奏の迫力は圧倒的だった。パーカッションのお姉さんのあまりのカッコよさにすっかり見とれてしまい、ライブ後、地下鉄のホームで子どもが『暦の上ではディセンバー』を熱唱するのには笑ってしまった。ことばの力、音楽の力に触れたこの日は、私にとって、「あまロス」を乗り越えるための、大切な1日となった。まだ乗り越えられてはいないけれど。
 私事で恐縮であるが、9月14日で40歳になった。「四十而不惑」と言ったのは孔子であるが、誕生日が来たからと言って急に落ち着きが生まれる訳もなく、相変わらず惑ってばかりである。尤も、孔子自身も、政治の世界に打って出たのは40歳を過ぎてからであり、50歳を過ぎてやっと役職を得るも、後に失脚し、亡命生活を送ることになるから、不惑以降は正に不遇の人生と言えようが、「不惑」というのは迷いを絶って、自らの思う道を進もうと決意するという意味と考えれば、腑に落ちる。
 
 私自身も、会社で一定の職責を与えられる立場にはあるものの、所詮、課長職は「中間管理職」なのであって、何となれば銃弾は上司である部長が浴びてくださるのであり、そうした庇護の下でのうのうと過ごしている。いつまでもそんなことではアカンよなあと焦燥を覚える40歳であるが、そうした安穏とした日々のツケが回ってきたのか、神は、どうやら私の体内に試練を与え給うたのだ。只今現在、尿路結石に苦しめられているのである。
 
 男性にとって、数え年で41歳、つまり満40歳というのは「前厄」でもある。逆流性食道炎やら胃潰瘍やらで、それまでの2年間で大概吐血を繰り返しているので、前厄といっても何を今更の感もあるが、年長者の方たちが口々に「厄除けに行きなさい」と宣うので、仰せに従って、正月元旦に、宝塚の清荒神に詣で、2,000円の大枚を叩いて御札と火箸をもらって帰った。ところが健康の不安は一向に拭えず、毎朝歯磨きをしてはオエオエいっているような状況であるが、遂に今夏、結石に倒れることとなったのである。よく見れば、家人が使う鏡台の上に置いていた御札が倒れているではないか。荒神様の祟りに相違あるまい。
 
 実は、結石は「5年ぶり5回目」の出場であり、背中に疝痛が走った瞬間にそれと分かったので馴れたものであるが、そうは言っても痛いものは痛いのである。よく、「死ぬほど痛い」という形容をするが、この痛みはそんな甘いものではなく、森鷗外の『高瀬舟』ではないが、「死んだら楽になるだろうということを考えてしまう痛み」なのである。
 
 初めて結石に襲われたのは20歳のとき。大学から帰り、一人暮らしのマンションでだらだらと過ごしていたら、突然、背中に経験したことのない激痛を覚えた。こういうときに限って、やれ飲みに行こうだの、やれ麻雀の面子が足らないから来いだのと、いろんな人から電話がかかってくるのである。その都度、「あー」とか「うー」とか言葉にならない言葉で応答し、「何か分からんけど大変そうやから切るわ」と言わせて話を終える。そのうち痛みは背中から腹部に移動する。壮絶な痛みのあまり、何度もトイレで嘔吐し、これ以上吐くものがなくなって、脱水症状を恐れて水を飲むが、それもまた吐いてしまう。胃の中には水しかないのだから、吐くのは当然ながら水だけである。こんなクリスタルな吐瀉物は、後にも先にも見たことがない。家の中で七転八倒しながら一晩中悶え続け、長かった夜が明けて朝一番で病院に駆け込むと、医者は開口一番、「何で救急車を呼ばへんかったんや?」と。レントゲンで米粒半分くらいの大きさの石があることを知り、利尿剤を与えられ、数日後に無事出産と相成った。
 
 2回目は25歳のとき。朝、出勤の支度をしていたら、ガス欠から一気に満タンという感じで一気に疝痛のボルテージが跳ね上がり、嘔吐でトイレの便器に顔を突っ込んだまま気を失ってしまった。そのうち、電話の鳴る音で我に返り、出てみると、職場の上司からであった。始業時刻を過ぎても出勤してこないので、どうやら激怒しているようなのだが、狂おしい痛みで動くことができず、やはり言葉にならぬ言葉で「今日は休ませてほしい」という趣旨のことを訴えた。後に、今度は寝過ごして遅刻したことがあり、平謝りの電話を入れたのだが、そのとき上司はどういう訳か爆笑していた。病気で倒れて苛烈な叱責を受け、寝坊で遅刻したときには笑って許されるというのは一体どうしたものであろうか。
 
