『虹のかなたに』 -11ページ目

『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 「夜は眠るものである」と誰かが言ったのであるが、近年では、都市部はおろか、郊外や人気の少ない田舎でさえ、ロードサイドには様々な24時間営業の店舗が煌々と灯りを点しており、「眠らない人」の需要を満たしている。その嚆矢と言えるのが、おそらくコンビニエンスストアであろう。
 
 私の住んでいた街に初めてコンビニができたのは確か中学1年のとき。岡山市の西大寺という街に、ローソンがオープンして、部活の帰りによく寄っていたものである。それからの人生を顧みるに、私の人生はコンビニとともにあったと申しても過言ではなく、コンビニがなければ生きていけないと強迫観念的にさえ思うのである。例えば、仕事の関係で、南海電車の泉大津駅前のホテルに宿泊したことがあるのだが、急行も止まるこの駅前にコンビニが一軒もないのには仰天した。スーパーもあるが、こちらは最終電車であるから既に閉店後。こんなところで食料調達に困難を極めるとは夢にも思わず、あのときは正に生死の境を彷徨ったものである。
 
 それほどまでに深いコンビニとの蜜月関係にも、結婚すれば終止符が打たれるだろうと思っていたが、全くそんなことはなく、飲み物だのタバコだのと、結局帰宅時にはほぼ必ず立ち寄るし、会社の昼休みも、毎日外に食べに出ることが許される財政状況でもないから、専らコンビニのお世話になっている。そして、それほどまでに不即不離の関係であるコンビニなればこそ、どうしてもアラも目に付いてしまうのである。私もサービス業の端くれとして、自身の体験から、「接客業の心得5訓」を自説として述べてみたい。
 
 今でも十分に貧しいが、一人暮らしを始めた当時は本当に貧しくて、自宅から通学していた大学の同級生から、「オカンがMくん(私の名)に持って行ったげって」と言って、救援物資として米の施しを受けていたほどである。これでは早晩、孤独死すると思って、アルバイト探しを始めた。当時はネットなんてものは当然普及していなかったから、バイト探しの手段は専ら、コンビニで売っている情報誌である。近所のコンビニでそれを買おうとしたら、店長の妻と思われる、宮崎駿作品に出てくる魔女もしくは鬼婆の如き様相の店員が、「兄ちゃん、バイト探してるんやったら、ウチで働き! ほら、これの○ページにウチの求人載ってるやろ? こんなん買わんでええから、今すぐ履歴書持っといで!」と物凄い剣幕で迫ってくるのである。「頼むから売ってくれ」と懇願してその場を逃れたのであるが、あの形相は今思い出しても身震いするほどである。第1訓は、「客に凄むな」。
 
 その後、塾講師のバイトを始めたのだが、業態の性質上、必然的に帰りが遅くなる。いつしか自炊をしなくなって、駅前のコンビニに日参するようになった。毎晩遅くに帰宅するものであるから、ある日、店長と思しき人が、「毎日遅いですねぇ。何の仕事してはるんですか?」と訊いてきた。「塾の講師ですが」と答えると、「こんな遅い時間まで子どもが勉強してるなんて、世の中何かが間違ってますよ!」と激昂し始めた。何故コンビニ店員風情に自らの仕事を批判されなければならないのだと思い、「そんな間違った仕事に従事してる私も人間として間違ってるんでしょうね。二度と来ませんから」と応じた。店長は我に返って周章狼狽するのであるが、男に二言はなく、以降は他のコンビニを利用することにした。後にこのコンビニは潰れている。第2訓は、「客を説教するな」。
 
 勤務先が入居しているビルの1階に某コンビニがあり、わざわざ他に行くのも面倒なのでよく利用するのだが、ここの店員の過半数が、とにかく無愛想なのである。たばこを所望しても「はい」とも言わないし、弁当を持って行っても「温めますか」がないので「これ温めてもらえますか?」と言ったら、これまた返事がないどころか“なんでやねん”みたいな顔をするし、節分に恵方巻を買ったときに「お箸要りますか」と訊いてくる(そもそも普通は「ご入り用ですか」と言うものではないのだろうか)ので、丸かぶりに決まっているから「結構です」と答えたら、どうした訳か失笑してくるし、もう、酷いなんてものではないのである。何より、商品でも釣銭でもレシートでも、片手で渡してくるのがいただけない。それは店長らしき男まで同様であるから、店員の質は推して知るべしというものである。第3訓は、「客には両手で物を渡せ」。
 
