そろそろそのシーズンだと思っていたら、どうも最近の小学校では「学芸会」というものをやらないところが多いらしい。私の通った小学校では「学習発表会」という名前であったが、文字通りに、1年間の学習成果を保護者の前で発表する晴れ舞台であり、相当な時間をかけて準備をしていたように記憶している。ただ、現実問題、初等教育の現場において、児童の自主性を重んじた企画や運営というのは難しいというのも事実であろう。
現に、自身の記憶を顧みても、劇や合唱・合奏の演目は教師が決めていたし、4年のときだったか、当初は教科書に載っているものを合奏でやる予定だったのが、隣のクラスがより高度な楽曲に挑むと聞くや、担任は血相を変えてそれと同じ曲に変更すると激昂し、練習の8割はそれに割かれるというモーレツしごき教室のような様相を呈した苦い思い出もある。それでも6年のときには、「グループ毎に、何を発表するかは自分たちで決めなさい」と言われ、私たちのグループは、地元を走るローカル線の沿線風景や各駅の街並み、地域の産業などを調べ、模造紙にまとめてプレゼンするというそれらしいことをやったのだが、他は手品や漫才をやってみたり、聴くに堪えぬ流行歌を披露したりと収拾がつかず、担任をして「小学校6年間の学習の総決算がそれですか!」と嘆かしむという顚末もあった。そんなことを鑑みれば、学芸会自体が行われなくなるというのも当然と言えば当然の帰結かもしれない。
しかるに昨今耳目にするのはもっと他の原因であって、その元凶は、他ならぬ「モンスターペアレント」の存在であるという。クラス全員で何かをやるとき、どうしても脚光を浴びる人とそうでない人というのが出てくる。合唱をやろうと思えば、誰がピアノの伴奏を担当するかで揉め、合奏をやるなら、なぜウチの子はトライアングルをチンチンと鳴らしているだけなのかとクレームを言われる。全く面倒な世の中である。
そして最も難儀をするのが、劇らしい。劇には必ず主役が存在する。そしてその主役を巡って子どもたちの中で熾烈な争奪戦が繰り広げられ、果ては親同士のドンパチにまで発展するのだという。例えば、『赤ずきん』の劇をやるのに、我が子に赤ずきんをやらせたいという親が続出して、教師が徹夜で脚本を書き換え、結果、赤ずきんが何人も登場するという奇天烈な芝居に仕上がったというエピソードを聞いたことがある。こういう無体なことを平気で宣う親も親なら、一々馬鹿親の要求に取り合ってそれに屈する教師も教師であるが、それより何より、「赤ずきんが何人も登場する」芝居とは一体どういうものなのか、何人もの赤ずきんを食べた狼の腹は一体どういうことになっていたのか。教師たちの苦悩に思いを致すべく、また、それで当の子どもや親は如何様に満悦の表情を浮かべているのか、後学のために一度拝見したいものである。
芝居を成立させるには、「一人芝居」は例外としても、主役とともに脇役だって必要なのであり、逆に言えば、脇役あってこその芝居なのである。私のような芝居ヲタクにとっては、脇役の存在こそが芝居の魅力とさえ感じられるのであり、例えば映画や大河ドラマのような作品で、一瞬しか出演しない脇役も脇役に大物俳優が当てられるのを見るのは、それ自体が豪華絢爛な、大いなる醍醐味というものであるのだ。
それで思い出す話が一つある。2001年に亡くなった、劇作家の秋元松代が、エッセイ集『それぞれの場所』(早川書房)に収められた「芝居の群衆」という小品で、実に示唆に富むことを述べている。
芝居には一言もセリフを与えられていない登場者、すなわち「群衆」と呼ばれる人たちがいる。ある芝居の稽古始めの日、約100人の出演者全員が集まった。この100人のうち、主演と重要な脇役を演じるのはほぼ10人前後で、他の90人は群衆である。その中には一言も台詞を言わない登場者もいる。その無言の登場者たちに、演出を担当する蜷川幸雄はこう言った。「自分は君たちを群衆だとは考えていない。君たちのどの一人にでも、スポットライトを当ててよく見れば、この芝居の主役たちの背負ったドラマと同じ重さのドラマを、めいめいが持っているのだ。一人ひとりの生い立ち、今までどう生きてきたか、何を喜びとし悲しみとし、明日はどうなって行くか、主役と同じ重さの生活と運命を持った人間なのだ。だから自分を群衆だなどとは考えてはいけない」と。作者である秋元氏は、短い台詞を二つ三つ言うだけの役を書くとき、この人物はどうしても必要か、この短い台詞は是非とも言わねばならないかどうか、何回となく考えるのだという。いわんや無言の登場者をどうしても出さなければならない時は、何日も何週間も、決めかねて堂々巡りをする。本心では、群衆の一人ひとりに長いセリフを書きたいと思う。その思いを突き詰めていったものが、主役という人物に結晶するのだという。2か月の公演が終わり、千秋楽の打ち上げの場で、蜷川氏は「一言もセリフのなかった人々に拍手をしよう」と言い、盛んな拍手がしばらく鳴りやまなかった。そして、それが当然なほど、彼らは立派な群衆を演じていたという。
一般にスパルタ演出家として知られる蜷川氏の別の一面を知ることができる貴重な話だと思うが、それ以上に、劇作家や演出家たちの持つ、出演者一人ひとりへの想いや眼差しというものに触れることができて感動したし、人間たるもの誰しも、どんな役回りであっても、そこにいる意味や価値があるのだということを知ることのできる、良いエピソードだと思った。この話を聞いて、件(くだん)のモンペたちは、何を思うであろうか。
世の中でトップに立つ人たちは、天賦の才に恵まれ、それでいて並々ならぬ努力を重ねてその地位を手にした一廉(ひとかど)の人である。そうした人たちが脚光を浴びるのに吝かな気持ちはないが、真の意味で「一廉の人」と呼ばれる人たちは、自分を思い、支えてくれる人たちの存在を決して忘れない。2011年のFIFA女子ワールドカップにおいて、アジア勢の代表チームとして初優勝した「なでしこジャパン」のメンバーたちが、東日本大震災の被災者たちに復興へ向けての夢と希望を与えたいという想いで戦い、優勝を勝ち取った話はあまりに有名である。自分もまた、自らを取り巻く一人ひとりの人たちの存在に思いを致せる人間でありたいし、自分は後世に残る何事かを成し遂げられるような大層な人間でないけれども、それでも、自分の存在意義や価値というものを自ら見出して、自分なりの輝きを静かに放ちながら生きていきたいと思うのである。
前々回、おとなになったら、いつまでも思春期よろしく我儘な自己主張ばかりやっていないで、少しは人との関わりというものを意識して物を言ったらどうだという、つまらない繰り言を述べてしまったが、そうは言いながらその実、「小さい太郎」の気持ちとて分からぬではないのだ。初めてこの作品を読んだとき、ああ、こういう穢れのない“子どもの心”を私はいつから失ってしまったのだろうと、暫く物思いに耽ってしまったものである。