 3回目は30歳のとき、4回目は35歳のときで、これらはさほどの痛みはなかったものの、排尿時に尿道の手前で石が引っ掛かったに違和感を覚えて、すぐにそれと判った。とにかく常に残尿感があるのが苦痛であった。初めはあまり効かなかった利尿剤が、仕事帰りに突然効き始め、当時行っていた泉北光明池の現場から、中百舌鳥、三国ヶ丘、天王寺、鶴橋と電車を降りてはトイレに駆け込み、森ノ宮で降りたときには遂に電車がなくなって、タクシーでの帰宅を余儀なくされた。こういう場合のタクシー代は保険適用にしてほしいと思った。
 
 そして5回目の今回は、よりによって真っ昼間の勤務中、それも社を挙げてのイベントをやっている最中に結石の来襲を受けたものだから、進退は窮まった。脂汗を大量に流し、背中を摩って暴れる石を宥めつつ、何とかその場を乗り切ったが、限界に達して、顔面蒼白でその場に蹲った。周囲の人々は初めて私の異変を認め、誰かが救急車を呼んでくれた。「四十而初乗救急車(四十にして初めて救急車に乗る)」である。しかしその日は日曜日、どこの病院も開いているのは救急外来のみである。ましてや泌尿器科の専門医がいるところなどなく、結局、痛み止めだけを与えられ、「明日以降にどこかの泌尿器科を受診せよ」と言われるのみなのだ。与えられた痛み止めは「ボルタレン」という最強の鎮痛剤であり、服用すれば確かに痛みは引くのであるが、切れたら疝痛は再発する。しかも飲み過ぎると胃に必ず穴が開くという恐怖の薬である。倒れたのが3日間続くイベントの初日。翌日も翌々日も職場を離れる訳にはゆかぬので、皆から救援物資として与えられた「命の水」をひたすら飲み続け、用心しながらボルタレンを服用し、その3日間を乗り切った。
 
 それから1カ月以上が経過するが、未だに“ややこ”は産まれず、数日前にCTを撮ってもらって確認した現在位置は、まだ膀胱の手前だそうである。泌尿器科医にとって尿路結石は、高名な数学者が小学1年生に足し算や引き算を教えるが如きつまらない症例のようで、どこの医者も「水をしっかり飲んで、頑張って出しましょう」と軽く言うのみなのだが、5~7mmの石が最後に尿管を通過するとき、どんな痛みが待ち受けているのだろうかと思うと、ただただ戦慄に震えるばかりなのである。
 
 ここまで、何だか闘病記のようなことを書いてきて気付いたが、きれいに5年ごとに結石に見舞われているではないか。この調子で行けば、次は45歳、その次は50歳、そのまた次は55歳……と続くことになる。私にとっての「不惑」は、一体いつになったら迎えられるのであろうか。
 一雨降って、すっかり秋の風を感じるようになった。出勤するだけで滝の如き汗をかくということがなくなったのはありがたいが、一方で、夏の終わりを実感し、そこはかとない淋しさに襲われるのである。昨今の学校では8月中に始業式を行うところも増えてきており、そのような感傷に浸る間もなく2学期のスタートを迎えるようであるが、夏休みの最後の1週間というのは、去り行く夏に別れを告げる、もっと抒情的なものであるべきだと思う。
 
 尤も企業戦士としては、そんな抒情とは無縁に日々を刹那的に過ごしているのであるが、なればこそ例年であれば夏期休暇中、日常から隔絶された長旅へと飛び出すのである。ところが今年は休みの直前に腎臓結石を患い、今以て排出されない状況で、体内に爆弾を抱えての遠出も躊躇されるので、家で大人しく引き籠もっていた。しかるに、行けぬとなれば却って旅愁は抑え難く昂るのであり、諸々のSNSで披露される知人友人の「○○へ行きました!」を見る度に、恨めしさ混じりの羨望で地団駄を踏むばかりであった。旅に出ない夏なんて、何か大きな忘れ物をしたような気がしてならない。
 