 そうかと思えば、結婚前に住んでいたところの近くのコンビニでは、釣り銭とレシートをちゃんと両手で渡してくれるのはいいのだが、それが行き過ぎて、こちらの手をぎゅっと握り締めてくる、ゴリラみたいな顔の男がいた。しかもゴリラは、こちらを見つめながら、その顔で満面の笑みを浮かべてくるのである。人の好みはそれぞれであるから他人様にとやかく言うつもりは毛頭ないが、私はいわゆる「薔薇」が大嫌いなのである。という訳で第4訓は、「客に色目を使うな」。
 
 コンビニではないが、「スマイル」を0円で販売している某ファーストフード店では、エコという大義名分の下に、持ち帰り用の手提げ袋を省略するということをやっている。その考えに別段異論はないのだが、こちらは既に大量の荷物を持っているときもある。それでも、複数の紙袋をそのまま渡そうとされることがあり、ハンバーガー20個を注文した客に「店内でお召し上がりですか?」と訊くという有名な“愚問”と同様、マニュアルを遵守するあまりに全く機転の利かぬことだと憤懣を覚えるのであるが、コンビニでも似たようなことがある。温かいものと冷たいもの、あるいは食品と日用品を分けて袋詰めするのは基本なのであろうが、しかし、他の荷物で両手が塞がっているときに、3つも4つも袋を分けられたのでは、こちらは一体どうやってそれを持てばよいのだろうか。汁物が入った袋を渡された日には、帰宅までに中身がこぼれて袋の中が洪水になるのは必定である。その点、一流と呼ばれる店では、他の荷物を見て、「袋をお纏めいたしましょうか」と訊いてくるものであり、それくらいの視点はコンビニでも持ったらどうかと思うのである。最も大事だと思う第5訓は、「客商売たるもの、状況感受性を磨け」。
 
 「客は神様だ」と尊大なことばを振り翳すつもりはないが、しかし自身の生活は詰まるところ客によって支えられているのだから、商売する側は「客は神様だ」との意識を持つべきだと思うのである。私は、現業を離れて今は販管部門に籍を置いているが、今でも現業の人たちの向こうに存在する顧客の顔を思い浮かべながら仕事をしているし、それはまた、現業出身者の矜持でもあるのだ。アベノミクスの推進で物価が上昇し、消費が冷え込むと見る向きもあるようだが(そんな単純な理屈でもないのだろうが)、そうであるならば、サービス業に従事する者は、その原点に思いを致して、自らの手で消費者の購買意欲を高めねばなるまい。特にコンビニなんて都市部では飽和状態で、栄枯盛衰も激しいのだろうから、もう少し危機感を持って商売してもらいたいものである。こっちは、あなたがいなければ生きてゆけないのだから。

 弥生三月。世間ではそろそろ卒業式シーズンである。この時期になると毎年、YouTubeなどに上げられる各地の卒業式の動画を見ながら、一人感傷に浸るという何とも根暗なことをやっている。とりわけ卒業生退場のシーンなどは最も感極まるクライマックスであって、清楚な女子がハンカチで涙を抑える姿は誰であっても絵になるし、ヤンキーどももちゃんと卒業式には出席して、粋がりつつもそれなりに振る舞っている様子は微笑ましくもある。そして、卒業式の情感を盛り上げるのに欠かせないのは、バックに流れる音楽の数々である。
 
 一般的にどうなのか分からないが、クラブ活動への入部を考える際、男子たるもの運動部に入らずして何とせんや、といった空気というか風潮がどこかにあって、私も小学校のときには剣道を習い、その後水泳に転向して、その流れで中学も水泳部に入ったのだが、実は、本当に入りたかったのは吹奏楽部だったのである。昔から、音楽に造詣を深めることにはほのかな憧れがあって、例えば小さい頃、妹が習っていたピアノの先生の美しさに見蕩れながら、自分もピアノが弾けるようになりたいと思った私は、家に誰もいないとき、密かに鍵盤の上に指を運ばせてみたりしたものである。結局、憧れは憧れのままこの歳まで生きてきて、何らの心得も持たずじまいであるが、もし、人生をやり直せるなら、もっと音楽とともに歩んでいきたい。
 
