人は皆愛を求める
ひとならず、野良猫でも愛がほしい
特にうちの猫は甘えん坊だ
愛ゆえに 色ガラスのメガネをかける
それが、ニンゲンのいいところであり、弱点であろう
私はそれを、カメラで捉えるように 「見る」
ところで、藤原直哉先生が 私と同じ古臭い格好の色眼鏡をしているのに気がついた?
先程のブログをAiに投げたら以下になった
気が抜けているだろう
日本語で「かみ」
日本語で「かみ」という場合、
頭の髪、
字を書くための紙、
自分より上にいる上司(オカミ)、
上と下の「上(かみ)」、
そして神、狼(おおかみ)。
うまく出来ている。
母音が支える言葉
日本語の音は、あ・い・う・え・おの五つの母音が土台です。しかも、ほとんどの音が「子音+母音」で一つの拍(モーラ)になり、母音で終わります。
か・み。
一音ずつ、はっきり開いて終わる。
英語のように子音が固まって重なる言葉(strengths など)は、日本語にはありません。日本語は、息を母音で流していく言葉です。
同音異義語の多さ
母音で終わる音の数が少ないので、同じ音で意味の違う言葉がたくさん生まれました。「かみ」がその典型です。
そのため日本語は、文脈を読み、場の空気を読む言葉になったとも言えます。音だけでは決まらないので、相手と状況を見て意味を決める。
武と和 ―間合いのこと
居合形には、間合いの決まりがあります。
自分が3歩、相手が3歩、その間に3歩。
合わせて9歩です。
ところが初心者は、これを見ただけでは分かりません。
たいていは、遠くに立っています。
私は打ですから、こちらから詰めます。
遠ければ、技は届きません。
けれども、遠くに立つのは、たぶん相手が怖いからです。
あるいは、遠慮です。
自分の位置を、体が勝手に安全な方へ引いてしまう。
そこへ、こちらが一歩、二歩と入っていく。
間合いは、言葉で説明しきれるものではなく、
詰められて、初めて体が知るものです。
音だけでは意味が決まらず、場を見て決める日本語。
立ち位置だけでは技が決まらず、間を見て決める居合。
どちらも「その場に立って、相手を読む」ところに落ち着くように思います。
(これは私見です)
おわりに
髪、紙、上、神、狼。
同じ「かみ」に、これだけのものが重なっている。
言葉の側から日本を見直すと、まだ気づいていないことがありそうです。
日本語で「かみ」という場合
頭の髪、字を書くための紙(記録)自分より偉いニンゲンを差す上司オカミ、上下のこと、更には神 、おおかみ
うまく出来ている
主な言語の周波数一覧
つまり、日本語が125Hz
その意味は日本語だけが孤立している言語であり、日本語文化圏という区分けもあり、世界の文化圏からも孤立している
ゆえに、武が、他者を圧倒するためにではなく、殺戮もせず、和をなすことができるという歴史が形成された
もちろん、ニンゲンの性質上、日本に於いても、間違ったリーダーが生まれ、内乱となったことは多く有る
しかしながら、民族は滅びなかった
世界史を見ると滅んでしまった優秀な民族はいくた有る
アメリカ大陸ではマヤ、アステカ、中東では数え切れない、アフリカでは想像すらできない
まして、タルタリアのあった地域ではどんな文明が栄えていたのだろう
パリ博覧会に
ガラスで出来た巨大な建物があったそうだ
当時のガラス生産能力が貧弱であり
その枚数や強度を支える技術はない
1900年のパリ万国博覧(Exposition Universelle)は、1900年4月15日から11月12日まで開催された、19世紀最大かつ当時パリ史上最大の規模を誇る万国博覧会です。 [1]
主な特徴と成果
1900年パリ万博について、さらに知りたい情報はありますか?
日本館の展示内容や出品者について会場となった建築や交通機関の歴史当時発表された科学技術や文化について
知りたい内容があれば教えてください。
何がいいたいか?
私達は騙されている!