 地図を眺めては未知の風景に思いを馳せるという根暗なことを趣味としていた私は、小学4年生のとき、いつか叶えばいいなと思う旅の行程をあれこれと組んで、その風景を空想していた。いわば「机上旅行」である。それを見ていた父があるとき、「お前も岡山に引っ越してきて5年が経つのだから、一度、県内一周の旅にでも出て、自分の暮らす県について、理解を深めるとよい」と言ってきた。確かに、普段は校区外から出てはならぬという「校則」に従って閉塞的な日々を送っていたし(というのは嘘で、時折友達とその禁を破っていたが)、電車に乗って出掛けると言っても、国鉄赤穂線の西大寺と岡山の間の往復しかしたことがない。その先にまで足を伸ばせるとあって、直ちに気持ちは高揚したが、なけなしの小遣いではとても賄える旅費ではない。そこへ「ええよ、出したるよ」と、珍しく太っ腹の父。こうして、人生最初の一人旅に出ることになった。
 
 課された条件は、「1日で帰ってくること」「特急や急行に乗ってはいけない」の2点。早速、時刻表を片手にプランニングを始めた。県内を隈なく巡るならば、宇野線や吉備線、芸備線や因美線も踏破したいし、岡山臨港鉄道(後に廃止)や水島臨海鉄道といったローカル私鉄もコースに組み込みたいところであるが、「1日で帰ってくること」という条件があるのと、同じ区間を往復するのも面白くないので、逡巡の末、西大寺駅を起点として、赤穂線、伯備線、姫新線、津山線、山陽本線、そして今は廃止となった片上鉄道を周る、8の字のコースに決めた。
 
 自宅から西大寺駅までは歩いて15分。駅は既に校区外であるが、その校区境付近で上級生に遭遇して「どこへ行くん? ここから出たら先生に怒られるでぇ」と言われたが、「今日はちゃんと許可を取っているのだ!」と宣言し、勇んで歩みを進めた。そして駅の窓口で切符を購入し、10時36分、いざ、出発である。
 
 いつも乗る赤穂線の風景も、心なしか違って見える。岡山から伯備線に乗り換えて、ここからはいよいよ初めての旅である。倉敷から進路を北に変え、高梁川の渓谷に沿って進む。備中高梁を過ぎるといよいよローカル線然とした趣となり、車内の空気も長閑である。車窓に目を遣っていると、おじさんが「ボク、一人かいな。どこまで行くんじゃ?」と声を掛けてきた。県内一周の一人旅であることを説明すると、大層感心され、「気をつけて行かれえよ(行きなさいよ、の意)」と言いながら、お菓子をくれた。「旅は道連れ世は情け」とはよく言ったものである。
 
 新見に到着し、姫新線への乗り換えまで約40分ある。ここで駅弁を購入し、昼食とするつもりであった。時刻表には駅弁販売のマークがついていたはずなのだが、どこを探しても売っている様子がない。仕方ないので、駅を出て、食糧を求めることにした。ところが、うらぶれた駅前には商店すらなく、街中を当て所もなく探し歩き、やっとスーパーを見つけたときには次の列車まであと10分。踵を返して全力疾走し、駅に着いたときには既に発車1分前。駅で慌てぬよう、区間ごとに切符代を小分けにして封筒に入れていたのだが、これが仇となり、小銭を出すのに難儀しているうちに、遂に発車ベルが鳴り出した。ここから中国勝山までは、1日に8本しか列車の運行がないという今回の最大の難関であり、これを逃したら2時間40分待ち、後の行程は完全に崩壊する。半泣きで駅員に訴え、「じゃあ、乗車券は車内で車掌から買ってください」と言われて改札を突破し、間一髪、予定の列車に乗り込めた。「車内放送が終わるまで待ってね」と優しい車掌さん。無事、手書きの乗車券を発行してもらい、列車に揺られているうちに、上がっていた息も整ってきて、食べ損ねた昼食の代わりに、おじさんにもらったお菓子を口に入れた。
 
 中国勝山で一旦下車し、40分待って、当駅始発の列車に乗り換える。そのまま津山まで行ってしまえば、その先の津山線は1本早い列車に乗れてよいのだが、ここで降りたのには訳がある。始発の列車は、津山から大阪行きの急行「みまさか」に変身するのだ。こちらの乗車区間はあくまで普通列車なのだから、最初に示された条件の2つ目からも外れず、しかも鈍行でありながら車内設備や乗り心地は急行列車のそれであるから、今回の旅では唯一、贅沢な気分に浸れるのである。大阪行きの列車に乗って、生まれ育った地に思いを馳せてみたい気持ちもあった。並走する中国自動車道を行く車に次々と抜かれながら約50分揺られ、津山に到着した。
 