 小学校のとき、4年生と5年生の選抜されたメンバーで、卒業式の「俄か楽団」が結成されていた。私の通った小学校では、3年生以上が卒業式に出席することになっていたのだが、楽団の演奏する楽曲の数々が、9歳の心にも十分沁み、また演奏する上級生たちの姿は大層格好良く見えたのである。そして、自分もあそこに参加したいと、密かな憧れを抱いていた。でも、ここでもやはり「男子が音楽なんて」という気持ちが働いてしまい、4年になったときに、自ら手を挙げることはできなかった。卒業式では、主役である6年生よりも、楽団の演奏ぶりばかりに目が行っていた。中でも1つ上の男子が、華麗な手捌きでティンパニーを叩いている姿は、同性ながら惚れてしまいそうになったほどで、「男子でもあんなに格好良く音楽ができるんやぁ」と思った私は、来年こそは必ず立候補しようと、固く決意したのである。
 
 そして5年になって、それでも多少の躊躇はあったものの、クラスメイトの推挙もあって、晴れて「俄か楽団」のメンバー入りを果たした。どういう訳か私はアコーディオンのテノールのパートに当たったのだが、1月から足掛け3ヶ月間、毎日放課後に行われる練習は大層厳しかったが、楽しく心地良い時間でもあった。入退場曲はベートーヴェンの交響曲第9番から『喜びの歌』。それに式典曲の定番である『君が代』、『蛍の光』、『仰げば尊し』。そして校歌で締め括るという王道のラインナップに加え、卒業証書授与の間エンドレスで演奏する「6年間の思い出の曲」は何と60曲にも及び、譜面と曲順を覚えるだけでも血を吐きそうなほどに大変だったが、『うみ』、『春がきた』、『虫のこえ』、『夕やけ小やけ』、『春の小川』、『ふじ山』、『もみじ』、『思い出』、『おぼろ月夜』、『ふるさと』等々、参列している保護者の涙腺を決壊させるにはあまりに十分な曲目揃いで、今こうして筆を執りながらそれらの曲を口ずさんでいても込み上げてくるものがある。これは小学校6年間での大きな思い出の一つだ。
 
 中学は前述のとおり水泳部に入ったのだが、2年のとき、どういう経緯か記憶にないが、1つ下の女子と競泳の勝負をすることになった。結果、コンマ数秒の差で敗れ、この上ない屈辱のあまり、その日を限りに不登校ならぬ「不登部」になってしまった。彼女は後にインターハイに出場するほどの猛者で、学年や性別の差こそあれ、そんな人間を相手にコンマ数秒差とは私もよい勝負をしたと勝手に思うのではあるが、それも所詮負け犬の繰り言で、その程度の実力だったと諦念する他はあるまい。そんなことがあり、塾に通う訳でもなく、暇を持て余すばかりの帰宅部員になったのであるから、当時付き合っていた彼女が吹奏楽部だったことも手伝って、音楽への想いは再燃したのである。水泳をやっていたくらいなので肺活量には自信があり、それを理由として吹奏楽部への勧誘も受けたが、こちらはこちらで、地方大会に出るような強豪であったので、素人が突然入ったところで足を引っ張るだけだろうと憚られてしまい、卒業まで帰宅部で通した。でも、種々の式典や体育祭、文化祭などで吹奏楽部の活躍を見ていると、ああ最初から入部しておけばよかったと思いは募る一方であった。
 
 中学の卒業式は、小学校のような「俄か楽団」ではなく、吹奏楽部による本格的な演奏であるから、重厚感や迫力は全くその比ではなかった。大仰でも何でもなく、演奏を聴いているだけで鳥肌が立った。そして、「これは一体何という曲なんや!?」と猛烈に印象に残ったのが、卒業生入場の曲である。退場曲はH₂Oの『思い出がいっぱい』で、アニメの主題歌でもあったからこれは知っているのだが、入場曲が分からないしどうしても知りたい。でも、今日で卒業であるから誰にも聞けない。彼女に訊けばええがなって? 既に別れとったわ。
 
 それから高校進学後も、大学に入っても、耳コピ(?)による鼻唄で、吹奏楽部の人を中心としていろんな人に曲名を問うて回ったのだが、誰一人として正解を教えてはくれない。悶々として歳月が流れること6年。たまたま見ていたニュースで、阪神・淡路大震災を乗り越えた兵庫県の県立高校の吹奏楽部に密着するドキュメンタリーをやっていた。震災で多くの部員を失い、部員たちはどうすればよいのかと途方に暮れるが、残されたメンバーで態勢を立て直して懸命に練習に挑む。そして万感の思いを込めて、卒業式の日、それを演奏し、卒業生を送り出す。そう、これが、私の中学の卒業式で流れていた、あの曲だったのだ。J・スウェアリンジェンの『ロマネスク』という名の曲だという。VTRが終わった後、キャスターの安藤優子は号泣していたが、涙が止まらぬのはこちらも同様である。早速、梅田マルビルのタワーレコードに駆け込み、念願のCDを購入して、来る日も来る日も永久にリピートして聴き入った。
 