一時、往年の名作アニメの「○年後」の実写版CMが話題になったことがある。2008年からの、江崎グリコの『OTONA GLICO ~25年後の磯野家~』を初めて見たときの感慨は忘れない。何をしているのか分からないが相変わらずのカツオ(36歳)が浅野忠信、百貨店のエレベーターガールをしているワカメ(34歳)が宮沢りえ、屋台でたこ焼きを売っているタラオ(28歳)が瑛太、そしてベンチャー企業のCEOになったイクラ(26歳)が小栗旬である。それまでにも同様の着想で製作された広告は散見していると思うのだが、ピアノの調べで「サザエさんのテーマ」が静かに流れる中、大人になった彼らや彼女たちの姿を見たら訳もなく泣けてきたのである。彼らや彼女たちが「大人になった」ことへの感慨よりも、大人になった彼らや彼女たちの中に残る“子ども時代の姿”が琴線に触れたのかもしれない。
1年と少し前には、TOYOTAの『Re BORN』で、20年後のドラえもんたちが描かれた。30歳になったのび太が妻夫木聡、しずかちゃんが水川あさみ、ジャイアンが小川直也、スネ夫が山下智久、そしてドラえもんがジャン・レノである。シリーズが進むにつれて、ジャイアンの妹・ジャイ子役で前田敦子が出たときにも仰け反ったが、出木杉で内村航平が登場したときには、それは正に「やりすぎ」とツッコんだものである。ここでものび太はやっぱりダメ人間である。原作では既にしずかちゃんと結婚しているはずで、挙式前夜に、しずかの父が彼女に語る「のび太君を選んだ君の判断は正しかったと思うよ。あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことの出来る人だ。それが人間にとって大事なことなんだからね。彼なら間違いなく君を幸せにしてくれると僕は信じているよ」という言葉は珠玉の名台詞であるが、そんなことは全くの度外視で、ジャイアンの不条理やスネ夫の嫌味など、“子ども時代”そのままである。けれどもやはり、その「そのまま」がよいのである。
いずれのCM作品も、続編が期待されたが、飽きられてしまったのか、完結編のようなものもなく、フェードアウト的に終わってしまったのは残念である。
登場人物が決して年を取らない作品としては他に、『ちびまる子ちゃん』などが有名であるが、大阪の人間としては『じゃりん子チエ』を忘れてはなるまい。同じように「チエちゃんの○年後」を描いてみたらどんな話になるのだろうかと考えたことがある。そうしているうちに去年、「これぞ正に『おとな版じゃりん子チエ』ではないか」と思える作品に出くわしたのだ。坂井希久子の『泣いたらアカンで通天閣』(祥伝社)である。
この方、文藝春秋社の第88回オール讀物新人賞受賞作家であるが、恥ずかしながらお名前を存じ上げず、まずはWikipediaで検索してみた。すると上部に、「この項目には性的な表現や記述が含まれます。免責事項もお読みください」と表示されているではないか。「?」と思い、よく読み進めると、「受賞時に現役SM嬢であることが記事になった。SMクラブ『MARS』所属」と記されている。まあ、作家の来歴というのは様々であるから、殊更驚くことでもないが、森村誠一が名誉塾長を務めるプロ作家養成講座「山村教室」で学び、年間最優秀賞も受賞したというのだから本気で作家を志して努力を重ね、また誰しも芽が出るというものでもあるまいから天賦の才をも有する一廉(ひとかど)の人なのだろう。むしろそちらの方に感嘆した。余談だが、知り合いの知り合いの知り合いくらいで、裏切られた元夫への復讐として、文芸学校に通い、その夫の異常な性癖を小説に認(したた)め、読む人が読めばこれは紛れもないノンフィクションだと判るという渾身の力作を完成し、何かの新人賞を取ったけれど、それで所期の目的を達成し、その1冊を世に送り出して早々に文壇から去って行った、という人を知っている。疾風のように現れて、疾風のように去ってゆく、月光仮面のような在り方もなくはないであろうが、やはり作品を出し続けてこそ、作家の矜持が保たれ、その名も残るというものであろう。坂井氏も精力的に文筆活動を続けておられるようである。
話は元に戻るが表題作、『おとな版じゃりん子チエ』などと評しては作者に失礼だろうが、ここに描かれる主人公の「千子」(「ちね」と読むが、皆「センコ」と呼んでいる)と、どうしようもない父親「賢悟」(皆は「ゲンコ」と呼ぶ)の関係には、『じゃりん子チエ』におけるチエとテツのそれがどうしても重ねられてしまう。舞台も表題通りに通天閣の下、大阪のディープタウンである。どうしようもない父親に辟易する日々であるが、しかしどこか憎めない。センコが小5のときに書いた「わたしのお父さん」という作文が冒頭にあるが、お父さんのこんなところが嫌、あんなところが嫌と言いつつ、「わたしは『ゲンコ』の娘やから『センコ』でええんかなと思うようになりました」と、父への愛情を綴るこの作文を読んだだけで、のっけから涙腺を決壊させてしまった。
長じて26歳になったセンコは昼間のOL勤めの傍ら、父親が経営するラーメン屋を事実上切り盛りしている。祖父の代から続く店であるが、秘伝の味を受け継いでいたのは放蕩息子のゲンコではなく、センコの母であった。その母はセンコが小3の時に他界し、レシピを知る由もないゲンコは、とんでもなく不味いラーメンを供して不興を買い、客足は激減している。だから何とか店を守るために、センコは必死に店を手伝うのであった。そんなセンコに、東京から単身赴任で大阪にやってきた上司との不倫関係に端を発する修羅場が降り掛かるのであるが、それもセンコの持ち前の強さや、周囲の人々の人情愛情で乗り越える。
そして、いろいろあって胎内に新しい命を宿したセンコは、母の遺影の前でこう呟く。「おおきに、ありがとう。産んでくれて。愛してくれて。わたしにも、できるかな」と。冒頭の作文がここへ来てぴたっと重なり、「おとな」になったセンコの中に確かに残る“子どもの心”に触れて、再び涙腺決壊、涙の洪水となったのである。「九八パーセントくらいがうさんくささ」、「残りの二パーセント程度がたぶん、温かさや懐かしさといった」もので構成されているこの街と、そこに暮らす人々。街の情景が思い浮かび、そこに住まう人たちの心の機微が伝わってくる本作は紛う方なく、私の中での2012年の最高傑作である。
清濁併せ呑める「おとな」になってこそ人間としての成熟と言えるのであるが、しかし一方で、どこかに変わらぬ“子どもの心”も持っていたいと思うのである。「子ども」のときの自分が、「おとな」になった今の生き様を見たら、何と思うであろうか。
一時、往年の名作アニメの「○年後」の実写版CMが話題になったことがある。2008年からの、江崎グリコの『OTONA GLICO ~25年後の磯野家~』を初めて見たときの感慨は忘れない。何をしているのか分からないが相変わらずのカツオ(36歳)が浅野忠信、百貨店のエレベーターガールをしているワカメ(34歳)が宮沢りえ、屋台でたこ焼きを売っているタラオ(28歳)が瑛太、そしてベンチャー企業のCEOになったイクラ(26歳)が小栗旬である。それまでにも同様の着想で製作された広告は散見していると思うのだが、ピアノの調べで「サザエさんのテーマ」が静かに流れる中、大人になった彼らや彼女たちの姿を見たら訳もなく泣けてきたのである。彼らや彼女たちが「大人になった」ことへの感慨よりも、大人になった彼らや彼女たちの中に残る“子ども時代の姿”が琴線に触れたのかもしれない。
