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『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 紅白歌合戦を最後まで視聴して、蛍の光の合唱に今年の穢れを濯ぎ、そして23時45分に、それまでの喧騒が一転、『ゆく年くる年』の除夜の鐘を静寂の中に聴く、あの落差が堪らないのであり、ここへ来て漸く、1年の終わりを実感するのである。
 
 1年の終わりと言えば、この時期、各新聞社のサイトで1年のお悔やみ記事のまとめみたいなものを読むという根暗なことを、毎年の恒例行事としてやっている。著名人、とりわけ名優とか名匠と呼ばれる人たちの訃報に接する度に、「また一つ、昭和の灯が消えた」と我々は定型句のように言うのであるが、今年の例えば芸能界を振り返ってみても、二谷英明、淡島千景、中原早苗、小野ヤスシ、地井武男、山田五十鈴、内藤武敏、津島恵子、山田吾一、大滝秀治、馬渕晴子、桜井センリ、森光子、中村勘三郎、小沢昭一といった数々の大俳優が逝き、これは確かに「昭和の灯が消えた」としか言いようのない、寂寞たる思いに駆られるのである。
 
 大切な人を失う悲しみは計り知れないものではあるが、大切な人なればこそ、最高の敬意と謝意をもって送り出したいと思うのは、至極真っ当な人の情けであろう。その意味で、弔辞とか追悼文というのは、何を見たり聞いたりしても、胸を打たれるものである。
 
 名弔辞と言われるものは数あれど、私の記憶に深く残るのは、横山ノックに呼び掛けた盟友・上岡龍太郎のものである(今のところYou Tubeでも視聴できる)。「横山ノックを天国へ送る会」での挨拶なので厳密な意味での弔辞ではないが、「漫才師から参議院議員、大阪府知事から、最後は被告人にまでなったノックさん」と笑いを取ったかと思えば、「そして、いつでも、どんなときでも、必ず、僕の味方でいてくれたノックさん」と涙ながらに語る約5分間に亙る挨拶は、起承転結、緊張と緩和、言葉の韻律、そして故人への想い、それらのいずれもが備わっており、これをこそ話芸と言うのかはと唸らされた。赤塚不二夫の告別式でのタモリの弔辞も歴史に残る素晴らしいものと言われるが、私はこれと双璧を成す絶品であろうと思う。
 
 高校1年のとき、江川先生という、数学のベテラン教師が亡くなった。我々の卒業と同時に定年を迎えるという先生で、それまでずっと受験学年である3年ばかりを担任してきたが、教師生活の最後には、宿泊研修や修学旅行に一緒に行きたいということで、10年以上ぶりに1年を担任することになったのだという。指導には大層厳しい先生であったが、コンパスや定規なしで、曲芸のように円と接線をさらりと、しかし極めて正確に描く板書は、文系の人間である私でさえも舌を巻く、芸術と呼んで差し支えのないものであった。ところが1学期の半ばに急に体調を崩された。休むことを勧められたが、「授業に穴を開ける訳にはいかぬ」と教壇に立ち続けた。そのうちチョークを持つ手に力が入らず、講義に堪え得る大きな声も出なくなった。それでも自宅で板書代わりのプリントを作成し、講義内容を録音して流し、身振り手振りだけで授業を行う様は、最早鬼神としか言いようがなかった。結局夏休み中に息を引き取られた。旧制中学時代に出会い、同じ数学教師として30年以上共に歩んできた同僚の先生が、校内誌に「江川君を悼む」と題した追悼文を寄せた。そこには、学生時代からの思い出が、理系の教師とは思えぬ叙情的な名文で綴られ、それだけでも読む者の涙を誘ったが、最後に「江川君ほど幾何のできる人間に出会ったことがない。その逸材を失ったことが、何より悔やまれてならない」と締め括られていた。生涯現役の教師として職責を全うした同僚に送る餞として、これに勝る賛辞があるだろうか。
 
 自身のこれまでの約40年間の人生を顧みるに、このような賛辞を語ってもらえる何事かを成し遂げてきたかと言えば甚だ自信がなく、弔辞を読んでくれる方を困らせるのではと不安を覚えるばかりである。だからもっともっと、今を懸命に、充実させて生きていかねばならないと思うのであるが、一方で、旅立つ者から遺しておきたいメッセージというのもあろう。
 