 津山ではまた40分弱ほど空くが、新見での失態がトラウマになっていたので、駅から出ることはせず、次の列車を待つことにした。ここから岡山までは約1時間50分。今回の旅では最も長い乗車時間であり、変哲もない山間の風景の中をのろのろと走る。特に、建部と金川の間は人家すら見当たらなく、所要約10分の駅間であるが恐ろしく長く感じられ、そのうち、実はどこかで線路が分かれていて、このまま岡山まで戻れないのではないかという強迫観念に駆られた。法界院辺りで市街地の風景が目に入ってきたときには、心底ほっとした。
 
 岡山に着いたときには18時前。夕方の通勤ラッシュの時間帯である。混み合う山陽本線の姫路行きに乗り、東岡山で右手に分かれる赤穂線を見送りながら直進し、和気に着く頃には車内も空いていた。本線ではあるが、この辺まで来ると、ローカル線と変わらぬ風情だ。15分ほど待って乗り換える片上鉄道の片上行きは、まだ19時前というのに本日の最終列車である。すっかり日は暮れて、ただ漆黒の闇の中を走るだけである。突然、街の明かりが見えたと思えばそこが終点。僅か15分ほどのミニトリップであった。
 
 ここから西片上まで徒歩で移動、赤穂線に乗り換えて、出発地の西大寺に戻ってきたのは19時46分。約10時間の旅を無事に終えた。西大寺に着く前、吉井川を渡ってすぐのところの線路際に、当時住んでいた団地が建っているのだが、見ると母と妹が、ベランダからこちらに向かって手を振っていた。大丈夫、机上の妄想旅行で鍛えた方向感覚があるのだから、迷子になどなりはしませんよ。
 
 これが私の旅好きの原点である。今年は叶わなかったが、来夏に向けて、今から早速、妄想を始めたい。
 大河ドラマ『八重の桜』も、前半のサミットである会津戦争を終え、後半の京都編へと進んでいる。そのサミットで描かれる数々の悲劇――白虎隊然り、娘子隊然り、それらの最期において「号泣する準備はできていた」のだが、それがどうしたことか、極めてあっさりとした描かれ方だったのは少々拍子抜けだった。特に中野竹子(黒木メイサ)が新政府軍の銃弾を浴びて斃れ、敵に首級を与えるを潔しとしない母・こう子(中村久美)に介錯されるというのは、会津の悲劇における一つの見せ場であるはずだが、事もあろうに娘の遺体を戦場に置き去りにしたまま逃走したのである。介錯したのは竹子の妹という説もあり、史実がどうとか、そんなことはよいのだが、デキ婚から出産を経てのスピード復帰第一作という点然り、オープニングのクレジット位置も大物俳優を差し置いての“特別待遇”である点然り、そうした鳴り物入りのキャスティングでありながら、当の黒木の最期の描かれ方がそれかい、と突っ込んでしまったのである。
 
 とは申せ、同じ娘子隊で、敵方に捕らえられ自害して果てる神保雪(芦名星)、その夫で、鳥羽・伏見の戦いの敗戦責任を負って切腹する修理(斎藤工)、さらには父である神保内蔵助(津嘉山正種)と田中土佐(佐藤B作)の2人の家老の差し違え、そして敗戦後、藩主・松平容保(綾野剛)の汚名を雪ぐべく、罪を一身に背負って自刃する萱野権兵衛(柳沢慎吾)、夫・西郷頼母(西田敏行)の登城後、家族を集めて殉死の大義を説き、一族21人とともに自刃した妻・千恵(宮﨑美子)、そして死に切れず息の残る長女・細布(たき)から「敵か、お味方か」と訊かれ、「味方だ」と答えて介錯してやる“武士の情け”を示した板垣退助(加藤雅也)等々、ティッシュなしでは見ていられない名場面は数々あり、やはり大河ドラマの華は脇役の名演だと再認識するのである。
 
 大河ドラマで幕末を描くと視聴率が取れないというジンクスがあるらしいが、「太平の眠り」から覚めて以来、激動に次ぐ激動であったこの時代には、国を守らんとした人たちの様々なドラマがあり、私の記憶にある作品だけでも、1980年の『獅子の時代』、1990年の『翔ぶが如く』、1998年の『徳川慶喜』、2004年の『新選組!』、2008年の『篤姫』、2010年の『龍馬伝』、そしてこの『八重の桜』というラインナップのそれぞれにおける役者たちの名演が印象に残る。特に、『獅子の時代』の加藤嘉の演技は、大河ドラマ史に残る絶品中の絶品ではないかと思うのだ。会津戦争に敗れ、下北半島の斗南(となみ)藩に転封になり、草の根も生えぬ不毛の地で壮絶な辛苦を嘗めながら、それでも会津藩士としての誇りだけを心の支えに耐え忍ぶも、廃藩置県の決定を知り、精神を蝕まれ、「薩長の外道め!」と叫びながら、雪の中自害して果てる――こうして書いていてもそのシーンが思い出され、泣けてくるほどである。
 
