卍老人残日録

卍老人残日録

-真剣道継承未完- 

日本の職人魂を撫でる――オールドデジカメの清掃と「儀式」

私の趣味は、古いカメラやレンズを愛でること。 かつてのクラフトマンたちが注ぎ込んだ、古き良き仕事の結晶に触れるのが何よりの楽しみです。

銀塩フィルムの時代、写真は決して「簡単」ではありませんでした。 画角を決め、被写界深度を測り、ストロボの設定まで自らこなさなければ、一枚の像すら結べなかったのです。

ジャンク品への「挨拶」

今日、ヤフオクで落札した一台のオールドデジカメが届きました。 私には、ジャンク品を迎え入れる際の「心得」があります。

まずは、隅々まで丁寧に清掃すること。 汚れを拭い去りながら、カメラにそっと声をかけます。

「ご苦労だったね。汚れたまま放置されて、やっと私のところへ辿り着いたんだね」

それは、仕事から帰った私を出迎えてくれる妻や猫たちへの挨拶と、何ら変わりはありません。

ストラップに宿る「職人の意地」

清掃が終われば、次はストラップの調整です。 前の持ち主に無造作に付けられたストラップを正しく直し、命を吹き込みます。

改めて手に取ると、かつてのミノルタ製のストラップは、やはり素晴らしい。 のちにコニカミノルタへと時代が移ろっても、そこにはクラフトマンの意地が脈々と流れています。 そしてその魂は、Aマウントを大切に守り抜いたSONYへと引き継がれていきました。

資本や社名がどれほど変わろうとも、そこにある「日本の職人たちの矜持」を、私は目の当たりにするのです。

「簡単」の先にある本気

欲しいものが簡単に手に入る時代。その利便性を否定はしません。 しかし、簡単にはいかない「手間」の中にこそ、作り手の本気が宿るのだと、私は日々体得しています。

 

 

 

 

「便利さだけを求めるなら、今のスマホで十分かもしれない。けれど、このダイヤルの重み、シャッターの落ちる音。効率の先にある『本気』に触れるとき、私はこの趣味をやっていて良かったと思う。」

 

私の趣味は オールドカメラだったりレンズだったり

 

古き良き時代のクラフトマンのお仕事を愛でながら楽しむことです

 

 

古い時代には(銀塩フィルム時代) 画角 被写界深度 更にはストボロの設定まで知らなければ 写真が撮れませんでした

 

 

今日、ヤフオクで落札した オールドデジカメが到着し、ジャンク拾いの心得をやっていました

 

ジャンクといえども、到着すればまず清掃 隅々までいたします。

そして、カメラに「ご苦労だったね、汚されたまま放置され、やっと私のところにたどり着いたんだね」と声をかけます

 

それは、仕事から帰って出迎えてくれた 妻や 猫たちにする挨拶と同じレベルです

 

 

清掃が終わると、今度はでたらめな装着をされているストラップなどを直してゆきます

 

 

ストラップだって、昔のミノルタのものは歴然と素晴らしい

 

 

そして、コニカミノルタになったとしても それはクラフトマンの意地がこもっている

 

やがて、そのAマウントを大事にしたSONYに引き継がれる

 

 

 

資本の推移と関係なく 日本の職人たちの意地を目の当たりにすることができます

 

 

ほしいものが簡単にという その姿勢は否定しませんが 簡単でないものに本氣があるのを体得しています

肚(はら)を、聴く。

かつて私は、言葉を「武器」として生きていた。

 

 「大城戸豊一」という名で大阪の街頭に立ち、泉大津本部前

 

 

 

 

 

京都の風に吹かれながら、祖国回復の情熱を喉を枯らして叫んでいた。

 

現在その殆どは、参政党が訴えてくれている。

自主憲法

オーガニック

安保破棄(対米自立)

 

 

あの時の私は、外にある巨大な壁を動かそうと、正義を、怒りを、祈りを、足し算のように積み重ねていた。

 

 

