アナログへの回帰 決定的なパラダイムシフトの予感 | 卍老人残日録

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-真剣道継承未完- 

今日は来客があり拙宅の居間を少し片付けた

 

ついでに夕食後、レコードプレイヤーも引っ張り出した。

 

レコードの少しばかり残っていたのを探し出したら、五輪さんのアルバムだった

 

 

 

このアルバムは、「恋人よ」がヒットしたあと発売されたのだから1980年頃だろう。

 

私のSONYのNET JUKEは アナログイン端子がついていて、昔持っていたレコードの山を録音してあるのだが、やはりお皿を回すのが楽しくて良い。

 

私達は軽小と便利、安価に向かった歴史の当事者だ。インフレの時代 デフレの時代 当然生き方も違う

 

この現在進行系では、量より質が重要視されてくることは明白で、どこにでもあるスタンダードは価値が下がってくるだろう

 

だけど、バブルが弾けたとき、それに適合できなかった人は無数だったし、限界効用逓減の法則を習わなかった人も無数だろう

 

 

そういうことで、アナログ音楽を堪能した。やはりこの時代はロマンがありますね。デジタルは素晴らしい技術だ、AIもいいだろう。しかしアナログのいいところも捨て去ってはいけないと思う

 

「丁寧に3万枚の紙を積み重ねてゆけ」(人生は3万日で毎日の日記)と偉そうに道場で若い人に説くのだから、私自身の指標を再構築する必要があるだろう。

 

「時時勤払拭」 という偈のようですわ

 

このエピソードは若い頃から大好きです

 

動画で居合なんか習えるものか!

師の息遣いを身近に感じてこそ 良き循環の中にいるという感性が必要ですね。 そういう意味ではマスク居合なんかアホです

 

時時勤払拭(じじにつとめてふっしきせよ)

これは中国の禅僧「神秀(605~706)」の偈の一部になります。

身は是れ菩提樹    心は明鏡の如し

時々に勤めて払拭し  塵埃を惹かしむ莫れ

この偈の意味は、本来人間は誰しもが仏の心(仏性)が備わっているが、心(鏡)も毎日磨かなければ、やがて曇ってしまう。だから、日々の生活も、塵や埃が溜まらないように、心の掃除を常に意識して、過ごさなければいけないよ。という意味合いがあります。

しかし、実はこの偈。禅宗の中では、あまり評価されない言葉でした。この時、同じ禅僧の名僧「六祖慧能」が、この偈を聞き、これは喝破したのです。

本来無一物  何処にか塵埃を惹かん

そもそも、人間の心に鏡など、存在しない。自らが創り上げている幻想のようなもの。なのに、塵や埃など、どこに溜まるのか。こう返した訳です。

六祖慧能の言葉は真理をついております。真理ではありますが、私は神秀の言葉にも、非常に惹かれます。私も含めて、多くの方が「凡夫」であります。禅宗の僧侶が目指すところは、慧能のおっしゃる処ではありますが、云わば悟りの境地になります。我々凡夫はこの神秀の言葉が非常にしっくりくるのです。

神秀のこの偈は、現代に生きる私たちにも多くのヒントをくれます。現在もこの禅語が愛され、残っているのも、我々凡夫には一つの真理だからかもしれません。

人間関係も、仕事も、生活も、日々の自分ができる精一杯で生き、どんな時でも成すべき事は成す事が大切である事をこの禅語は教えてくれております。