1年と少し前には、TOYOTAの『Re BORN』で、20年後のドラえもんたちが描かれた。30歳になったのび太が妻夫木聡、しずかちゃんが水川あさみ、ジャイアンが小川直也、スネ夫が山下智久、そしてドラえもんがジャン・レノである。シリーズが進むにつれて、ジャイアンの妹・ジャイ子役で前田敦子が出たときにも仰け反ったが、出木杉で内村航平が登場したときには、それは正に「やりすぎ」とツッコんだものである。ここでものび太はやっぱりダメ人間である。原作では既にしずかちゃんと結婚しているはずで、挙式前夜に、しずかの父が彼女に語る「のび太君を選んだ君の判断は正しかったと思うよ。あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことの出来る人だ。それが人間にとって大事なことなんだからね。彼なら間違いなく君を幸せにしてくれると僕は信じているよ」という言葉は珠玉の名台詞であるが、そんなことは全くの度外視で、ジャイアンの不条理やスネ夫の嫌味など、“子ども時代”そのままである。けれどもやはり、その「そのまま」がよいのである。
いずれのCM作品も、続編が期待されたが、飽きられてしまったのか、完結編のようなものもなく、フェードアウト的に終わってしまったのは残念である。
登場人物が決して年を取らない作品としては他に、『ちびまる子ちゃん』などが有名であるが、大阪の人間としては『じゃりん子チエ』を忘れてはなるまい。同じように「チエちゃんの○年後」を描いてみたらどんな話になるのだろうかと考えたことがある。そうしているうちに去年、「これぞ正に『おとな版じゃりん子チエ』ではないか」と思える作品に出くわしたのだ。坂井希久子の『泣いたらアカンで通天閣』(祥伝社)である。
この方、文藝春秋社の第88回オール讀物新人賞受賞作家であるが、恥ずかしながらお名前を存じ上げず、まずはWikipediaで検索してみた。すると上部に、「この項目には性的な表現や記述が含まれます。免責事項もお読みください」と表示されているではないか。「?」と思い、よく読み進めると、「受賞時に現役SM嬢であることが記事になった。SMクラブ『MARS』所属」と記されている。まあ、作家の来歴というのは様々であるから、殊更驚くことでもないが、森村誠一が名誉塾長を務めるプロ作家養成講座「山村教室」で学び、年間最優秀賞も受賞したというのだから本気で作家を志して努力を重ね、また誰しも芽が出るというものでもあるまいから天賦の才をも有する一廉(ひとかど)の人なのだろう。むしろそちらの方に感嘆した。余談だが、知り合いの知り合いの知り合いくらいで、裏切られた元夫への復讐として、文芸学校に通い、その夫の異常な性癖を小説に認(したた)め、読む人が読めばこれは紛れもないノンフィクションだと判るという渾身の力作を完成し、何かの新人賞を取ったけれど、それで所期の目的を達成し、その1冊を世に送り出して早々に文壇から去って行った、という人を知っている。疾風のように現れて、疾風のように去ってゆく、月光仮面のような在り方もなくはないであろうが、やはり作品を出し続けてこそ、作家の矜持が保たれ、その名も残るというものであろう。坂井氏も精力的に文筆活動を続けておられるようである。
話は元に戻るが表題作、『おとな版じゃりん子チエ』などと評しては作者に失礼だろうが、ここに描かれる主人公の「千子」(「ちね」と読むが、皆「センコ」と呼んでいる)と、どうしようもない父親「賢悟」(皆は「ゲンコ」と呼ぶ)の関係には、『じゃりん子チエ』におけるチエとテツのそれがどうしても重ねられてしまう。舞台も表題通りに通天閣の下、大阪のディープタウンである。どうしようもない父親に辟易する日々であるが、しかしどこか憎めない。センコが小5のときに書いた「わたしのお父さん」という作文が冒頭にあるが、お父さんのこんなところが嫌、あんなところが嫌と言いつつ、「わたしは『ゲンコ』の娘やから『センコ』でええんかなと思うようになりました」と、父への愛情を綴るこの作文を読んだだけで、のっけから涙腺を決壊させてしまった。
長じて26歳になったセンコは昼間のOL勤めの傍ら、父親が経営するラーメン屋を事実上切り盛りしている。祖父の代から続く店であるが、秘伝の味を受け継いでいたのは放蕩息子のゲンコではなく、センコの母であった。その母はセンコが小3の時に他界し、レシピを知る由もないゲンコは、とんでもなく不味いラーメンを供して不興を買い、客足は激減している。だから何とか店を守るために、センコは必死に店を手伝うのであった。そんなセンコに、東京から単身赴任で大阪にやってきた上司との不倫関係に端を発する修羅場が降り掛かるのであるが、それもセンコの持ち前の強さや、周囲の人々の人情愛情で乗り越える。
そして、いろいろあって胎内に新しい命を宿したセンコは、母の遺影の前でこう呟く。「おおきに、ありがとう。産んでくれて。愛してくれて。わたしにも、できるかな」と。冒頭の作文がここへ来てぴたっと重なり、「おとな」になったセンコの中に確かに残る“子どもの心”に触れて、再び涙腺決壊、涙の洪水となったのである。「九八パーセントくらいがうさんくささ」、「残りの二パーセント程度がたぶん、温かさや懐かしさといった」もので構成されているこの街と、そこに暮らす人々。街の情景が思い浮かび、そこに住まう人たちの心の機微が伝わってくる本作は紛う方なく、私の中での2012年の最高傑作である。
清濁併せ呑める「おとな」になってこそ人間としての成熟と言えるのであるが、しかし一方で、どこかに変わらぬ“子どもの心”も持っていたいと思うのである。「子ども」のときの自分が、「おとな」になった今の生き様を見たら、何と思うであろうか。
あの日。私は大学2回生だった。
2年前まであんなに必死に勉強というものをしていたのは幻だったのかと思えるくらい「学生の本分」を放棄していた私は、しかし学年末を控えて流石に尻に火が点き、ワープロに向かって課題と格闘していた。「国語科教育法」という科目の、授業指導案を作成せよというお題で、高校の古典で『大和物語』の〈生田川伝説〉を扱った。2人の男に誠実でありたいと思った女が、それ故に2人の男を巻き込んで悲劇の結末を迎える。これに、「誠実でありたい。そんなねがいを どこから手にいれた。/それは すでに 欺くことでしかないのに。」と詠う、吉野弘の『雪の日に』という詩を重ね合わせ、作品の主題を考えるという授業展開である。我ながら会心の出来で、夜を徹してそれを仕上げ、満悦しながらゆっくり煙草を燻らせていた。このとき、5時40分である。