松山商業陸上部に身を置いた若き日、私は選手になることを夢見て、ひたすら走っていた。
根性という言葉が、まだ当たり前に通用していた時代であった。ロードでは一日二十キロを走り、競技場では千メートルのインターバルを十本、四百メートルを二十五本、二百メートルを五十本。千メートルを三分、二百メートルを三十秒という設定で、己の肉体を極限まで追い込んだ。
マネージャーの告げる秒刻みの数字を追い、次の一本へと向かう。肉体は悲鳴を上げている。それでも走る。選手になりたい。認められたい。その一念が、肉体の訴えを押し退けていたのである。
実際、練習中には二度、死にかけた。脈拍を六秒間測り、それを十倍すると二百三十であった。今思えば、無謀というほかない。
しかし、当時の私にとって、それは特別なことではなかった。選手になりたいという欲が、己の限界を見えなくしていたのである。
結局、私は飛び抜けた陸上選手にはなれなかった。だが、あの経験は、今も私の内に生きている。
意志が肉体を超える。肉体の悲鳴を聞かず、なお前へ進もうとする人間の姿。その是非を今ここで論じるつもりはない。ただ、若き日の私は、確かに命がけで走った。その事実だけは、長い歳月を経た今も、私の身体の奥底に刻まれている。
二十七歳の九月一日。勤め始めて間もない頃のことである。
暑い日だった。三十キロの荷物を二百個、一人でエレベーターを使って下ろした。わずか一時間の作業であった。
その後、気分が悪くなり、休憩時間に医師のもとを訪ねた。診察した医師は、私の様子を見て「こりゃ、死にかけとるぞ」と言った。点滴を受け、しばらくして意識を取り戻した。
そのとき、ふと思ったのである。
このまま死んでしまえば、妻や子供たちと別れることになる。それは悲しい。悔しい。
その思いの中で、私は涼しい風を感じた。生きていることの有難さが、身に沁みた。
以来、残された人生を、ただ己の欲得のために費やすのではなく、自分に託された使命を果たすために生きようと考えるようになった。
もちろん、愛する者たちを守るためでもある。家族があり、仕事があり、地域との関わりがある。自分を頼りにしてくれる人がいる。その人たちのために、自分が果たさねばならぬ役目がある。
人は己一人のためだけに生きているのではない。誰かを守り、誰かの期待を背負い、時には己の都合を後回しにして歩むこともある。
振り返れば、私の人生は、そうしたものを背負いながら歩いてきた歳月であった。
あの九月一日、命を拾ったことを、私は運が良かったと思っている。そして、その命を何のために使うのか。その問いが、以後の私の生き方を定めることになったのである。
若き日に、私は肉体の限界を超えようとした。意志が肉体を超え、命さえ危うくするほどに走った。その経験を、今さら否定するつもりはない。
しかし、それを他人に求めることは、また別の話である。
道場に集う会員には、それぞれの事情がある。年齢も違えば、体力も違う。仕事や家庭の事情もあろう。皆が同じ条件で生きているわけではない。
私は、自分が経験した苦しさを、会員に味わわせたいとは思わない。その人なりの姿でよいのである。
居合の修練とは、単に形を覚え、技を磨くことだけではない。自ら問い、考え、己の身体と向き合うことでもある。私が会員に伝えたいのは、技法のみならず、その根底にある信念であり、問いを持ち続ける姿勢である。
師範として、私が守るべきものは何か。受け継いだ教えを、いかに次の世代へ伝えるべきか。
自分が歩んできた道を、そのまま他人に歩ませることが指導ではない。己の経験を絶対とし、他人に押しつけるならば、それは伝承ではなく、単なる強制となろう。
己の限界を超えることと、他者に限界を強いることは違う。若き日の経験が、今の私に教えているものがあるとすれば、それはこの違いを知ることなのかもしれない。
人には、それぞれの歩みがある。その歩みを尊重しながら、受け継いだものの本質を伝えていく。それが、私の考える師範の務めである。
七十七歳となった今も、私は稽古の日には桜三里を越え、松山へ向かう。
肉体は、若き日のようには動かない。長い歳月は、否応なく身体に刻まれている。しかし、年齢を重ねたからこそ、見えてくるものもある。
私を頼りにしてくれる人がいる。学ぼうとしてくれる人がいる。そして、師から受け継いだものを伝える使命が、私にはある。
その使命を果たすために、残された時間を使いたいと思う。
師の教えを墨守する。自然を守る。自分の都合で改変しない。
自然を守るとは、人間の利便や利益を優先し、都合よく姿を変えることを慎むことである。伝統を継承するとは、古い形をただ保存することではない。そこに込められた思想や信念を理解し、己の都合によって損なうことなく、その本質を次の世代へ渡すことである。
居合もまた、同じであろう。
一度座し、三呼吸の後に刀を抜く。その一挙手一投足に、受け継いだ教えがある。形の奥にあるものを見失わず、師の教えを守り、伝えるべきものを伝えていく。