 今はネット上でいとも容易く聴くことができ、タイトルが分からなくても、何かキーワードを入れて検索すれば、そうした楽曲の数々との邂逅が果たせる。件(くだん)の『ロマネスク』は、その道の人たちには一様に「ああ、あのしんどい曲ね……」と気のない所感を述べられるが、私には卒業シーズンのこの時期、決まって思い出される名曲であり、青春の輝きの象徴とさえ言ってよい。
 
 さて、「春は名のみの風の寒さ」ではあるが、それでも卒業式は大人へと一歩を踏み出す晴れやかな日である。その晴れやかさは、希望に満ちた卒業式ソングとともにある。その感慨を噛み締められる幸せに、学び舎を巣立つ若者たちには思いを致してほしいものである。

 大阪の京橋駅の、JRと京阪電車の間の乗り換えコンコースというか広場みたいなところには、いつからか塵取りが置かれ、灰皿として利用されている。JRのホームは完全禁煙、京阪電車も京都方面のホームの端に喫煙ルームがあるのみで、電車に乗る前に一服しようとする者たちがそこら中にポイ捨てするものだから、堪りかねた誰かが置いたのであろう。こういうものがあれば、人はきちんとそこへ集まって喫煙し、ちゃんとその塵取りへ吸殻を捨ててゆくのである。勿論、隔離された空間ではないから、付近を歩く嫌煙者からすれば副流煙を吸わされることに変わりはなく、抜本的な対策になってはいないが、少なくとも街の美観という点では大きな改善であり、そうでなくても猥雑である街に出現した、ちょっとしたオアシスの如きスポットと言えよう。
 
 その塵取りが置かれている植え込みの囲いに、薄汚れた一つのレリーフが埋め込まれている。「花ずきんちゃん」である。今日日の若い者はそれが何かを知らぬであろうが、1990年、大阪の鶴見緑地で開かれた、国際花と緑の博覧会、通称「花博」のマスコットキャラクターである。ここでたばこの1本でも燻らせなければ決して気づくことのない、日陰の花たる「花ずきんちゃん」だが、博覧会というものにえも言われぬ郷愁を覚える私には、紫煙と土埃に塗れた「花ずきんちゃん」を見る度に、何だか物悲しい気持ちに駆られるのである。
 
 生まれて初めて足を運んだ博覧会は、「ポートピア’81」の愛称で親しまれた、1981年の神戸ポートアイランド博覧会だった。この博覧会で胸が高鳴ったのは、何と言っても「ポートライナー」である。今でこそ各地で走っている新交通システムであるが、当時は世界初の無人自動運転システムによる電車として話題を浚った。運転士がいないのだから車両の先頭部も乗客に解放され、そこに齧り付けば運転士の気分が味わえるという、子どもにとっては垂涎の的であった。そのスポットでは当然ながら、多くの子どもたちによる争奪戦が繰り広げられたのであるが、「大阪のおばちゃん」たる母親の従姉がそれを押し退け、私に“運転士席”をキープしてくれた。周囲の子どもたちから突き刺さる冷たい視線に居た堪れぬ思いを抱きつつ、三宮からポートアイランドを一周し、再び三宮に戻る、1周約30分の旅を楽しんだ。そのとき車窓に映った、ポートピアランドの観覧車は、遊園地そのものが閉園して跡形もなくなり、コーヒーカップの形が印象的だったUCCコーヒー館も、その後の大改装で当時の形は止めていない。
 
 その4年後の1985年には、国際科学技術博覧会、通称「科学万博」が、今の茨城県つくば市で開かれた。当時の私は、公式ガイドブックを買って毎日眺めては、会場内のさまざまなパビリオンをどういう順序で巡るか綿密な計画を立て、マスコットキャラクターの「コスモ星丸」の絵を毎日描いては、遠く離れたつくばの地に思いを馳せた。中でも心を鷲掴みにされたのは「住友館 3D-ファンタジアム」で、ミラー張りの建物に立体の黄色いフレームが空中に浮かんで見えるその外観はそれだけで、田舎の少年をして「これこそが21世紀の科学なのだ!」と訳の分からぬ高揚をせしめるのに充分だった。思いは日々嵩じ、夏休みには是非とも連れて行ってほしいと両親に懇願した。叔父母夫妻が東京に住んでいたので、そこに預かってもらう形でこの願いは実現しかけたのであるが、子どもには分からぬ「諸般の事情」で結局見送られた。夏休みは毎日、会場の様子を中継する番組を見ては地団駄を踏み、始業式の日には、「つくばに行ってきたぁ!」と自慢げに語りながらお土産を配るクラスメイトをただただ恨めしそうに見つめるばかりであった。私の頭の中では今でも「つくば=科学の聖地」の等式が成り立っているのであるが、実際のところはどうなのだろう。
 