テレビは6チャンネル、朝日放送をつけていた。フィラーが終わり、放送開始のアナウンスが流れる。5時45分。最初の番組である『Oh!天気』が始まる。司会のアナウンサーの挨拶があり、出演者の紹介が続く。中途半端な時間に課題が完成してしまい、2時間だけでも眠るべきか、起きられなくなるから耐えるべきか、そんなことを逡巡しながらテレビの画面を見るともなく見ていた。そのうち、地鳴りのような異様な音が聞こえてくる。「?」と思った瞬間、激しく揺さぶられ、棚から次々に物が落ちてきた。テレビからは出演者の悲鳴が響き、と同時に停電して、闇に包まれた。
実際にはどれくらいの時間だったのか分からないが、とんでもなく長い時間に感じられた。このままいつまでも揺れ続け、この世のものが全て崩壊して、自分も死んでしまうんやろなあ、とぼんやり考えることができるくらい、長い時間だった。
揺れが収まって外に飛び出す。ガス漏れの臭いを感じた。大家さんが血相を変えて出てきて、取り敢えず元栓を締めるようにと指示した。しかし暗くて何も見えない。そうでなくても汚い一人暮らしの部屋が、地震でカオスと化し、必要なものを探すにも難儀したが、何とか財布を見つけ、懐中電灯を買いに、コンビニに走った。店は既に、同じことを考えた人たちでごった返していた。店長が「停電でレジが使えないので、お釣りの要らない方だけお願いします!」と叫んでいる。4軒をハシゴして、やっと1本の懐中電灯を手にした。ようやく帰宅したら、停電は復旧していた。留守番電話には、実家から「電話出なさい!」と喚く母親の声が何件も録音されていた。
徹夜で仕上げた課題だったが、結局この日、大学は全学部休講となったので、自宅に居ることにした。夜が明けて、テレビで神戸の街が映し出されるのを見て、怖くて外に出ることができなくなったというのが正しい。熱を出しても、嘔吐で苦しんでも、結石で悶絶してもそうは思わなかったのだが、この日初めて、一人暮らしであることを心底不安に感じた。そのうち、アルバイト先のマネージャーから電話がかかってきて、「ウチのスタッフで君が唯一の大阪府民で、一番電話がつながりやすいから、ごめんやけど家に居てもらって、諸々の連絡の窓口になってくれへんかな」と言われた。わかりました、と答えた。当時、私は西宮北口にあった、大手進学塾の講師のアルバイトをやっていた。マネージャーを含めた他のスタッフは全員、兵庫県民だったが、本社は大阪市内にあるから、私なら本社との連絡がつきやすいだろうとのことだった。
阪急電車が西宮北口までは復旧した翌日、本社からの指示で、校舎に向かった。塚口を過ぎた辺りから建物の崩壊が見え始め、西宮北口駅は壁のタイルが軒並み剥がれ落ちていたが、駅を出て、“塾銀座”である北口を出ると、目に飛び込んできた光景は地獄絵図そのもので、絶句するしかなかった。私の勤務先のビルは崩壊を免れたが、鍵を開けて中に入ると、机や椅子は方々へ飛んでいき、教材や書類のファイルはそこら中に散乱している。コピー機のガラス面にテレビが突き刺さっているのを見たときは気を失いそうになってしまった。
バイト仲間に、Hさんという女性の講師がいた。同じ国語の担当だったが、この人のことが大好きだった。お付き合いをしてもらえなかったのはほろ苦い思い出だけれども、一緒に映画を見に行ったり、携帯電話もない時代に夜な夜な電話で喋ったりするだけでも十分幸せだった。当時FM大阪で“DJの卵”をやっていたお姉さんにも可愛がってもらっていた。彼女の家は甲子園口で、なかなか連絡がつかなくて心配でならなかった。2日後に、留守電に「私は大丈夫です」と吹き込まれているのを聞いたときには、安堵のあまり腰を抜かしてしまった。
数日後、集まれるスタッフだけが集まり、本社からは統括部長も来られて、今後の対応や対策について指示を受けた。「ここに関わる人が生きているかどうか」から始まった。電話はほぼつながらないから、ゴーストタウンの中、手分けして約120人の生徒の自宅一軒一軒を訪ね、家がなくなっていたら避難所まで巡った。幸い、命を落とした生徒はウチにはいなかったが、行く先々で生徒たちに泣きじゃくられたのは本当に辛かった。毎日、川まで行って水汲みもやった。食料や飲み物の調達は大阪市内でもままならないから、JR京都線を1駅ずつ降りては店に飛び込み、やっと必要なものを確保できたのは京都の西大路だった。
昼間に特別な時間割を組んで出勤できる講師だけで授業を回し、受験学年を最優先で指導を行った。中学受験は断念せざるを得なかった子が殆どで、高校受験も志望校の変更を余儀なくされた子がいたのは哀れだったが、何とか入試まで指導を続け、皆から合格の報せを受けたときには本気で喜んだ。バイト風情がここまで本気になれるのかと自分でも不思議に思った。最後の日、教室の前で、正社員の先生が、人目も憚らず男泣きした。
それらのことは当時輪の広がったボランティアなどではなく、「仕事だから」やったのだ。確かに使命感を持って取り組んだが、自分の行動を美談として語ろうなどとはつゆも思わないし、そういう発想すらない。あるのは「大変だった」という記憶である。ここでのバイト仲間は互いを「戦友」と呼び合っていた。その全員が、今どこでどうしているのかさえも知らない。でも、そうしたいろんな思い出が今、まざまざと蘇ってくる。
今年も、5時半に起床して、46分には黙祷を捧げた。私如きの祈りが誰の御霊を鎮める訳でもないし、18年もの間には、それを怠ってしまった年もある。テレビだって、扱いは随分軽いものになってきた。「あの日の記憶は風化させてはならない」と人々は言う。でも、忘れてしまいたい記憶を持つ人だっているだろう。被災の当事者でもない人の感傷ほど勝手で無責任なものはないと思うし、こうして当時の思い出を綴ること自体がどうかとも思うが、自分の中の心の整理として、またいろんなことの原点回帰として、今後も静かに、「1月17日の内省」を続けていきたいと思う。
2年前まであんなに必死に勉強というものをしていたのは幻だったのかと思えるくらい「学生の本分」を放棄していた私は、しかし学年末を控えて流石に尻に火が点き、ワープロに向かって課題と格闘していた。「国語科教育法」という科目の、授業指導案を作成せよというお題で、高校の古典で『大和物語』の〈生田川伝説〉を扱った。2人の男に誠実でありたいと思った女が、それ故に2人の男を巻き込んで悲劇の結末を迎える。これに、「誠実でありたい。そんなねがいを どこから手にいれた。/それは すでに 欺くことでしかないのに。」と詠う、吉野弘の『雪の日に』という詩を重ね合わせ、作品の主題を考えるという授業展開である。我ながら会心の出来で、夜を徹してそれを仕上げ、満悦しながらゆっくり煙草を燻らせていた。このとき、5時40分である。
テレビは6チャンネル、朝日放送をつけていた。フィラーが終わり、放送開始のアナウンスが流れる。5時45分。最初の番組である『Oh!天気』が始まる。司会のアナウンサーの挨拶があり、出演者の紹介が続く。中途半端な時間に課題が完成してしまい、2時間だけでも眠るべきか、起きられなくなるから耐えるべきか、そんなことを逡巡しながらテレビの画面を見るともなく見ていた。そのうち、地鳴りのような異様な音が聞こえてくる。「?」と思った瞬間、激しく揺さぶられ、棚から次々に物が落ちてきた。テレビからは出演者の悲鳴が響き、と同時に停電して、闇に包まれた。