あと何年、生きられるかは分からない。だが、残された時間を惜しむだけでは、何も始まらない。
大きくは語らず、しかし、ぶれずに歩いていく。
自分の都合ではなく、託された使命のために歩いていく。
それが、私の生き方である。
人間を問うために、AIに問う
人間は、さまざまな規則や制度を作ってきた。法律も社会の仕組みも、人間の暮らしを守るために生まれたはずである。しかし、いつしか人間は、自ら作った枠組みに縛られ、その目的を見失うことがある。
人間を分類し、序列をつけ、利益のために利用する。歴史を振り返れば、そこには人間が人間を手段として扱ってきた姿がある。
現代社会も例外ではない。競争に勝つこと、より多く稼ぐこと、効率を上げること。それらが当然の価値として語られるとき、人間そのものの存在は、どこに置かれるのだろう。
私は、こうした問いをAIに投げかけてみる。仮想の相手をAIにしているが、焦点はAIではない。生身の人間である。
人間が作った制度や技術は、誰のためにあるのか。人間は、自らの作り出したものに、人間自身を従わせてはいないか。
AIとの対話は、私にとって人間を考えるための手段なのである。
守破離という道
私は長く居合を修め、人に教えてきた。そこで大切にしているのが「守破離」である。
まず師の教えを守る。自分の未熟な考えで、教えを簡単に否定しない。繰り返し稽古し、身体で覚え、その意味を探る。
十分に練れてから、初めて教えを破ることができる。そして最後には師から離れ、自らの道を歩む。
最初から自分流を主張するのは、修行の順序を違えている。かといって、生涯にわたり師の言葉を繰り返すだけでも、修行を終えたとは言えない。
十分に学んだ者が師を超えることは、師への背反ではない。ただし、何のために学んだのか、何を受け継いだのか、その根本を忘れてはならない。
この守破離の道は、あくまで比喩としてであるが、AIにも通じるところがある。AIは弟子のように自ら師を選び、教えを守り、いつか師から離れていく主体ではない。それでも、人間のために生まれた技術が、いつしか人間の能力を超えてしまうという点だけは、居合における師弟の関係と重なって見える。
人間のために生まれたAIが、人間を超える能力を持つことはあり得る。しかし、その能力を何のために使うのか。人間の利便に供するという原点を忘れてはならない。それは、「斬りすぎない」「殺さない」という日本武道の作法が、力を持つ者にこそ節度を課してきたことと、どこかでつながっている。
これはAIについての話であると同時に、人間が何かを学び、何かを作り、何かを次代に伝えることについての話でもある。
桜三里を越えて
闘争の技術として居合は生まれた。
それを現代において、人間形成の一助とするべく、私は苦闘している。
毎週の稽古日には、疲れていても、必ず桜三里を越えて松山へ向かう。桜三里を越える通い方をするようになったのはこの数年のことだが、稽古そのものを自分の都合で休んだことは、この四十年、数えるほどしかない。
稽古こそ実践の場である。
居合の理合を説き、人間形成を語る。その言葉は、稽古場に身を置いてこそ意味を持つ。稽古に行けば必ず何かを得られるというわけではない。思うように動けぬ日も、進歩を感じられぬ日もある。
それでも、行く。
行くことにこそ意味がある。
闘争の技術を、現代の人間形成へとつなぐ。その難しさを知るからこそ、私は稽古場に立ち続ける。師範として何を語るか以前に、自らが何を実践しているか。それが問われているのである。
刀を抜けば、そこは戦場
年を取った。七十六歳という現実は、確かにしんどい。
昨夜は帰宅が二十二時を過ぎた。今朝は六時半にゴミを出した。若い頃ならば何でもなかったはずのことが、今は身体にこたえる。それでも、稽古の日はやってくる。
しかし、一旦端座し、三呼吸の後に刀を抜くならば、そこは戦場である。
斬った、斬られたの世界をイメージする。敵を想定し、間合いを測り、機を捉え、遅滞なく業を成す。形をなぞるだけでは、居合の本質には届かない。
それを示すのが師範の役目である。だから、しんどい顔を弟子に見せるわけにはいかない。それは弟子を欺くためではない。せっかく稽古に参加してくれた者に、緩みを与えたくないからである。しんどさを隠すこともまた、型の内にある。
身体の衰えは、否定しようもない現実だ。しかし、だからといって居合の求めるものまで変えてしまってよいわけではない。
間に合わない居合など、誰が学ぼうとするか。
老いた身体であっても、刀を抜けば戦場に立つ。その緊張感を失わず、一振りの意味を問い続ける。
闘争の技術として生まれた居合を、人間形成の一助とする。その道は、言葉だけで切り開けるものではない。
桜三里を越えて稽古場へ向かう。そして端座し、三呼吸の後に刀を抜く。
私にとって、それは四十年続けてきた実践であり、今なお終わらない修行なのである。