 昨年(2011年)4月に、55歳の若さで亡くなった田中好子が、生前、お世話になった人々に遺した肉声メッセージを録音していて、それを本人の告別式で流すということをやった。モルヒネが効いていて呂律が回らず、息も絶え絶えに声を振り絞っての語りには胸が張り裂けそうになったが、何と言うか、人を愛し、慈しみ、大切にする故人の人柄が大いに偲ばれ、感涙を極めるとともに、猛烈な感化を受けた。私も周りの人を大切にし続ければ、きっとその時にはこんな私でも報われるのであろうという確信である。そして、多くの人に見送られたいという故人の思いには大いに共感した。無二の親友に弔辞を読んでもらえたのも本望であろう。不謹慎かもしれないが、心底羨ましいと思った。
 
 私もいつ何があるか分からないから、遺言という訳ではないが、もしもの場合のお願いをしておきたい。
  
 家族のみの密葬は厳禁である。チェーンメールでも何でも構わないからできるだけ多くの人に知らせていただきたい。献花などお金のかかるものは結構である。淋しがり屋だから、ただ逢いに来てくれたらそれでよいのである。弔辞は、同期で最も出世した方に読んでいただきたい。思い起こせば入社も同じ、現業のマネージャーを任せられたのも同時、管理職に昇進したのも同時。内示のあった日の夜、「お互い重たい責任を負う立場になったね」とメールもらったのもしっかり覚えている。
 
 骨は、半分は舞子の海岸から明石海峡に散骨いただきたい。海が大好きである。人間が還る場所として最も真っ当な所と思う。広島で母親の胎内から出てきて、大阪で育ち、岡山で10年余りの多感な時期を過ごし、そして大阪に帰ってきて20年、その間、兵庫県では当時のアルバイト先で震災とも闘った。これらの地いずれにもつながるのは瀬戸内海のみである。残り半分は、大阪平野を見下ろす生駒のどこかの霊園にお願い申し上げたい。この20年、公私それぞれの時間を過ごした場所が望めるし、遠く先、岡山や広島に続く海を眺めれば、これまでに出会った人たちとの思い出が次々に蘇ることであろう。あの世に行っても、きっと退屈することはあるまい。
 
 無神論者なので特に希望の宗派はないが、あの世に行っても、皆が時々お墓参りにきてくれたら幸甚の極みである。
 
 今夏、26年ぶりに再会した中学時代の同級生がこんなことを言っていた。「お互い生きているだけでも奇跡だが、こうして再会できたのは正に奇跡である」と。同級生に既に少なからず物故者がいることを踏まえての言葉であるが、年が明ければいよいよ不惑、今日一日を大切に生きねばという思いはますます募るばかりであり、と同時に遺してゆく人たちにメッセージを紡いでおきたいという想いを込めて、今年最後の拙文としたい。
 大河ドラマ『平清盛』が、史上最低視聴率の記録を打ち立てて最終回を迎えた。勤務先で、私を含む大河フリーク3人が集まり、何故かかる低視聴率に喘いだのかを議論した(仕事せえよと)。「少なくとも、昨年の『ファンタジー大河』よりは10倍以上面白い骨太作品であり、そこまで不人気とは考えにくい」「ほな、松山ケンイチがアカンのか?」「いや、清盛が年を取るにつれてなかなかに凄味が出てきている」「ほな、その他のキャストがダメなんか?」「いや、伊東四朗や中井貴一、中村梅雀や上川隆也など、渋い演技で脇を固めている」「ほな、兵庫県知事がボロカス扱き下ろしたからか?」「確かに公人の発言としてどうかとは思うが、逆に話題となって視聴率アップになるはずでは」「ほな、今日日、皆が皆、日曜8時をリアルタイムで見てないのでは。そもそも視聴率の取り方自体が正しいんか?」「いや、それならばどの番組とて条件は同じであろう」とまあこんな感じで、得心のいく答が見出せない。
 