実際にはどれくらいの時間だったのか分からないが、とんでもなく長い時間に感じられた。このままいつまでも揺れ続け、この世のものが全て崩壊して、自分も死んでしまうんやろなあ、とぼんやり考えることができるくらい、長い時間だった。
揺れが収まって外に飛び出す。ガス漏れの臭いを感じた。大家さんが血相を変えて出てきて、取り敢えず元栓を締めるようにと指示した。しかし暗くて何も見えない。そうでなくても汚い一人暮らしの部屋が、地震でカオスと化し、必要なものを探すにも難儀したが、何とか財布を見つけ、懐中電灯を買いに、コンビニに走った。店は既に、同じことを考えた人たちでごった返していた。店長が「停電でレジが使えないので、お釣りの要らない方だけお願いします!」と叫んでいる。4軒をハシゴして、やっと1本の懐中電灯を手にした。ようやく帰宅したら、停電は復旧していた。留守番電話には、実家から「電話出なさい!」と喚く母親の声が何件も録音されていた。
徹夜で仕上げた課題だったが、結局この日、大学は全学部休講となったので、自宅に居ることにした。夜が明けて、テレビで神戸の街が映し出されるのを見て、怖くて外に出ることができなくなったというのが正しい。熱を出しても、嘔吐で苦しんでも、結石で悶絶してもそうは思わなかったのだが、この日初めて、一人暮らしであることを心底不安に感じた。そのうち、アルバイト先のマネージャーから電話がかかってきて、「ウチのスタッフで君が唯一の大阪府民で、一番電話がつながりやすいから、ごめんやけど家に居てもらって、諸々の連絡の窓口になってくれへんかな」と言われた。わかりました、と答えた。当時、私は西宮北口にあった、大手進学塾の講師のアルバイトをやっていた。マネージャーを含めた他のスタッフは全員、兵庫県民だったが、本社は大阪市内にあるから、私なら本社との連絡がつきやすいだろうとのことだった。
阪急電車が西宮北口までは復旧した翌日、本社からの指示で、校舎に向かった。塚口を過ぎた辺りから建物の崩壊が見え始め、西宮北口駅は壁のタイルが軒並み剥がれ落ちていたが、駅を出て、“塾銀座”である北口を出ると、目に飛び込んできた光景は地獄絵図そのもので、絶句するしかなかった。私の勤務先のビルは崩壊を免れたが、鍵を開けて中に入ると、机や椅子は方々へ飛んでいき、教材や書類のファイルはそこら中に散乱している。コピー機のガラス面にテレビが突き刺さっているのを見たときは気を失いそうになってしまった。
バイト仲間に、Hさんという女性の講師がいた。同じ国語の担当だったが、この人のことが大好きだった。お付き合いをしてもらえなかったのはほろ苦い思い出だけれども、一緒に映画を見に行ったり、携帯電話もない時代に夜な夜な電話で喋ったりするだけでも十分幸せだった。当時FM大阪で“DJの卵”をやっていたお姉さんにも可愛がってもらっていた。彼女の家は甲子園口で、なかなか連絡がつかなくて心配でならなかった。2日後に、留守電に「私は大丈夫です」と吹き込まれているのを聞いたときには、安堵のあまり腰を抜かしてしまった。
数日後、集まれるスタッフだけが集まり、本社からは統括部長も来られて、今後の対応や対策について指示を受けた。「ここに関わる人が生きているかどうか」から始まった。電話はほぼつながらないから、ゴーストタウンの中、手分けして約120人の生徒の自宅一軒一軒を訪ね、家がなくなっていたら避難所まで巡った。幸い、命を落とした生徒はウチにはいなかったが、行く先々で生徒たちに泣きじゃくられたのは本当に辛かった。毎日、川まで行って水汲みもやった。食料や飲み物の調達は大阪市内でもままならないから、JR京都線を1駅ずつ降りては店に飛び込み、やっと必要なものを確保できたのは京都の西大路だった。
昼間に特別な時間割を組んで出勤できる講師だけで授業を回し、受験学年を最優先で指導を行った。中学受験は断念せざるを得なかった子が殆どで、高校受験も志望校の変更を余儀なくされた子がいたのは哀れだったが、何とか入試まで指導を続け、皆から合格の報せを受けたときには本気で喜んだ。バイト風情がここまで本気になれるのかと自分でも不思議に思った。最後の日、教室の前で、正社員の先生が、人目も憚らず男泣きした。
それらのことは当時輪の広がったボランティアなどではなく、「仕事だから」やったのだ。確かに使命感を持って取り組んだが、自分の行動を美談として語ろうなどとはつゆも思わないし、そういう発想すらない。あるのは「大変だった」という記憶である。ここでのバイト仲間は互いを「戦友」と呼び合っていた。その全員が、今どこでどうしているのかさえも知らない。でも、そうしたいろんな思い出が今、まざまざと蘇ってくる。
今年も、5時半に起床して、46分には黙祷を捧げた。私如きの祈りが誰の御霊を鎮める訳でもないし、18年もの間には、それを怠ってしまった年もある。テレビだって、扱いは随分軽いものになってきた。「あの日の記憶は風化させてはならない」と人々は言う。でも、忘れてしまいたい記憶を持つ人だっているだろう。被災の当事者でもない人の感傷ほど勝手で無責任なものはないと思うし、こうして当時の思い出を綴ること自体がどうかとも思うが、自分の中の心の整理として、またいろんなことの原点回帰として、今後も静かに、「1月17日の内省」を続けていきたいと思う。
今日は成人の日である。大雪に見舞われ大変だった地域もあったようだが、晴れやかな若者たちの表情を見ていたら、それだけでこちらの顔もほころぶというものである。
しかし自分の頃を顧みるに、実家は遠く離れたところなのでそうやすやすと帰ることも能わず、かと言って淀川区の式典に出たところで誰も知った人がいない。それにそもそも、大学の学年末試験を目前に控え、単位を大量に落とすかもしれないという恐怖に駆られる状況でそれどころではなく、また当時、塾講師のアルバイトをやっていたから、入試直前の子どもたちを放り出して休みを取るのも憚られる。そんな訳で、厳粛たる成人式というものには行かずじまいで、バイト先のマネージャーが「ささやかなお祝いをしてあげよう」と言って、仕事が終わった後、飲みに連れて行ってくれたのが私の「成人式」であった。
さて、『国民の祝日に関する法律』の第二条によると、この日は、「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日であると規定されている。そう、「祝いはげます」の主体は当事者を除く国民であり、当の成人たちがやってよいのは「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする」ことのみなのであって、「成人式の会場で酒をあおり、舞台に乱入して狂喜乱舞に及ぶ」ことは明文化されていないので注意が必要である。
