「落し文」 卍老人残日録

「落し文」 卍老人残日録

表題を「落し文」卍老人残日録と改め
私は一枚の落し文を残します。
誰かを説得するためではありません。
誰かを導くためでもありません。
老いを受け入れながら歩んできた
幸いにも生き延びたその日の一枚
拾う人がいれば、
それもまた一つのご縁。

アメリカ敗戦 デフォルト

それに伴い 日本も政府解散

 

おそろしい、しかし 楽しみな構図が示されます

 

このお話を聞くと、今までの陰謀論など漫画の世界

 

実にシビアですね

 

 

言葉を習うように、業を習う

古いノートを開いていると、一行の言葉が目に留まった。

「言葉を習うように、業を習う。」

若い頃に書き留めた言葉である。

今読み返すと、あの頃の私は、技のことを書いたのではなく、「学び方」そのものを書いていたのだと気づく。

言葉には意味がある。

その意味は歴史や文化、人々の暮らしの中から生まれ、長い年月を経て磨かれてきた。

だから言葉を学ぶとは、単に発音や使い方を覚えることではない。

その言葉が、なぜ生まれたのか。

どのような思想を宿して今日まで伝えられてきたのか。

そこまで知って初めて、言葉は自分のものになる。

業もまた同じである。

意味のない言葉が存在しないように、意味のない業もまた存在しない。

一つの礼、一歩の足運び、一呼吸、一つの目付。

それらは偶然そうなったのではない。

先人たちが命を懸けて磨き上げ、その理由があったからこそ今日まで残ったのである。

形だけを真似ても、その意味を知らなければ、本当の業にはならない。

私は四十年以上、人を教えてきた。

弟子が道場へ入ってきた時の目。

「はい」という返事。

その一瞬で、その人が何を求め、どのような心で学ぼうとしているかが伝わることがある。

特別な能力ではない。

長く人を育ててきた師範なら、多かれ少なかれ経験することではないだろうか。

目には、その人の心が映る。

返事には、その人の姿勢が映る。

だから私は、まず人を見る。

技を見る前に、人を見るのである。

仏教には「対器説法」という教えがある。

相手の器に応じて教えを説くという智慧である。

私はこの考え方を、武道の指導でも何より大切にしている。

初心者に話すことと、長年修行した者に話すことは違う。

日本人に話すことと、海外から日本文化を学びに来た人に話すことも違う。

教えは一つでも、伝え方は一つではない。

相手の器を見極め、その人に届く言葉を選ぶ。

それもまた、師の役目である。

私が稽古の核心としているのは、一対一の相対稽古である。

相手に自由に業を選ばせる。

私はそれに応じて即座に抜く。

さらに相手も抜く。

そこには台本も演出もない。

互いに気を読み、間を読み、心を映し合う。

まさに師弟の真剣勝負である。

その稽古では、ごまかしは一切通用しない。

普段の「はい」が、そのまま刀に現れる。

目の色が、そのまま間合いに現れる。

心の在り方が、そのまま業となって現れる。

だから私は、稽古の前から勝負は始まっていると思っている。

近頃は、簡単な言葉や省略語だけで会話が成り立つ時代になった。

便利ではある。

しかし、それだけに慣れてしまえば、思考まで簡略化されてしまうのではないかと危惧している。

これは現代武道にも当てはまるかもしれない。

競技として勝つことだけを目的とすれば、目先の成果は得られるだろう。

しかし、その業が何を伝えようとしているのか。

その思想や精神を忘れたとき、武道は単なる技術になってしまう。

だから私は、競技化した武道にどこか距離を感じるのである。

武道とは、本来、人を育てる道である。