 そのうち、ある人がこんな意見を述べた。「男性を中心とした政治劇になっていて、全体に女性の描き方が弱い。そこが女性視聴者に受けない原因なのでは」と。女性の描き方が弱いと女性の支持が得られないのかどうか分からないが、確かに、のっけの第1回で、清盛の母・舞子(吹石一恵)が、弁慶の立往生の如くに無数の弓矢を浴びて絶命したのが、女性キャスト唯一の見せ場と言ってもいいくらいで、「悲劇のヒロイン」が全体的に少なかったのである。
 
 ところが、最終回では清盛の死後、壇ノ浦のみならず、義経の死までもが描かれのだが、清盛の妻・時子(深田恭子)が、「海の底にも都はござりましょう」と言いながら幼い安徳帝を抱いて海の藻屑となるシーンは誠に儚く美しく、「諸行無常」をこのシーン1つで全部表現し切ったと言っても差し支えのないものであった。彼女の出世作が、援助交際の末にHIVに感染する女子高生を演じる作品であったことを顧みるに、本作は正に面目躍如と言うべきであり、最終回にして「女性キャストの存在感」を誇示したと言えよう。件の兵庫県知事は、終了後にまだしつこく「画面が汚かった」と悪態をつく阿呆ぶりを世に晒したのであるが、そんなことはどこ吹く風、Twitterなどでは絶賛の嵐で、この視聴率騒動は一体何だったのだろうかと思う。
 
 こうしてフカキョンの入水シーンに落涙しながら堪能した『平清盛』であったが、過去の大河ドラマを回顧するに、「薄幸の女性」は作品の隠れた華であり、その名演は、今でも深く記憶に残っている。
 
 1979年の『草燃える』は、源頼朝(石坂浩二)と北条政子(岩下志麻)を主人公に据え、鎌倉幕府樹立を巡る武士たちの興亡を描いた作品である。普通こういうドラマでは、史実や一般的評価を少々曲げてでも、主人公をヒーローとして描くものであるが、特筆すべきは、頼朝が徹頭徹尾、暗愚の君として描かれている点にある。そして頼朝の暗愚のためにこの世の不幸を一身に浴びたヒロインが、他ならぬ頼朝の娘、大姫である。頼朝と不仲であった木曽義仲が和睦の証として送ってきた嫡男・義高と恋仲になる大姫であったが、頼朝によって義高は殺され、大姫は心を蝕まれ病臥に伏し、20歳の若さで早世してしまう。これを演じる、当時正に20歳だった池上季実子の薄幸の演技は絶品であった。彼女は、1981年の『おんな太閤記』では淀殿を、そして1983年の『徳川家康』では、家康(滝田栄)の正室・築山殿を演じるが、今度は一転、両作品とも烈女の役柄で、特に後者では、嫡男・信康(宅麻伸)とともに家康への謀反を企てた疑いで、誅殺されてしまう。この狂気じみた最期の演技が、また別の意味での薄幸ぶりで大いに魅せられた。
 
 橋田壽賀子のオリジナル作品である1986年の『いのち』は、女医として成長する主人公・高原未希(三田佳子)の一代記であるが、戦争で足が不自由になるも、それを乗り越えて看護婦を志す未希の妹・佐智を演じる石野真子の幸薄げな演技が主人公を差し置いて話題になった。本作が放送されたキューバでは視聴率80%という驚異的な数字を叩き、彼女が後に彼の国を訪れたとき、国賓待遇で迎えられたという逸話もあるほどである。その陰に隠れてあまり目立たないが、リンゴ農家の息子・剛造(伊武雅刀)の妻・初子(山咲千里)のしおらしい演技は、それまでの彼女のイメージを一転させるもので、当時思春期の扉を開けたばかりの私の心を大いに鷲掴みにした。姑・テル(菅井きん)との確執と向き合いながら「農家の嫁」として懸命に働くも、病に倒れ、事もあろうに未希の誤診によって命を落とす。「これをこそ美人薄命と言うのかは」と唸らされ、この辺りは流石、橋田氏の真骨頂と言ったところである。
 
