成果も過程も求めない武道的覚悟① | 卍老人残日録

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-真剣道継承未完- 

私も年齢とともに衰退してきている

口居合にも限度があり、自分が言った理論通りに身体操作ができないでは、文字通り空念仏

 

自らに恥ずかしいことになってしまう。

そこで、申し立てできるうちに書いておこうという算段で始める。

 

成果を求めないとは、居合は自らに向かってやるものであるという河野宗家のことば通りに、あれができた、これが優れている、という事柄を「他者と比較しない」という原則による

 

だから試合などは興味がない。

 

おのれより業が低いものと争って(笑)勝つのが面白いのだろうか? 私には理解できないのだ。

 

あるいは空中に刀刃を走らせて、その姿がかっこいいなどと、あまりにも先人の偉業からかけ離れた志操に陥ったものであるよなと嘆いている。

 

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先日も稽古中に興一剣氏と会話した、彼は刀剣の勉強を始めたらしい

 

「試し切り専用の刀は身幅が広いらしいですね」

 

「そうです、現代刀の特注で包丁みたいなのもあります」

わら斬りに特化した、現代刀を見たことがある、それらは客注に答えたもので、現代刀匠の経済活動の困難さを知っている私としては非難できない。

 

しかし、注文者はいかがなものかと思っている

 

 

自らが学んでいる居合というカテゴリーにおいて自分の業で果たして「斬れる」のだろうかという素直な問いは当然だろう

 

しかし、見事にバッタバッタ斬ってさあどうだということには問題はないだろうか?

 

なぜならば、日本刀はニンゲン、しかも敵対する相手を殺傷するために存在し、発達してきた「武器」なのだから

 

そもそも、わらや竹などを斬るためではない(笑)

 

興氏とのこの会話は「だから、お門違い」の刀がありますということで終わった。