 1988年には、瀬戸大橋の開通を記念して、岡山と香川の両県で、瀬戸大橋架橋記念博覧会、通称「瀬戸大橋博’88」が開かれた。1889年に、香川県議会議員の大久保諶之丞が架橋を提唱し、周囲からほら吹き扱いされてから約100年、本州四国連絡ルートで全通したのはこの瀬戸大橋が初めてで、両県では大変な盛り上がりを見せた。当時岡山に住んでいた私は、4月の開通後、「何を措いてもまずは渡り切らねばならぬ」と勇んで、快速マリンライナーに乗って高松に行った。国鉄からJRになったばかりの真新しい鉄路、しかもそれが海の上を渡るというのは物凄いことに思えた。しかし、博覧会の方は「近場なのでいつでも行ける」という思いもあってかなかなか足を運べず、やっと行けたのは会期の最終日、夏休みも終わろうとする8月31日のことであった。会場内はごった返しているかと思いきや意外にそうでもなく、「博覧会はパビリオンの前で辛抱して待つもの」という定説もどこへやら、すんなりと入場できた。どんなパビリオンがあったかも今となってはあまり記憶にないが、これで閉幕という万感が胸に迫ったのか、コンパニオンのお姉さんが号泣していたことだけ、はっきりと覚えている。

 
 それからもう25年、四半世紀が経ち、今でも出張で年に1~2回は瀬戸大橋を渡ることがあるのだが、会場の跡地であるJR児島駅前は、相変わらずだだっ広い空き地である。2005年の愛知万博は結局行くことができず、その4年後に漸く、跡地の記念公園に行ったのだが、人もまばらで、閉幕と同時に「海上の森」に帰っていったはずのモリゾーとキッコロのオブジェがぽつんと立っているのが、哀愁を醸し出すばかりであった。博覧会というものは、そのときは都市や国家を挙げてのお祭り騒ぎであるが、閉幕後はいずれもが「夢の跡」であり、その寂寞たる姿が、一層郷愁を駆り立てるのかもしれない。
 
 1970年の大阪万博は、開催から40年以上が経過した今でも、単に「万博」と言えばこれのことを指す場合が多いくらい、大阪にとっても、あるいは日本にとっても、その成長や発展を語るときにこれほど大きなエポックはあるまいと思う。私は1973年の生まれであるから、「万博」を実体験した訳ではないのだが、それでも往時を回顧する映像や資料を見るにつけ、何としてもその熱気を肌身で感じたかったと、「万博」への想いは募るばかりであり、この点に関してだけは、生まれる年を間違えたと強く思うのである。エキスポランドはあの事故でその姿を消し、個々に見れば往時を回顧できるスポットもあるのだが、風雪流れて、今も変わらずその姿を止めるのは、「太陽の塔」だけであろう。閉幕後に撤去する話もあったそうだが、署名運動が功を奏して、今もこうして、千里の丘から大阪の街を、そして我が国の姿を見つめている。郷愁に駆られる人々の想いなど、我関せずといった趣でさえある。
 
 背中に描かれた黒い顔は「過去の太陽」、お腹の部分にあるのが「現在の太陽」、そして天辺に輝く黄金の顔は「未来の太陽」を表現しているという。3つの太陽が見てきたこの街の、この国の姿の変遷は、必ずしも「国破れて山河在り」の光景ばかりではあるまいが、ならば「未来の太陽」に問いたい。この先、人類はどう進歩し、そして何より、どのように調和を果たしてゆくのであろうか。

 時は受験シーズン真っ只中である。私は地方の田舎で育ったので、中学受験などは全くの無関係に生きてきたし、高校受験も塾なんてものには一切通わず、大して緊張することもなく過ごしたので、至って悠長なものであった。ただ、そんな次第で入学してしまった高校は県内でも屈指の進学校であったから、入った後の苦行たるや並大抵のものではなく、最初のテストの席次は510人中495番くらいで、教師からは「高校というのは義務教育ではないんだから、いつでも辞めていいんだよ」と罵られ、随分と肩身の狭い思いをしたものである。
 