 1988年の『武田信玄』は、信玄(中井貴一)を基軸として、父・信虎(平幹二朗)や嫡男・義信(堤真一)との父子の対立、今川義元(中村勘九郎、後の18代目勘三郎)、北条氏康(杉良太郎)、織田信長(石橋凌)、そして上杉謙信(柴田恭兵)などの諸大名との攻防が重厚に描かれる男臭い作品であるが、信玄を取り巻く女性たちの姿も丁寧に描かれた。とりわけ異彩を放ったのは、三条夫人(紺野美沙子)の侍女・八重(小川真由美)の怪演であるが、若き日の信玄の初恋の人であり、その故に、第1回にしてその八重に殺される村の少女・おここを演じる、当時まだアイドルであった南野陽子の消え入るような演技も印象深い。彼女は後に二役で、信玄の側室・湖衣姫を演じるが、中井貴一に抱かれる演技をしたとき、ショックで撮影後、一人号泣していたという。当時21歳、きっと生娘だったであろう彼女の「番外編の薄幸ぶり」と言ったところか。
 
 この調子で書き連ねると際限がないので、以下箇条書き的に記すが、他にも、『春日局』で、将軍家光との悲恋の果てに自害する遊女・紫(若村麻由美)、『琉球の風』で、銃弾を浴びて蜂の巣状態で事切れる羽儀(工藤夕貴)、『功名が辻』で、秀吉の天下統一のために愛する夫と引き裂かれ、強引に家康に輿入れさせられる妹・旭姫(松本明子)、『風林火山』で、山本勘助の子を身籠もり幸せに暮らすも、信玄の父・信虎の気紛れで子もろとも惨殺される村娘・ミツ(貫地谷しほり)、『龍馬伝』で、ともに夫を非業の死で失うも気丈に振る舞う武市冨(奥貫薫)やお徳(酒井若菜)の静かな悲しみを湛えた演技など、「薄幸の女性」の魅力は枚挙に暇がない。
 
 そう言えば、昔から問われて答に窮する難問の一つに「好きな女性のタイプは?」というのがある。一度、「幸薄そうな人」と答えて顰蹙を買ったことがあるのだが、実際にそういう方とお付き合いをした実績もなく、現在我が家に暮らす女人1名は極めて猟奇的であるから、全く的を射ない答なのだろう。理想の女性像というのは、所詮虚構の世界でのみ美しく、文字通りに「偶像」なのかもしれない。来年の大河は、薄幸とは対極、「ハンサムウーマン」と呼ばれた新島八重の生涯を描く作品であるが、さて、どのように魅せてくれるのであろうか。
 今年のクリスマス・イブは三連休の末日、天皇誕生日の振替休日である。私は「三連休は三連勤」であるから世の人々の喧騒とは全く無縁に生きているのだが、昨日は会社の前の御堂筋を、「天皇陛下万歳」を連呼する街宣車が取っ替え引っ替えのろのろと走り抜け、今日は今日でイエス・キリスト様の降誕を祝すという大義名分の下に、多くの男女が、目眩く愛欲の海にそこら中で溺れているのである。神格化された方々と、ただの平民である自分とを同列に考えるのは如何にも不遜の極みではあるが、しかし、そこまでして皆に盛り上がってもらえるお方というのは、何としても羨ましく思う。私の誕生日は9月14日であるから、前夜である9月13日は、「ナオキマス・イブ」と称し、淀川の河川敷で祝砲の一つでもぶっ放してほしいものである。
 
 しかしそれにしても、このクリスマス・イブの盛り上がりは一体何としたものであろうか。逢瀬を重ねる男女のおそらくほとんどはキリシタンではあるまいし、大体、聖書の一つでも熟読して、キリスト様の降誕に思いを馳せようとする者など多分に皆無である。現任ローマ教皇・ベネディクト16世は、2005年にこんなコメントを発している。曰く、「現代の消費社会の中で、この時期が商業主義にいわば『汚染』されているのは、残念なこと。……降誕祭の精神は、『精神の集中』と『落ち着き』と『喜び』であり、この喜びとは、内面的なもので、外面的なものではない」と。また、2012年12月19日には、イギリスの経済紙であるフィナンシャル・タイムズへ寄稿し、その中で、次のように述べた。「クリスマスには聖書を読んで学ぶべきだ。政治や株式市場など俗世のできごとにどう関わるべきかの啓示は、聖書の中に見つけられる。……貧困と闘わなければならない。資源を公平に分かち合い、弱者を助けなければならない。強欲や搾取には反対すべきだ。……クリスマスはとても楽しいが、同時に深く内省すべき時でもある。私たちはつつましく貧しい馬小屋の光景から何を学べるだろう」。仰せご尤もと言う他なく、私もまたキリスト教徒ではないが、しかしこういう時にこそ、静謐の中で何事かに思索を巡らしたいと思うのである。
 
