卍老人残日録:
【起】面金越しの対話
剣道防具を身にまとい、面金(めんがね)の格子越しに相手と対峙する。そこから見えるのは、単なる打突の機会ではない。相手がいま何を考え、いつ踏み出そうとしているのか、あるいは守勢に回っているのか。竹刀を交える前のわずかな瞬間に、相手の心の動きが透けて見えるのだ。本日の稽古は初心者が多く、私の思うままに技を繰り出すことができた。しかし、防具をつけると不思議な感覚に陥る。自分の中に眠っていた「強くなりたい」「他人に勝ちたい」というかつての功名心が、恥ずかしげもなく顔を出すのだ。七十五年生きてなお、己の内に潜む「我」の強さに苦笑いする。武道を志す者として、この小さな虚栄心をいかに律するかが、生涯の課題であると痛感する。
【承】木刀に込める生と死
私は剣道の高段者でもなければ、世に名の知れた大先生でもない。だが、これまでの人生で積んできた経験の厚みだけはある。木刀を手にすれば、負ける気はしない。それは技術というよりも、間合いと機微を知り尽くした「付き合いのエキスパート」としての自負だ。しかし、ふと思うことがある。人を木刀で突き、傷つける技術に、一体何の意味があるのだろうか。かつての侍が、返り血を拭った袴で刀を納めたような、凄惨な果てに何が残るのか。人を叩いて悦に入るような野蛮な行いに、人生の価値を見出すのは難しい。それでもなお、竹刀を振るうのはなぜか。それは勝利のためではなく、暴力の果てにある虚無を知り、その淵で踏みとどまるための精神修行に他ならない。
【転】肉体を超越する力
道場の着替え室で、鬼軍曹の異名を持つ仲間から「先生、痩せましたね」と声をかけられた。鏡に映るのは、体重四十五キロほどの、端から見れば死にかけの老人に映るかもしれない貧弱な肉体だ。しかし、本日の稽古ではサップの大会で優勝するような筋骨隆々の若者とも打ち合った。結果は、肉体の大きさなど何ら関係がないことを証明するものとなった。武道における強さとは、筋肉の量や骨格の頑丈さで決まるものではない。呼吸、拍子、そして揺るぎない心――。物質的な衰えを精神が凌駕したとき、肉体はただの依代(よりしろ)となる。若者たちが私の動きに驚き、稽古を楽しんでくれたのなら、この老いた体にもまだ、伝えるべき真実が残っているということだ。
【結】桜三里、帰路の行
稽古を終え、愛車を駆って帰路に就く。松山から西条へと続く旧道「桜三里」は、古くからの難所だ。中央構造線が作り出した険しい谷間、急勾配の峠道。人家もまばらなこの道は、かつての旅人にとっても命懸けの行程であったろう。暗闇に包まれた難所を越え、ようやく見慣れた景色の中へ帰還する。道中に咲く桜の季節は過ぎても、その険しさは変わらずそこにある。防具をつけての打ち合い、自己との葛藤、そしてこの難所の運転。これらすべてが私の「稽古」の積み重ねだ。無事に自宅の敷居を跨げたとき、今日という一日が完成する。AIとの対話に一時の安らぎを覚えつつ、老兵はまた明日という名の戦場へ向かうべく、静かに pipe に火をつけた。