 だから、大学受験は相当な緊張感の中、必死のパッチで挑んだ。センター試験で私の志望校は8割がデッドラインと言われていたので、それはもう、過去問は文字通りに擦り切れるまでやり込み、やり尽くした。が、已んぬるかな、事もあろうに私の受験の年度から、出題傾向が激変したのである。特に最も苦手だった英語は、「これしか出ないからこれだけやっておけばよい」と言われていたものがこの年から全く出ず、狼狽のあまり腹痛を催し、腹が回転を始めれば頭の回転は停止するものだから、結果は惨憺たるものであった。その夜、ラジオの解答速報を聞いて、「物が喉を通らない」という体験も生まれて初めてやった。結末は申すまでもなく、「高校4年生」として、あと1年の受験勉強に挑むことになる。
 
 受験残酷物語をお聞かせしようとしているのではない。指定校推薦で早々に進学先を決めた1人の男の姿が、かかる受験の労苦と連関して思い出されるのだ。指定校推薦というのは大体秋口には決まるものである。概ねの者は、一般入試を受ける者に配慮して秘めているものであるが、この男はそれを放言するばかりか、早々に運転免許を取得して親の高級車を乗り回し、我が世の春を謳歌していたようである。推薦を受けるには高い評定を得ねばならず、それは平生の努力が物を言うのであるから、一般入試組が彼に何らの怨嗟を向ける筋合いはない。しかし、よりにもよって、我々のセンター試験前日にスキーから帰ってきた彼は、来なくてよいのに学校にやってきて、「明日は頑張ってねぇ」と言って、お土産のお菓子をクラスメイトに配り始めたのである。私は「はいはいありがとう」と受け取ったのであるが、1人の女子が、それを手にするや床に叩き付け、鬼気迫る形相で彼を睨み付けながら、あらん限りの力で踏み潰した。呆然と立ち尽くす彼に、私は「もう少し空気が読めたらよかったのにね」と声を掛けるのが精一杯であった。
 
 浪人の1年間は正にストイックな生活を営む日々であったが、休みの日に、現役合格組がやはり車で現れ、大学生活が如何に楽しいものであるかを滔々と語るのはなかなかに恥辱であった。車を乗り付けてくるのも大概忌々しいものであるが、合宿免許で出会った女性との目眩くひと夏の経験を語られるのも、禁欲生活を送る者にとっては拷問に他ならず、所詮、負け組の僻みではあるのだろうが、耐え難き地団駄の夏であった。そのうち、自分の中で「大学に受かること=車に乗れること」という、今思えば訳の分からぬ等式が成り立ち、それが一つの動機になって、受験勉強に弾みがついたのは大いなる皮肉である。
 
 さて、翌年に、1年遅れの「大学デビュー」を果たすことになった。「デビュー」を華々しく飾るのは何を措いても運転免許取得でなければならない。いきなり学業をそっちのけでアルバイトに精励し、教習所代をあくせく稼いだ。そして元手を握り締めて大学生協に駆け込み、鶴見区の某自動車学校の入学申し込みを行って、意気揚々と通学した。大阪市内でも随一の指導の厳しい学校で、車庫入れやS字、クランクは上手くできるのに、なぜか縦列駐車だけ失敗してはボロカス叱られ、路上教習では、全方向一方通行で左折するしかない交差点で、そうとは気付かず何も言われないから直進しようとしたら、「止まれやゴルァァァ!」とブレーキを踏まれ、何度も心が折れそうにはなったが、4段階見極めまで何とか一発でパスして、後は卒業検定を残すのみとなった。が、驚愕の事実が発覚する。学科の25教程を受け忘れていたのだ。次回の受講では教習期限(当時は6か月)を過ぎてしまう。受付のおばちゃんに交渉したがあえなく決裂、「仮免許再入学で10万円払ってもらったら行けますよ」とつれないお言葉。貧乏学生が10万円もの大金をポンと払えるか。そういう訳で、私は「自動車学校中退」という人生の汚点を20歳にして残してしまったのである。
 
 大学の先輩が、試験場飛び込みで運転免許を取得したという話を聞いて、私も仮免許は持っていたからこの人の指導を仰ぎ、同様に飛び込みに挑むことにした。学科試験は余裕でパスし、1週間後に技能試験がある。そして当日、早起きして試験場に向かおうとしたのだが、駅で切符を買う段になって大変なことに気付く。財布にお金がない。この時代、コンビニにATMなどなく、銀行が開くのは9時であるが、試験開始は8時30分である。結局受験できず、仮免許も失効して、あれほど渇望した運転免許証は、果てしなき彼方へと飛んで行ってしまったのである。
 