 私の勤務先は大阪の本町、御堂筋沿いのビルにあるのだが、とりわけ聖夜が日曜や休日と重なったときなど、煩悩と完全に切り離された解脱の世界が茫漠と広がっていた。休日出勤に勤しむ企業戦士に吹き付ける外の風の冷たさたるや並々ならず、体感温度ならぬ「心感温度」は氷点下である。しかるに昨今では、「光のルネサンス」というイベントをやっているものだから、イルミネーションが御堂筋を煌々と照らし、日曜だろうが祝日だろうが、浮ついた者どもが商都大阪の聖地に止めどもなくずけずけと侵入してきているのである。それをオフィスから高みの見物とばかりに見下ろすのも一興ではあるが、それはそれで寒い話で、室内にいながら「心感温度」は再び氷点下を記録するのである。
 
 独身時代、そんな冷え切った心で家路に就き、聖夜といえども通常通り、家の近所のコンビニで晩飯を買って帰るのだが、品揃えがクリスマス仕様となっており、通常の食事を摂りたい者には大層な迷惑であった。かてて加えて、サンタクロースの格好をした店員に売れ残りのケーキを押し付けられるのが耐え難き苦痛であった。こんな時間に疲れ果てた表情を浮かべてビールと惣菜を買わんとする者に、一体どういう料簡でクリスマスケーキなぞ売り付けようとするのだろうかと憤懣遣る方なくなるのである。しかしよく考えれば、彼らとてこの聖なる夜に、店の外にまで出て、顔に刺さる夜風を堪え忍んで懸命に売り子をやっているのだ。今日この日、最もストイックに生きるのは、他ならぬ彼らなのかもしれない。
 
 いつぞやのイブの帰宅時に乗っていたJR環状線の女性車掌のアナウンスで、「次は桜ノ宮」が異様にハイテンション、しかしその次の「次は天満」で一気に鬱声になるのを聞いたことがある。桜ノ宮で大挙して降りてゆく男女の群れを見て、思うところがあったのであろう。彼女もまた、人の業というものを乗り越え聖夜を頑張って過ごしているのに違いない。そんなことに思いを致せば、世の人々がクリスマスだのサンタさんだのと浮かれる時間は、こうして文句や愚痴の一つも言わず、世のため人のために労働に勤しんでいる人々の献身的な使命感によって享受されることなのだと知るのである。そんな切なる尽力に報いるべく、勤労感謝の日は11月23日ではなく、12月25日にしてはどうだろうか。正しいクリスマスである明日なんて市井の人々にとっては単なる残りカス、けれども夜の明けたその日にこそ、大手を振って街を闊歩すればよいのだ。
 
 さて、「一人暮らし×2」の我が家とて、クリスマス・イブなんてどこ吹く風とばかりに共働きに勤しむ貧困家庭であるが、2人して残業を終えて帰宅し、閉店間際の駅前のスーパーで980円から3割引のクリスマスオードブルと、その先のコンビニで小さなショートケーキと缶チューハイを、それぞれ購入。こんな夜更けに今からささやかなクリスマスパーティーである。やいのやいのと言いつつ、やっぱり店頭に淋しそうに並ぶ売れ残りのクリスマスディナーたちを見ると買わずにはおれない我々もまた、商業主義に毒された小市民なのだ。明日も朝は早いから、食って飲んだらさっさと寝なくてはならない。枕元に靴下を置いておいたら、毎日仕事を頑張っているご褒美に、サンタさんは何かプレゼントを入れておいてくれるだろうか。今日1日穿いていたのを脱ぎ散らかした、馨しき靴下ではあるが。