では、「おとなになつたことを自覚」するとは、具体的には一体何を指すのであろうか。各地の成人式の模様を取材したニュースを見ていても、新成人たちの口からは、その答えをなかなか聞くことができない。
そこで思い出す、1つの物語がある。新見南吉の『かぶと虫』という小品である。
ある日、主人公の「小さい太郎」は、お花畑でかぶと虫を捕まえる。「ああ、かぶと虫だ。かぶと虫とった」と言うが、兄弟のいない「小さい太郎」には、それに答えてくれる人もいない。縁側で居眠りをしていたおばあさんにそれを見せるが、おばあさんは全く興味を示さない。ひとりがつまらない「小さい太郎」は、一緒に遊んでくれる相手を探して、次々と友達の家を駆け巡る。しかし、金平ちゃんはお腹が痛くて寝ており、恭一君は三河の親戚にもらわれていったという。
そこで「小さい太郎」は、車大工の息子、年上の安雄さんの許に行く。 安雄さんは、青年学校に行っている大きい人だったが、いつも「小さい太郎」たちと遊んでくれる、よい友だちであった。けれども、安雄さんは仕事に熱心に向き合っており、そのうち「小さい太郎」は、車大工のおじさんに邪険に扱われてしまう。そして物語はこう続く。
本作の原題は『小さい太郎の悲しみ』で、当然、「おとなの世界」と「子どもの世界」に埋め難い隔絶があることを知った「小さい太郎」の心の動きに鑑賞の主眼が置かれるべきであるが、私には、「安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました」というこの部分が、何だか象徴的に感じられるのである。「しかたがない」――安雄さんが「おとなになつたことを自覚」したとは、そういうことなのだ。すなわち、自らの都合だけで世の中が回るのではないのだよ、ということを、「小さい太郎」に暗に伝えようとしたのだと、私には解釈されるのである。
かつて、尾崎豊は「自由になれた気がした15の夜」と唄った。「自由になれた気がし」ても、それは真の自由などではなかったことを知るのが「おとな」なのかもしれない。それは、何事かの柵(しがらみ)に捕らわれて没個性的に生きよという厭世的なことではなく、人間は文字通りに「人と人の間」に生きること、換言すれば「利己」から「利他」への姿勢の転換の必要性を認識せねばならぬということなのだ。「おとな」からやいのやいのと言われるのに、一々反抗したくなるのが思春期であるが、それが落ち着き、人の話にも耳を傾けることができてくれば、漸く「おとな」になったと言えるのかもしれない。
「二十歳の主張」も大いに結構。しかしそれは、唯我独尊的なものではなく、あくまで多くの人たちの幸せに寄与するものであらねばならぬであろうと、まもなく“二度目の成人式”を迎えるオッサンは、思うのである。人間たるもの、一人で生きていける訳はないのだから。
しかし自分の頃を顧みるに、実家は遠く離れたところなのでそうやすやすと帰ることも能わず、かと言って淀川区の式典に出たところで誰も知った人がいない。それにそもそも、大学の学年末試験を目前に控え、単位を大量に落とすかもしれないという恐怖に駆られる状況でそれどころではなく、また当時、塾講師のアルバイトをやっていたから、入試直前の子どもたちを放り出して休みを取るのも憚られる。そんな訳で、厳粛たる成人式というものには行かずじまいで、バイト先のマネージャーが「ささやかなお祝いをしてあげよう」と言って、仕事が終わった後、飲みに連れて行ってくれたのが私の「成人式」であった。
さて、『国民の祝日に関する法律』の第二条によると、この日は、「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日であると規定されている。そう、「祝いはげます」の主体は当事者を除く国民であり、当の成人たちがやってよいのは「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする」ことのみなのであって、「成人式の会場で酒をあおり、舞台に乱入して狂喜乱舞に及ぶ」ことは明文化されていないので注意が必要である。
では、「おとなになつたことを自覚」するとは、具体的には一体何を指すのであろうか。各地の成人式の模様を取材したニュースを見ていても、新成人たちの口からは、その答えをなかなか聞くことができない。
そこで思い出す、1つの物語がある。新見南吉の『かぶと虫』という小品である。
ある日、主人公の「小さい太郎」は、お花畑でかぶと虫を捕まえる。「ああ、かぶと虫だ。かぶと虫とった」と言うが、兄弟のいない「小さい太郎」には、それに答えてくれる人もいない。縁側で居眠りをしていたおばあさんにそれを見せるが、おばあさんは全く興味を示さない。ひとりがつまらない「小さい太郎」は、一緒に遊んでくれる相手を探して、次々と友達の家を駆け巡る。しかし、金平ちゃんはお腹が痛くて寝ており、恭一君は三河の親戚にもらわれていったという。
そこで「小さい太郎」は、車大工の息子、年上の安雄さんの許に行く。 安雄さんは、青年学校に行っている大きい人だったが、いつも「小さい太郎」たちと遊んでくれる、よい友だちであった。けれども、安雄さんは仕事に熱心に向き合っており、そのうち「小さい太郎」は、車大工のおじさんに邪険に扱われてしまう。そして物語はこう続く。
「うちの安雄はな、もう、きょうから、一人まえのおとなになったでな、子どもとは遊ばんでな、子どもは子どもと遊ぶがええぞや。」
と、つっぱなすようにいいました。
すると安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました。そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な目をむけました。
虫がえだから落ちるように、力なく、小さい太郎はこうしからはなれました。
そして、ぶらぶらと歩いていきました。
小さい太郎の胸に、深い悲しみがわきあがりました。
安雄さんはもう、小さい太郎のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶことはないのです。おなかがいたいなら、あしたになればなおるでしょう。三河にもらわれていったって、いつかまた帰ってくることもあるでしょう。しかし、おとなの世界にはいった人が、もう子どもの世界に帰ってくることはないのです。
安雄さんは、遠くにいきはしません。同じ村の、じき近くにいます。しかし、きょうから、安雄さんと小さい太郎は、べつの世界にいるのです。いっしょに遊ぶことはないのです。
小さい太郎の胸には、悲しみが空のようにひろく、深く、うつろにひろがりました。
ある悲しみは、なくことができます。ないて消すことができます。
しかし、ある悲しみはなくことができません。ないたって、どうしたって、消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸にひろがった悲しみは、なくことのできない悲しみでした。