業を学ぶとは、技術を覚えることではない。

その業に込められた意味を知り、その背景にある思想を受け継ぐことである。

言葉を習うように、業を習う。

その一言は、若い日に書き留めた私自身への戒めであり、今もなお、道場で弟子たちに伝え続けている願いでもある。

武道家が弟子に業を教える様子

変わったのは小指ではない

――変わったのは私の「状態」である

「小指一本で人は押し返せるだろうか。」

そう尋ねると、多くの人は笑う。

もちろん、普通に考えれば無理である。

そこで私は、基道館の稽古で一つの実験を行っている。

これは力比べではない。

「身体の状態」が変わると、結果が変わることを体験していただくための実験である。


実験1 普通の状態

被験者は足を前後に開き、しっかり踏ん張って立つ。

両肘を折り、胸の前で構え、左右どちらか一方の手首を反対の手で握る。

さらに、手首から肘までの前腕部を、胴体と平行、そして床とも水平に保ってもらう。

私は、その前腕の中央部へ、小指をそっと当てる。

「では、押してください。」

被験者は前へ押す。

当然、私の小指は簡単に押し戻される。

ここまでは、誰がやっても同じ結果である。

実験1:武道における身体の状態と力


実験2 私の状態を変える

姿勢も、接触する位置も、何一つ変えない。

変えるのは、ただ一つ。

私自身の「状態」である。

もう一度、

「押してください。」

今度は、どれだけ押しても、小指はびくともしない。

しばらく押してもらった後、今度は私が静かに小指を進める。

すると、被験者は自然とのけぞり、後方へ押し戻されていく。

力んで押しているわけではない。

小指を突き出しているわけでもない。

ただ、状態が変わっただけである。

小指一本で相手を押し戻す武道の実験


種明かし

ここで私は、必ず種明かしをする。

「実は、小指ではありません。」

一見すると小指一本に見えるが、実際には武道でいう手刀を用いている。

小指だけを残し、他の指を折りたたんだ手刀である。

しかし、これで終わりではない。

手刀にしただけで、この現象が起きるわけではない。

本当に重要なのは、

身体全体の状態

なのである。


実験の目的

最後は、私が力を加減し、

今度は被験者にも同じ要領で試していただく。

そして、

必ず被験者に成功してもらって実験を終える。

この実験は、

私の強さを示すためではない。

誰かを負かすためでもない。

「人の身体は、力だけで動くものではない。」

そのことを、自分自身の身体で体験していただくための実験なのである。


武道とは何か

武道を知らない人は、

力が強い人ほど強いと思う。

しかし長年稽古を続けると、

本当に大切なのは筋力ではなく、

身体の状態

であることに気づく。

姿勢。

呼吸。

重心。

そして心。

それらが一つに統一されたとき、

身体は思いもよらない働きを見せる。

私は、その入口を知っていただくために、

今日も小指一本の実験を続けている。


変わったのは小指ではない。

変わったのは、私の「状態」である。

 

 

しかも、あなたは直ちに自分を変えることができる!

座法の科学(補遺) 2026-08-03 テーマ:はてな 基道館文書庫 文書分類番号:KDK-REI-2026-08-03-001 分類:礼法・身体操作・武道哲学

座法の科学(補遺)

― 呼吸・腰眼・足心・そして心 ―

本稿は、小笠原流礼法との出会いをきっかけに、私自身の稽古と口伝を改めて見つめ直した記録である。学術的な検証ではなく、あくまで一武道家の考察としてお読みいただきたい。