 JR東海が、山梨県都留(つる)市のリニア実験線車両基地で、リニアモーターカーの新型車両「L0系」を公開した。未来がまた一つ現実味を帯びてきたと感ずるニュースではあるが、幼い頃、「東京・大阪間が1時間で結ばれる」と吹聴されたリニア中央新幹線の全線開業が現実のものとなるのは、何と2045年のことになるらしい。そのとき私は72歳。定年前に皆に惜しまれながら逝き、盛大なる社葬を以てあの世に送り出してほしいと願う私は、子どもの頃から憧れてきた「未来の超特急」をついぞ経験しないまま、永訣のときを迎えることになるのである。こればかりは現世への心残りとなりそうで、成仏できないのではないかと、今から大いに心配である。
 
 子どもの頃に思い描いた「21世紀の未来」というのは、そこら中にチューブ状のムービングウォークが張り巡らされて人々が行き来し、その人間は宇宙服のような衣装を召して生活している。そして遠く離れたところを考えられないような短時間で結ぶリニアモーターカーは、「21世紀の未来」の最大の象徴であった。当時の「ひかり号」が3時間10分をかけて結んでいた東京・新大阪間を、時速500km、僅か1時間で駆け抜けるというのだから、これはもう、物凄いことである。
 
 生まれて初めて東京の街に降り立ったのは、小学1年生のとき。叔母の結婚式が行われるということで、そのとき住んでいた岡山から、新幹線に乗って旅立った。当時の東京・岡山間は、最速のひかり号でも4時間10分を要する長旅であるが、台風の通過直後で、新幹線のダイヤは大幅に乱れて2時間以上遅延し、まだ幼稚園児でもともと無料だった妹を含めて一家4人、岡山から東京まで無賃で行けたと、両親が狂喜していたのを記憶している。狂喜するのはよいが、指定席が全て解除されて自由席になるという、現代では考えられないような措置が取られ、すし詰めの中で東京までの行程を耐え忍ぶ苦行であった。満員電車に詰め込まれて幼子が長時間じっと黙っていられるはずもなく、妹はその内狂ったように泣き出すのであるが、たまたま立っていたのが車掌室前のデッキで、心優しい車掌さんが、車掌室を開放してくれ、座らせてもらった記憶がある。国鉄が荒廃し切っていた時代だったと思うが、新幹線に乗務する人々の誇りや矜持は別格であり、7歳にして「旅は道連れ世は情け」の何たるかを知ったのであった。
 
 次に東京へ旅するのは、それから随分経った、大学1回生も終わらんとする早春の日のことである。東京の大学に進学した幼馴染みを訪ね、アルバイトの給与を貯めて自分で買った新幹線の切符を握り締め、昼下がりの新大阪から一人、乗車した。時は流れ、東京行きの主流は既に「ひかり号」から「のぞみ号」にシフトし、今と同じ2時間30分にまで所要時間は短縮している。今回は、シートにゆったり身を委ね、目まぐるしく移り変わる車窓を愛でながらの旅であった。新大阪発車時には晴天であったのに、関ヶ原付近で突然猛吹雪に見舞われ、車窓は一転、銀世界に。ところが名古屋に到着すると何事もなかったかのように晴れ渡り、そして静岡を通過したあたりで、真っ赤に染まる夕空に映える富士の高嶺が視界に飛び込んできたときは、思わず感嘆の声を上げてしまった。その後は度々上京の機会を持ち、就職してからは出張で東京へ行くことも多いのであるが、新幹線の旅と富士山の車窓は、常に切っても切り離せない。
 
 私は生来の「いらち」であるから、如何に旅好きとは申せ、「青春18きっぷ」を片手に、大阪から東京まで鈍行を乗り継いで行こうとはどうしても決断できないのであり、その意味でもリニア新幹線の全通は一日千秋の思いで待ち焦がれるところであるが、それならば、それこそ1時間で飛んで行ける飛行機に乗ればよいではないかという意見もあるかもしれない。しかし、飛行機というのはどうにも好きになれないのであって、あんな金属の塊が宙に浮くことが何としても得心できないのであり、それより何より、「旅の醍醐味は、移りゆく車窓を愛でること」を信条とする私にとって、何の変哲もない空と雲を眺め続けることは耐えられないのである。葛飾北斎を引き合いに出すまでもなく、富士の頂は、やはり地上から仰ぎ見るのが正しいあり方なのだ。
 