そこで小さい太郎は、西の山の上にひとつきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものを見るように、まゆをすこししかめながら、長いあいだ見ているだけでした。かぶと虫がいつか指からすりぬけて、にげてしまったのにも気づかないで――。
本作の原題は『小さい太郎の悲しみ』で、当然、「おとなの世界」と「子どもの世界」に埋め難い隔絶があることを知った「小さい太郎」の心の動きに鑑賞の主眼が置かれるべきであるが、私には、「安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました」というこの部分が、何だか象徴的に感じられるのである。「しかたがない」――安雄さんが「おとなになつたことを自覚」したとは、そういうことなのだ。すなわち、自らの都合だけで世の中が回るのではないのだよ、ということを、「小さい太郎」に暗に伝えようとしたのだと、私には解釈されるのである。
かつて、尾崎豊は「自由になれた気がした15の夜」と唄った。「自由になれた気がし」ても、それは真の自由などではなかったことを知るのが「おとな」なのかもしれない。それは、何事かの柵(しがらみ)に捕らわれて没個性的に生きよという厭世的なことではなく、人間は文字通りに「人と人の間」に生きること、換言すれば「利己」から「利他」への姿勢の転換の必要性を認識せねばならぬということなのだ。「おとな」からやいのやいのと言われるのに、一々反抗したくなるのが思春期であるが、それが落ち着き、人の話にも耳を傾けることができてくれば、漸く「おとな」になったと言えるのかもしれない。
「二十歳の主張」も大いに結構。しかしそれは、唯我独尊的なものではなく、あくまで多くの人たちの幸せに寄与するものであらねばならぬであろうと、まもなく“二度目の成人式”を迎えるオッサンは、思うのである。人間たるもの、一人で生きていける訳はないのだから。
小林一茶の句に「初夢に故郷を見て涙かな」というのがある。仕事柄、年末年始の休暇が長くなく、また夫婦ともにサービス業に従事するものだから互いの休みは元旦しか一致せず、出掛けるとしてもせいぜい近場の初詣でくらいで、後は専ら「食う・飲む・寝る」の三拍子である。以前にも記したように、方々をジプシーの如くに渡り歩いてきた人間であるから、故郷がどこなのかと問われると答えに窮するのであるが、mixiやFacebook、TwitterなどのSNSで「友達」の近況を見ていると、この時期は特に、同窓会で懐かしき人たちとの邂逅に盛り上がる模様がアップされることが多く、涙が出るとまでは言わないが、しかし、心底羨ましく思う。
それはそうとして、昔から、新年の営みは何であっても一々「初○○」や「○○始め(初め)」と言う。試みに手元の辞書で調べてみると、前者には「初売り」「初買い」「初観音」「初時雨」「初天神」「初登り」「初風呂」「初詣で」「初笑い」などがあり、後者では「歌会始め」「着衣(きそ)始め」「御用始め」「手斧(ちょうな)始め」「読書始め」「湯殿始め」「弓場(ゆば)始め」「連歌始め」「謡(うたい)初め」「書き初め」「鍬初め」「乗馬初め」「出初め」「縫い初め」「乗り初め」「履き初め」「弾き初め」「結い初め」などが挙げられている。中には「姫始め」のようないかがわしい語もあって吃驚するのだが、その例外を除けば多くが宮中行事を中心とした雅語であることが関係するのか、これらが縁起物のように言われている。初めて時雨が降っても縁起が良い。初めて縫い物をやっても縁起が良い。初めて髪を結わえても縁起が良い。何につけても「めでたい」を連呼するのであるから、日本人というのは元来、古今東西どちら様も、ポジティブな人種なのであろう。
しかし私の場合、「初風呂」は、前夜の大晦日、自宅で飲み過ぎてそのまま眠りに落ち、そのまま昼過ぎまで惰眠を貪ってその起き抜けに爆発頭を押さえながら入ったのであり、「初詣で」は日も暮れようとする中、重い体を引き摺りながら周りの強い勧めで宝塚の清荒神に厄除けの祈祷に行ったのであって、いずれにしても縁起担ぎとは全くの無縁である。因みに厄除けに関しては、今年が前厄ということでしぶしぶ行ったのであるが、中学生で特発性腎出血、二十歳もそこそこで腎臓結石(これを端緒として以降4回)、一昨年には逆流性食道炎、そして昨秋には胃潰瘍で大量吐血と、いずれものた打ち回るような痛み苦しみと闘うという大概の災厄に既に見舞われているのであって、今更大枚を叩いて厄除けというのは遅きに失する感がないでもないが、この辺りは還暦を過ぎた方々の勧めに従うのが、若輩者のあるべき姿というものであろう。
翌日2日は、家人は「初出勤」で早々に家を出てゆき、一人家に引き籠もって一層自堕落な生活を送っている。大丸で「山田洋次監督『東京家族』タイアップおせち」を、21,000円も奮発して購入、最低4日間は一切の食費の支出を控え、朝昼晩の3食、徹頭徹尾これのみを食するつもりでいたのだが、2日目にして早くも飽きてしまい、この先3日間の我が家の食生活は苦行そのものである。それでも少しはあっさりしたものをと思い、自宅の前のセブンイレブンに行った。何とこのご時世では「カップ雑煮」なるものが存在するのである。手軽でありながら正月らしくてええがな、と思い、缶チューハイとともにレジへ持参。電子マネーであるnanacoで決済しようと思うとエラー音が。店員曰く、「残高不足です」と。少額の買い物なのだからnanacoだけで十分と高を括ったのが大失敗、「すみません、財布取ってきますからこのまま置いておいてください……」と消え入るような声で詫びを入れ、脱兎のごとくに自宅へ走った。とんだ「初買い」である。
怠惰な生活を送っていることへの罰が当たったのだと思い、引き籠もるにしてもちょっとは文化的なことをしようではないかと一念発起、久々に「書き初め」でもやってみようと思い立った。何を隠そう、15年ほど前までは、年賀状は毛筆で認(したた)めていたものである。と言っても「謹賀新年」「賀正」といった文字の箇所のみであるが。しかし、書道の心得がない者にとって、「賀正」はまだよいのであるが、「謹賀新年」の「謹」を筆で書くのは案外に難しい。縦横の直線のみでしなかやさがないくせに画数だけは多いという難儀な文字だからだ。素人の私でもそれなりに美しく書けたのは「頌春」である。意味はよく分からないが何となく格調高そうな語に見えるし、自己満悦に浸りながら100枚余りをすらすらと書いてのけた。しかし、無知な私は、「頌春」ということばは、目上の人に宛てた賀状に用いてはならぬものだとつゆ知らず、誰かに教えてもらって大いに恥じ入り、翌年から筆書き自体を止めたのであった。だから筆を執るのはそれ以来である。