近年、小笠原流礼法を学ぶ中で、私にとって大きな発見があった。

英信流の伝書や、私が受け継いだ口伝には、着座の際に「吸う」「吐く」「息を止める」といった呼吸について、明確な指示は見当たらない。

一方、小笠原流礼法では、

「吸う息で、水の中に沈んでいくかのような気持ちで静かに座る」

と教えている。

さらに九種の座礼は、吸気から始まり、礼を行い、最後は再び吸いながら頭を上げて姿勢を正すという、一連の呼吸と身体操作として構成されている。

この教えを読んだとき、私は奥居合の口伝を思い出した。

「吸うは虚、吐くは実」

この言葉自体は武術一般によく知られた理合である。

私は長年、この理合を居合の身体操作として考え続けてきた。

居合は本来、抜刀術である。

現代武道一般とは異なる身体操作が、その根底に流れているのではないか。

小笠原流の礼法は、その考えをさらに深める大きな示唆を与えてくれた。

これは英信流の古伝として断定するものではない。

あくまで、私自身の研究と考察である。

腰眼という意識

私は小笠原宗家の門人ではなく、礼法を体系として学んだ立場にはない。そのため以下は、外から一つの伝書の一文に触れた者の、個人的な受け止め方として記しておきたい。

小笠原流伝書には、

「腰眼を意識する」

という一文がある。

説明はない。

しかし、それゆえに重要である。

私は、腰眼とは身体の一点ではなく、姿勢全体を統一するための内部意識ではないかと考えている。これは私個人の解釈であり、小笠原流の正統な教えを代弁するものではない。

基道館では長年、「足心」を重視してきた。

足心は土踏まずの中央ではなく、やや前方を意識する。

これは長年の指導経験から、初心者が最も身体を安定させやすい位置であると考えている。

足心、腰眼、目付。

この三つが一本につながったとき、身体は自然に安定する。足心が地との接点をつくり、腰眼が上体と下半身をつなぐ内部の支点となり、目付が意識の方向を外へと定める。三点それぞれが独立した意識でありながら、一つに響き合うことで、力ではなく構造として身体が崩れなくなる。

この理合を、私は稽古の場でどのように伝えているか。次に、その一例を挙げたい。

基道館で最初に教えること

次のブログ記事にこの項目だけ独立しイラスト付きにしました。
 

基道館では、体験入門者に最初の「驚き」を体験してもらう。

まず普通に立ってもらう。

 実験① 足を前後に踏ん張った状態になってもらい、胸の高さに両腕をだし、どちらかの手首を握った状態の被験者に

  そっと私の小指をあてがう。 そして押してもらい、当然私の小指は押し戻される

   ② 同じ状態で今度は「私の状態を変える」普通に戻る(心身統一体)押してもらうのだが ビクとも動かない

   十分に押してもらい、やがて小指1本で被験者を押し戻す

 

まあ、驚いて目を見開く被験者のお顔が興味深い

ここからは場面によるが、被験者の態勢を手直ししてゆく

 「丹田を意識してください。」

そう言って軽く押すと、多くの初心者は簡単に身体が崩れる。

そこで私は言う。

「足の甲の少し前に、地面へペグ(杭)が深く打ち込まれていると思ってください。」

続けて、

「ゆっくり息を吐いてください。」

さらに、

「目から赤い破壊光線(ビーム)が一直線に伸びていると思ってください。」

もう一度押してみる。

先ほどまで簡単に崩れていた身体が、驚くほど安定する。

筋力が強くなったのではない。

意識の置き方が変わり、身体全体が一つにつながったのである。

これは、先に述べた足心・腰眼・目付の理合を、初心者にも体感できる形に置き換えた稽古にほかならない。「ペグ」は足心、「息を吐く」は腰眼を含めた体幹の落ち着き、「破壊光線」は目付である。理屈から入るのではなく、まず身体で納得してもらう。それが基道館の稽古の入り口である。

初心者は、この瞬間に初めて、

「武道とは力ではなく、身体の使い方なのだ。」

ということを体感する。

卍玄翁覚書

長年稽古を続ける中で、私は一つの思いを抱くようになった。

礼法の呼吸も、居合の理合も、足心・腰眼・目付という三点の統一も、突き詰めれば同じ一つのことを別の言葉で語っているにすぎないのではないか。身体の部分部分を意識しながら、最後にはその意識そのものを消して、全体として一つになる。

身体は意思に従い、意思は心に導かれる。

そして、その心は宇宙の大きな原理と響き合っているのではないか。

もしそうであるなら、武道とは宇宙の理を学ぶ道でもあるのだろう。

この思いは、私自身が長い年月をかけて歩んできた武道の道程の中で、少しずつ育まれてきたものである。

礼法も居合も、その根底には同じ身体の理が流れているように思う。

私はこれからも、その理を求めて稽古を続けていきたい。

 

卍玄翁

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