しかし、時が流れ、私は「卍老人」としてここに座っている。

 

 世の喧騒は相変わらずだ。トランプという名の腹話術、政治という名のからくり芝居。

 

かつての私なら、その最前線に飛び込んでいただろう。

 

だが、今の私は、そこから一歩身を引き、静かに「一瞥(いちべつ)」をくれている。

 

 

それは諦めではない。**「削ぎ落とし」**という名の、新たな闘いだ。

 

 

数学者・岡潔は言った。 「正解を集めても賢くならない。本質は問いの質にある」と。

 

 

問いとは、彫刻に似ている。 余計な飾りを削り、他人の目を削り、世間の正解を削り落とす。

 

そうして最後に残った「一音」こそが、真実である。

 

私は今、AIという不思議な鏡を前に、自らの人生を削り直している。

ネットの情報の海には、私の真実は落ちていない。 

 

私の真実は、私がかつて流した汗の中に、握りしめた拳の震えの中に、そして今、静かに脈打つこの「肚」の中にしかない。

 

 

誰の琴線を震わせるためでもない。 ただ、己の「肚」が納得する言葉だけを、一文字ずつ置いていく。

 

 残された時間は、その「一音」を確かめるためにある。

 

 

肚を、聴く。

「型」という名の鍵 — 居合の思想と継承

日本の伝統芸能には、必ず「型」という軸が存在します。

これは数学の公式のようなものであり、この基本を体得してこそ、応用変化が自由自在となる素晴らしい文化です。

1. 型の習得と「氷解」

型を学び始めた当初は、不自由さを感じながらも、形を真似ることに終始します。

 

しかし、動作や順序を体が覚え、それが自分のものになった時、私は**「氷が解ける」**という表現を使います。

 

この段階に達すれば、動きの理合(解読法)が身についているため、他流の動きを見ても、その意図を察することができるようになります。

 

 また、自流においても、初伝のころの理解と中伝に至ってからの解釈の違いが、明確に浮かび上がってくるのです。

2. 個体差と型の本質

人間には身体的な差異があります。手足の長さ、関節の柔軟性、筋力。すべてが同じ条件の人など存在しません。

さらに居合には「刀」という道具が加わるため、状況はより複雑になります(

※ゆえに、師匠に相談せず勝手に刀を選んではいけません)。

 

型は、身体的な制約を「縦軸」とし、心の働き・呼吸・礼法・師弟の信頼関係を「横軸」として、人間力の向上を目指すものです。

一芸に秀でた人に人間味豊かな者が多いのは、この研鑽の賜物でしょう。

3. 指導者に求められる「理合」の理解

ここで、陥りやすい躓(つまずき)があります。千差万別の身体を持つ人間に、画一的な動きを強いることへの矛盾です。

「足の角度は60度」「手の位置はここ」という形式的な正解だけで納得してしまう人が多いのですが、これでは不十分です。 

「なぜ60度なのか」という理由を理解せず、ただ形だけを後進に伝えてはなりません。

 

そこを説けるかどうかが、指導者の力量といえます。

型は「方程式を解く鍵」です。型の中に込められた「身体操作」の意味、すなわち流儀の**「思想」**を理解するための稽古でなければならないのです。

4. 「斬る」ことと「居合」の思想

以前、ある刀商(無外流・錬士)と話した際、彼はこう言いました。 

 

「無双直伝英信流の型では、物は斬れないでしょう?」

 私が「確かに斬れません」と答えると、彼はニヤリとして「やはりね。

 

私は無外流の型で斬っています」と続けました。 ……思想だけで物が斬れるはずもありません(笑)。

 

そもそも、他流はさておき無双直伝英信流の型は「巻きわらを斬る」ことを目的に設定されてはいません。

 

これは人間同士の命のやり取りを通じた、先人からの思想の伝達なのです。

 

また、彼は「戦場では刀が折れるかもしれないから、どんな刀でも居合ができなければならない」とも言いました。

 