 そんなことを思い出しながらふと、これらの中では、三谷幸喜脚本の『新選組!』を長いこと見ていないよなあと思い至り、ちょうどTSUTAYAで4本1000円キャンペーンをやっていたので、続編である『新選組!! 土方歳三 最後の一日』を含む全14巻を借りて、一気に鑑賞した。9年前の作品であるが、とにかく出演者が皆若い。香取慎吾、山本耕史、藤原竜也、オダギリジョー、中村勘太郎(現・6代目勘九郎)、山本太郎、堺雅人、山口智充といった隊士役の人たち個々の若さと熱さが漲(ほとばし)り過ぎて、芹沢鴨を演じる佐藤浩市の凄味が完全に浮いてしまっていたほどである。
 
 そうした青春群像劇としての『新選組!』こそが彼らの姿だと思い込んでいたものだから、その6年後に放映された『龍馬伝』での新選組の描かれ方が180度違うのには、大変な衝撃を受けた。そこに出てくる新選組は、民衆を震え上がらせる殺戮集団であり、龍馬や人斬り以蔵を追い詰める様は、さながらテロリストの様相だったのである。とりわけ、近藤勇を演じた原田泰造の鬼気迫る演技は、バラエティ番組で「ネプ投げ」をやっていた彼とは全くの別人で、龍馬を主人公に描くとそうなってしまうのは宜なる話ではあるが、視点を変えると描かれ方はここまで変わるものかと嘆息を漏らしてしまったのである。
 
 方や、その坂本龍馬(福山雅治)は、新しい日本を作るために東奔西走し、西郷隆盛(高橋克実)と木戸孝允(谷原章介)を引き合わせ、薩長同盟成立の仲立ちをしたというのに、大政奉還の実現後、その薩長から危険視され、果ては見廻組の今井信郎(市川亀治郎、現・4代目猿之助)に斬り殺される。龍馬だって、新選組だって、会津藩だって、人のため国のために命を賭して戦った。だのになぜ、皆が皆、人の恨みや憎しみを一身に背負って、散っていかなければならなかったのか。それを思うと、そこはかとなく居た堪れない気持ちに駆られるのである。
 
 折しも一昨日は、終戦記念日であった。何かと喧しい1日であるのは例年のことであるが、それを見るにつけ、この日は一体、誰に思いを致す日であるべきなのだろうと、毎年考えさせられる。
 
 全国戦没者追悼式で、遺族代表として追悼の辞を述べた92歳の女性の、「最愛の夫を、父を、兄弟を、そして子を失った私たちの悲しみは深く、切なく、とても言葉では言い尽くせるものではありません。悲惨な戦争の教訓をしっかりと心に刻み、すべての人々が平和で、心豊かな世界となりますよう、たゆまぬ努力をいたしますことをお誓い申し上げます」と述べる矍鑠たる姿が印象深かったし、8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、田上富久市長が「あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです」と若者たちに語ったメッセージも深く心に響いた。
 
 「戦争を知らない子どもたち」が大人になり、そのまた子どもたちである我々も大人になって、戦争体験者の生の声を聴くことがそろそろ叶わなくなる。国のために身を捧げ、散っていった人たちを「英霊」と言う。確かにそうした人たちがあって今の日本の平和はあるのだろうが、「お国のため」と信じて戦った人たちの遺族のやり切れなさは、68年を経た今でも根強く残っているのだろう。立場を変えれば戦禍のあったいずれの国の人たちとて同様。私はあくまで、戦争に命を散らした人々、そして悲しみを背負って今なお生き続ける人たちに思いを致したいのだ。そしてそのためにはやはり、戦争体験者の「声に耳を傾けてみ」ることが必要だろう。「人のために働いたゆえの悲しみ」という痛切なパラドックスを理解することができれば、卑小なことかもしれないけれど、日々の人間関係における争いや諍いにも、立ち止まって何事かを考えることだってできるのではないかと思うからだ。我々市井の人間が作りゆく「平和」って、そこから始まるのではないだろうか。