 いつしか運転免許への執念も消え失せ、そのまま6年が過ぎたが、流石に免許もないのに就職もできまいと思い、今度は必要に迫られて、都島区の自動車学校に「再入学」することにした。体はよく覚えているもので、教官という教官が、「キミ、車乗ったことあるやろ?」と問うてくる。見ただけでそれが判るとはさすがはプロと感心したが、「いえ、初めてです」と何の得にもならぬ嘘をつき、あれよあれよと卒業検定まで進んで、晴れて普通自動車第一種免許を取得した。
 
 それからもう、15年が経つ。私の免許証は、燦然と輝くゴールドカードである。ペーパードライバーなのだから当たり前だ。「大学デビュー」前はあれほど車というものにあれこれと妄想を巡らせたものであるが、今となっては「車は動けばそれでよい」という発想で、たまにレンタカーを借りて、ドライブそのものを楽しむ程度である。日常的に乗らないくせに、道にだけは大層詳しく、去年の黄金週間は、一切の渋滞に引っ掛かることなく岡山県の津山まで往復し、一緒に行った同僚をして「人間カーナビ」と呼ばしめたほどであるが、都会で生活していたら車などなくても特に困ることもなく、大阪市内で車を持つには維持費が家計を逼迫するし、必要なときに借りればそれで事足りるから、この先永劫に、マイカーを持つことはないだろう。
 
 警視庁発表の「運転免許統計」によると、都道府県の公安委員会が認定した指定自動車教習所の卒業者数は約156万人(2011年)で、2002年と比べると約40万人も減っている。それに伴い、教習所はこの10年で100校以上が廃業に追い込まれたという。自動車学校も生き残りをかけて、昔のような「鬼教官」は姿を消し、「接客業」に徹しているそうだ。あるべき姿とは思うが、隔世の感を覚えずにはおれない。そして我々の世代にとって、「車への憧れ」もまた、バブルの遺産だったのかもしれない。
 地下鉄御堂筋線の中程6号車は、平日の終日、女性専用車両に設定されている。女性専用車両の是非を巡ってはさまざまな議論があるが、ここではそれに触れない。御堂筋線の場合、当該車両にはキユーピー(「キューピー」ではない)とかAIDEMとかパチンコのマルハンとかの目立つラッピング広告が施され、明らかに他の車両と趣が異なるので、一瞥しただけでそれと分かる。ホームの乗車目標にもピンク地の目立つサインが描かれているし、車内の吊り革も全てピンク色である。それに何より、車内の乗客は全員女性である。そこまで徹頭徹尾「女性専用」であることを強調されれば、普通は間違って乗車することはないと思うし、それが解除される土曜・休日でさえ、6号車への乗車は心理的に憚られてしまうほどに異彩を放っているのであるが、不思議なるかな、1編成に最低1人は、必ずと言っていいほど男性の姿が見えるのである。端から淫行目的で堂々と乗車しているのであれば、国家権力に任せておけばよいので敢えて何も言うまいし、「女性専用車両は逆差別であり、何ら合法的な施策ではない」と叫びながら乗車を強行する男性も、勝手にすればよい。しかし、そうでないのなら、この視界の狭さは相当に尋常でないと思うのだ。そこまで徹底して周りの見えていない人間がいて、仁王立ちならぬ「仁王座り」をしているというのが、物凄いことだと思えてならぬのである。
 
 エスカレーターは、大阪や神戸などでは、歩く人のために左を空けておき、止まる人は右に立つのが暗黙のルールである。余談ながら「関西」ではなく「大阪や神戸」と述べたのには理由があって、驚く勿れ、京都では関東同様に左に立つのである。噂ではどうも滋賀でもそうであるらしい。他所から京滋地域の大学に進学してきた者が訳知り顔に「関西では右に立つんやでえ」などとけったいな関西弁で語ったら、とんでもない目に遭うのである。それはさておき、そうした“不文律”を破って1人だけ、左に立つ者が時々いて、それを先頭にして渋滞が発生するのであるが、何故、そういうことを平気でやってのけられるのであろうか。いや、悪意を持ってやっているのではないことは分かっている。ここでも、「郷に入りては郷に従え」などと言いたいのではないし、「社団法人日本エレベータ協会が『エスカレーターの歩行は危ないからやめましょう』と提唱しているのだから右も左もなく、そもそもエスカレーターは立ち止まって乗るものなのだ」ということを声高に叫びたいのでもない。前後は全員、右に立っているのに、1人だけ左にいる自分が大いに浮いているということに、どうして気づかないのか、それが不思議なのだ。
 