 車窓を愛でることを信条にすると大言壮語に及びながら、一方でスピードを求めるという自己撞着に陥る自分に嫌気の差すところであるが、そんな私の胸に突き刺さる1つのメッセージがある。1989年に、JR東海は「リニア・エクスプレス」というCMを放映している。「シンデレラ・エクスプレス」に代表される、当時キャンペーンを張っていた「エクスプレスシリーズ」の一環であるが、このCM(
http://www.youtube.com/watch?v=4W38UyWNudc)で語られる次のメッセージがそれである。
 
 一日は、もっと長かったと思う。
 小学生の時、一時間はとんでもなく長かったけど、
 高校に入ったら、一時間は随分短くなった気がする。
 近頃、時間が経つのが早くなったような気がする。
 大人になると、もっとひどくなるらしい。
 このままでは少し怖い気がする。
 だから、年を取る前に、何かが変わらないと、
 私の時間はなくなってしまうと思う。
 
 ここで既に、JR東海自らが「西暦2000年、時速500km、東京・大阪1時間」と謳っているのに、12年経った今もその約束が履行されないことを突っ込みたいのではない。「リニア・エクスプレス」を宣伝するCMで、その最大の売りである時間短縮に対して述べられるアンチテーゼが、それから20年以上を経て「大人」になった今、ずしりと我が胸に響くのである。計画通りの人生だと、私はもう、その折り返し点を過ぎていたのだ。少年時代に思い描いた21世紀はいつしか「なつかしき未来」になってしまっている。現実の21世紀は、その「なつかしき未来」にはまだ遠く及ばないのであるが、それ以上に自分の進歩や成長は足踏みなのであって、しかし時間はどんどん過ぎていくばかり。「何かが変わらないと、私の時間はなくなってしまう」という焦燥は今正に、身を以て痛感されるのである。不惑を来年に控え、新幹線のスピードアップよろしく生き急ぐのを少し止めて、少年の心を再び呼び起こし、改めて、この先歩んでいくべき「未来」を思い描いてみたいと思う。できるだけ、希望に満ちた、明るい未来を。
 
 その前に、来年は前厄であるから、年が明けたらすぐに、厄除けに行ってこないといけないのであるが。

 京阪電車のイメージキャラクターである「おけいはん」がこの度代替わりし、一般公募により選ばれた大学生が5代目の座を射止めた。
 
 初代が「淀屋けい子」、2代目が「京橋けい子」、3代目がなぜか「森小路けい子」、そして4代目が「楠葉(誤記ではない。駅名は「樟葉」だが、地名は「楠葉」なのである)けい子」と来たから、遂に京都に達して「八幡けい子」とか「伏見けい子」とかになるのかと思いきや、一気に逆戻りして「中之島けい子」である。鳴り物入りで開業した中之島線が全くの閑古鳥で、淀屋橋駅の利用者からは「本来なら確実に座れるのに本数が減って、迷惑を極める新線である」と扱き下ろされる始末であるから、何とかその名誉を回復したいという思惑が見え隠れする。しかし、京阪沿線に生まれ育った者からすれば、「光善寺けい子」とか「御殿山けい子」とか「六地蔵けい子」とか、これくらいの意表の突き方を期待したいところであった。
 
 そんなことはどうでもよいのだが、今回の5代目おけいはんの選考結果を巡って、ちょっとした「炎上」になっている。一般公募が行われたのは今回が初めてであるが、事前に行われたWEB投票の結果が「4位」だった人が選ばれたのである。京阪電車のホームページによると、1位が98,174票、2位が91,305票、3位が77,854票、そして5代目に決定したこの人は56,892票であるから、1位とは40,000票以上開いており、有効投票数が411,615票であるから実に1割の差である。「WEB投票の結果は、最終選考会の参考資料とする」という説明は事前にあったものの、ここまで差が開くと疑義が生じるのも宜なる話であろう。
 
 今回の最終選考会の選考委員は、成田山不動尊の執事、京阪電鉄の社長、そして初代と4代目のおけいはんと、ここまでの人選は分かるのだが、作家の若一光司氏と、どこかの着物学院の院長は、何の必然性があって名を連ねているのであろうか。とにかくこの6名が、約40,000票の差を制して、「新おけいはん」を選んだのである。
 