さて、どんな文字を書こうかね、と考え倦ねているうちに、小学校のときの冬休みの宿題で、同じように頭を抱えたのを思い出した。漢字や計算のドリルと違って時間のかかるものではないから、書くこと自体は全く苦ではないのだが、ことばを選ぶのに大層悩んだ。「初日の出」「お正月」などではありきたりだし、「お年玉」「集金」では生々しい。そう言えば年末に行った播州赤穂では義士祭の前夜祭をやっていて、地元の小学生たちが忠臣蔵にまつわることばを半紙に記し、それを行燈にして赤穂城址を静かに照らすというイベントをやっていた。多くの子は「忠義」「義士」「うち入り」などと定番のことばを書き、中には「山鹿素行」「陣だいこ」などとレベルの高いものもあったが、ひときわ異彩を放っていたのが、小5の子が書いていた次のものである。
「切腹」
浅野内匠頭の無念を、300年以上も後の小学生が、ここまで力強く、また凄味を持って表現していることに、私は大いなる感銘を受けた。内匠頭も、草葉の陰でさぞ感涙に咽んでいることであろう。平成の世にも忠義の士は健在であり、書き初めもこのくらいのインパクトあることを書きたいものであるが、所詮凡庸な私にそんなものが思いつくはずもなく、そういう発想力の欠損はアラフォーの今とて変わるものでもない。それに15年間触れたことのない筆や墨汁が何処に行ったとも知れない、いや、当然、引っ越し時に捨てているはずなのであって、それでは書こうにも書けぬではないか。半紙も硯も文鎮もないわい。
已んぬるかな、やはり大人しく、「食う・飲む・寝る」に徹するしかないようだ。私の「仕事始め」は5日であるが、無事社会復帰できるか、甚だ不安である。
それはそうとして、昔から、新年の営みは何であっても一々「初○○」や「○○始め(初め)」と言う。試みに手元の辞書で調べてみると、前者には「初売り」「初買い」「初観音」「初時雨」「初天神」「初登り」「初風呂」「初詣で」「初笑い」などがあり、後者では「歌会始め」「着衣(きそ)始め」「御用始め」「手斧(ちょうな)始め」「読書始め」「湯殿始め」「弓場(ゆば)始め」「連歌始め」「謡(うたい)初め」「書き初め」「鍬初め」「乗馬初め」「出初め」「縫い初め」「乗り初め」「履き初め」「弾き初め」「結い初め」などが挙げられている。中には「姫始め」のようないかがわしい語もあって吃驚するのだが、その例外を除けば多くが宮中行事を中心とした雅語であることが関係するのか、これらが縁起物のように言われている。初めて時雨が降っても縁起が良い。初めて縫い物をやっても縁起が良い。初めて髪を結わえても縁起が良い。何につけても「めでたい」を連呼するのであるから、日本人というのは元来、古今東西どちら様も、ポジティブな人種なのであろう。
しかし私の場合、「初風呂」は、前夜の大晦日、自宅で飲み過ぎてそのまま眠りに落ち、そのまま昼過ぎまで惰眠を貪ってその起き抜けに爆発頭を押さえながら入ったのであり、「初詣で」は日も暮れようとする中、重い体を引き摺りながら周りの強い勧めで宝塚の清荒神に厄除けの祈祷に行ったのであって、いずれにしても縁起担ぎとは全くの無縁である。因みに厄除けに関しては、今年が前厄ということでしぶしぶ行ったのであるが、中学生で特発性腎出血、二十歳もそこそこで腎臓結石(これを端緒として以降4回)、一昨年には逆流性食道炎、そして昨秋には胃潰瘍で大量吐血と、いずれものた打ち回るような痛み苦しみと闘うという大概の災厄に既に見舞われているのであって、今更大枚を叩いて厄除けというのは遅きに失する感がないでもないが、この辺りは還暦を過ぎた方々の勧めに従うのが、若輩者のあるべき姿というものであろう。
翌日2日は、家人は「初出勤」で早々に家を出てゆき、一人家に引き籠もって一層自堕落な生活を送っている。大丸で「山田洋次監督『東京家族』タイアップおせち」を、21,000円も奮発して購入、最低4日間は一切の食費の支出を控え、朝昼晩の3食、徹頭徹尾これのみを食するつもりでいたのだが、2日目にして早くも飽きてしまい、この先3日間の我が家の食生活は苦行そのものである。それでも少しはあっさりしたものをと思い、自宅の前のセブンイレブンに行った。何とこのご時世では「カップ雑煮」なるものが存在するのである。手軽でありながら正月らしくてええがな、と思い、缶チューハイとともにレジへ持参。電子マネーであるnanacoで決済しようと思うとエラー音が。店員曰く、「残高不足です」と。少額の買い物なのだからnanacoだけで十分と高を括ったのが大失敗、「すみません、財布取ってきますからこのまま置いておいてください……」と消え入るような声で詫びを入れ、脱兎のごとくに自宅へ走った。とんだ「初買い」である。
怠惰な生活を送っていることへの罰が当たったのだと思い、引き籠もるにしてもちょっとは文化的なことをしようではないかと一念発起、久々に「書き初め」でもやってみようと思い立った。何を隠そう、15年ほど前までは、年賀状は毛筆で認(したた)めていたものである。と言っても「謹賀新年」「賀正」といった文字の箇所のみであるが。しかし、書道の心得がない者にとって、「賀正」はまだよいのであるが、「謹賀新年」の「謹」を筆で書くのは案外に難しい。縦横の直線のみでしなかやさがないくせに画数だけは多いという難儀な文字だからだ。素人の私でもそれなりに美しく書けたのは「頌春」である。意味はよく分からないが何となく格調高そうな語に見えるし、自己満悦に浸りながら100枚余りをすらすらと書いてのけた。しかし、無知な私は、「頌春」ということばは、目上の人に宛てた賀状に用いてはならぬものだとつゆ知らず、誰かに教えてもらって大いに恥じ入り、翌年から筆書き自体を止めたのであった。だから筆を執るのはそれ以来である。
さて、どんな文字を書こうかね、と考え倦ねているうちに、小学校のときの冬休みの宿題で、同じように頭を抱えたのを思い出した。漢字や計算のドリルと違って時間のかかるものではないから、書くこと自体は全く苦ではないのだが、ことばを選ぶのに大層悩んだ。「初日の出」「お正月」などではありきたりだし、「お年玉」「集金」では生々しい。そう言えば年末に行った播州赤穂では義士祭の前夜祭をやっていて、地元の小学生たちが忠臣蔵にまつわることばを半紙に記し、それを行燈にして赤穂城址を静かに照らすというイベントをやっていた。多くの子は「忠義」「義士」「うち入り」などと定番のことばを書き、中には「山鹿素行」「陣だいこ」などとレベルの高いものもあったが、ひときわ異彩を放っていたのが、小5の子が書いていた次のものである。
「切腹」
浅野内匠頭の無念を、300年以上も後の小学生が、ここまで力強く、また凄味を持って表現していることに、私は大いなる感銘を受けた。内匠頭も、草葉の陰でさぞ感涙に咽んでいることであろう。平成の世にも忠義の士は健在であり、書き初めもこのくらいのインパクトあることを書きたいものであるが、所詮凡庸な私にそんなものが思いつくはずもなく、そういう発想力の欠損はアラフォーの今とて変わるものでもない。それに15年間触れたことのない筆や墨汁が何処に行ったとも知れない、いや、当然、引っ越し時に捨てているはずなのであって、それでは書こうにも書けぬではないか。半紙も硯も文鎮もないわい。
已んぬるかな、やはり大人しく、「食う・飲む・寝る」に徹するしかないようだ。私の「仕事始め」は5日であるが、無事社会復帰できるか、甚だ不安である。