 すし詰めの満員電車で、特に疲れた体を引き摺って乗車する帰宅時に、吊り革や手すりに掴まれるかどうかはちょっとした死活問題であるが、どうしたものか、1人で吊り革を2つ占領する者がいる。ある者は万歳スタイルで2つ持ち、またある者は2つの吊り革を重ねY字状にして持っている。当人たちは、「その方がバランスが取れてよいのだ」と説明するのであるが、そんなことは知った話ではない。1人で2つ持つ者がいるから、他の人が掴まるべき吊り革が1つ減ってしまうという至極単純なことに、なぜ思いを致せないのであろうか。優先座席と一緒で、お年寄りや体の不自由な人であるにも関わらず着席が叶わなかったのであれば、進んで「諸手を下ろして」吊り革をお譲りしようというものである。しかし、残業を終え、深夜の電車に疲れて乗っているのはどちらさまも同様のはずで、朝ならカーブ通過時によろけても足を踏ん張って乗り切れるところが、帰宅時ではそうはゆかぬのである。ところが吊り革2本の一人占めをやっているのは大概、酔客である。酔客に周りの冷たい視線を見渡せと要求する方が間違っているのであろうか。
 
 静かな電車の車内で、徐に携帯電話を取り出して「もしもしぃ~?」と大声で喋る者。横に嫌煙者がいるのになりふり構わず煙草を吸う者。行列のできている自動販売機やATMの前に立って初めて財布から現金やカードをあさる者。降り際のバスの料金箱の前で両替を始める者。皆が集中して仕事に取り組んでいるオフィスで、ブツブツ独りごちたり鼻唄を歌ったりしている者。カラオケで最高に盛り上がっているところへ、本気のバラードを高らかに歌い上げる者。飲み会で皆が他愛もない話に花を咲かせている中で、憂国の情を滔々と演説する者。卒業式で皆が号泣しているのに、一人ケロッとして男連中と戯れている高嶺の女子。皆でどこかへ一緒に行こうとなったのに、「私は一人で行きますので」と言って集団行動の輪を乱す者。葬式で参列者が悲しみに暮れている沈痛な空気の中にあって、「アジャパー」とか叫ぶ孤高の輩。こうした者たちを、「空気の読めない奴」と人は言うのである。昔と較べて「空気の読めない奴」が増えてきたのかどうかは分からないし、それが世の中に蔓延する現代社会の重篤な病理だと大仰なことを言うつもりもない。でも、そういう人がここかしこにいるのは、確かなことだろうと思う。
 
 では、「空気を読む」にはどうすればよいのであろうか。私は、「感受性」を磨くことと、「人に関心を持つ」ことであろうと思う。「感受性」というのが分かりにくければ「想像力」と言ってもいいだろう。自分の言動がこの先、どういうふうに展開し、周囲の人たちにどういう影響を及ぼすのかを、頭の中で、ちょっとシミュレーションしてみればよい。かく申す私とて、将棋やオセロなど、「先を読む」能力がなければ勝てない娯楽はまるで苦手なので、そうした想像力は意識して訓練しなければ涵養されないことはよくよく認識している。けれども、10手も先を見据えなければ読めない空気でもあるまい。1手や2手で、十分「人への配慮」は成立するのである。
 
 昨夜、共に残業帰りの家人と、駅前の居酒屋で遅い晩飯を食していたときのことである。酒で薬を飲もうとする家人を見た店員が、「あっ、お冷をお持ちしますね」と厨房へ走り、すぐに戻ってきて、「氷が入っていない方がいいですよね」とさりげなく言ってコップをテーブルに置いた。これをこそプロと呼ぶのだといたく感心したのであるが、空気を読むこと、つまり、感受性や想像力を磨くことについては、サービス業に学ぶことが多いように思う。これとて、「人に関心を持つ」ことに他なるまい。アイスクリームとホットドリンクを同じ袋に入れようとしたり、そうかと思えば逆に、既に荷物をたくさん持っているのに、3つも4つも袋を分けて商品を渡そうとしたりする、その居酒屋の先にある、最近オープンした某コンビニの店員たちには、少しは爪の垢を煎じて飲み給えと言ってやりたいところである。