 早速、FacebookやTwitterでは、「WEB投票って何だったのか。投票結果が尊重されないなら最初から選考委員だけで決めればよかったのでは」とか、「これでは出来レースではないか」とか、「新CMのフレーズは『みんなで選んだおけいはん』とあるが、到底『みんなで選んだ』結果ではない」とか、「思った以上に、フツーな感じの人ですね」などと、選考結果が腑に落ちないとする憤怒や憤懣の声が飛び交っている。それにしても「フツーな感じの人」とはお門違いも甚だしい的外れの意見なのであって、先代である4代目などは本職の女優でありながら大いに「フツー」の感じを醸し出しているのであり、「京阪沿線に住んでいるフツーの女の子が、地元民の視点で京阪沿線を宣伝する」のがコンセプトであるのだろうから「フツー」でよいのであるし「フツー」でなければならぬのである。タカラジェンヌみたいな人が「京阪乗る人、おけいはん!」と絶叫していたらどうあってもおかしいだろうよ。
 
 再び話が逸れてしまったが、私自身、5代目の「新おけいはん」自体に異論がある訳でなく、また他の5名の候補のいずれかを特段に推していた訳でもない。ただ、こうした公募制においては得てして民意が必ずしも反映されないことも多く、民主主義の何たるかを考えてしまうのである。
 
 類例としてよく話題に上るのが新地名の決し方である。平成の大合併において、雨後の筍の如く全国各地に誕生した「ひらがな地名」というのがあるが、その先鞭と言えるのが埼玉県の県都、「さいたま市」であろう。浦和・大宮・与野の3市が合併し、後に岩槻市も編入されて、人口約123万人の政令指定都市が誕生したのであるが、新市名の決定には相当な紆余曲折があったようである。まず新市名の公募を行い、その結果は、1位が「埼玉市」で7,117票、2位が「さいたま市」で3,821票。3,008票を集めて3位だった「大宮市」を推す旧大宮市は、端から公募制自体に反対するなど猛烈な抵抗をして膠着したのだが、それ以上に問題なのは、公募結果の中から新市名候補としたのが「埼玉市」、「さいたま市」、「彩都市」(5位)、「さきたま市」(7位)、「関東市」(37位)と、「上から順に5案」ではなかったこと、そして最終、2位の「さいたま市」の倍以上の票を集めた「埼玉市」が落選したことである。決定の理由は「市名から受ける感じをやさしく柔らかくするイメージがある」という、ひらがな地名選定の際のお決まり文句であるが、これが1位を抑えて2位を採用する合理的な理由に当たるのかどうか、当時の新市名検討委員会の見識が問われるところであろう。
 
 民主制においては、「多数決」が比較的最もよく民意を反映できるということで用いられるのであるが、全会一致でない限り、必ず「反映されない民意」が存在する。組織票など、恣意的な力が働くと衆愚政治につながる危険性も孕み、万能ではない。決選投票など、何とかそうした問題をクリアする手法も考えられるのであるが、いずれにしても少数意見を汲み取ることはできない。組織のマネジメントに当たる者はこの不条理に苛まれる局面が少なからずあるのであって、最終的には自らがその意思決定をせねばならない。それには相当な深謀遠慮や判断力、さらには調整能力が求められ、多数の意見を採れば少数意見の黙殺や切り捨てと非難され、少数意見を採用すれば圧倒的多数を敵に回すことになる。最悪の場合、組織分裂を招来するというのは、何となればこの数日の政局を見ていても明らかで、私などは、役職手当というものはそうしたものを背負う重圧に対する対価ではないかとさえ考えるものであり、かかる苦悶と向き合ったことは数知れずである。「絶対文句言わへんから、あんたが決めてよ」と言ってもらえたら、どれだけ楽なことか。
 
 所詮、完全な民主主義なんて実現不可能な絵空事よ、と厭世的な結論になってしまうのだが、「新おけいはん」の選考委員には、せめて如何様に“民意”を汲んだのかお尋ねしたいところであるし、それより何より、5代目「新おけいはん」が、本人の与り知らぬところで展開される「炎上劇」に屈することなく、立派にその“名跡”を襲名してもらいたいと、京阪沿線を愛する者は、切に思うのである。