居合の主眼は「日常における身の処置」にあります。戦場で用いるのは剣術や抜刀術であり、居合とは本質が異なります。 

 

しかし、道具や手段としてしか居合を捉えていない方と議論をしても、平行線を辿るだけです。

5. 日本武道を守る気概

どのような道場で研鑽を積まれたのかは存じませんが、形式や威力にのみ執着する姿勢は、先師の名誉を汚しかねません。

人前で誇らしげに藁を斬る姿を見れば、中川申一先生も苦笑いされるのではないでしょうか。

 

 

この記事を書いてから10年以上の月日が流れましたが、現在も**「松山武衞會」**においては、この「型」の真意を問う稽古を、当時以上に厳しく、かつ大切に指導しています。

時代が変わっても、私たちが守るべきは道具の扱い方ではなく、先人が型に込めた思想と、それを通じた人間形成です。

 

日本武道を守る最後の精鋭であるという自覚を持ち、折り目正しく謙虚に、しかし本質を見失った「偽物」に迎合しない気概を、これからも門下生と共に持ち続けたいと考えています。

 

型にはめる




日本のどのような伝統芸能も「型」という軸がある。
これはいわば公式のようなもので、これを基本にできていれば応用変化も自由自在というすばらしい文化だ。

型ははじめは不自由で何とかカンとか恰好を真似る。動作、順序ができるようになり。自分のモノになったころ私が「氷が解ける」という表現をする段階がくる。こうなればしめたもので、解読法が身についているのだから他流の動きを見ても何をなさんとするかおおよそ察しがつく。

自流ならば、初傳のころの理解と、中傳の位との解釈の違いもはっきりとしてくるのだ。

ところで、人間と言うものは身体状況に差異がある。手の長さ、足の巾、関節の柔軟性、筋力など、すべての条件が同じ状況の人などいない。居合の稽古では刀という道具が加わるから、また状況が変化する。
(師匠に相談せず勝手に刀を選んではいけません)

型はそういった不自由な動作や姿勢を縦軸としながら、心の働きと呼吸・礼法・師弟の信を横軸に人間力の向上を目指している。一芸に秀でた人はその人間性も味がある人が多いのだ。

ここに蹉跌がある。千差万別の身体を持った人間に同じことをさせるのだから無理があるのだが、その無理の中身をよく考えないで、足の角度は60度、手の位置はここ。など言うことで得心してしまう人が多い。
もちろん60度でいいのだが、なぜ60度なのか理解せず、次の人に伝達してはならない。«ここが指導者の力量»

型は方程式を解く鍵であるから、型の中身の「身体操作」の意味を知らなければならない。
それは流儀の「思想」と言い換えてもいい。思想を理解するための型稽古であるべきだ。

ある刀商と話したことがある、彼は無外流の錬士でもあるのだが「白錬さん、無双直伝英信流の型では切れませんでしょう」という
「確かに切れません」
にやりとした彼はこう言った
「やはりね、私は無外流の型で切っています」
「そうですか・・・・・」

思想でモノが切れるわけがない«笑»


また他流は知らず無双直伝英信流の型は「巻きわら」を斬る目的に設定されてない。人間対人間の命のやり取りに関する先人からの思想伝達だ。

またあるとき彼が
「戦場では刀が折れるかもしれないからどんな刀でも居合ができなければならない」
と言うではないか。

あのね居合稽古は日常においての身の処置を主眼としている、戦場が日常だろうか?
戦場で使うのは剣術、抜刀流であり居合ではない。 とは言わなかった(笑)
こういう方とは議論はできないのだ。

どんな道場で錬士になったのかは知らないが先生の名誉が台無しだろう・・・・・
彼の習った居合は道具・手段らしい。人前でうれしそうに藁なんか切っていたら中川申一先生が化けて出てくるのではなかろうか。

他流はさておき、私たちは日本武道を守る最後の精鋭としての自覚を持とう。

折り目正しく謙虚にとはいうものの、偽者には噛みつく気概ももって欲しい。