森のドアラの読書事情

森のドアラの読書事情

新書を中心に、本の感想・書評を書いていきます。
2022年からは毎月1日更新予定。

 

 

本書は、学校図書館を単なる「本のある部屋」ではなく、学校教育を支え、さらに学校そのものを変える可能性をもつ教育機関として捉え直している。


学校図書館法は学校図書館を「学校教育において欠くことのできない基礎的な設備」と位置づけているが、現実にはその意義が教育界全体で十分に共有されているとは言い難い。本書は、学校図書館に資料、人、サービス、ネットワークが備わり、図書室ではなく「図書館」として実体をもつとき、子どもの主体的な学びと教師の授業づくりが豊かになると説く。

全七章を通して、日本の学校図書館制度の成立と展開、1993年前後から高まった社会的期待、学校司書の実践の蓄積をたどったうえで、学校図書館の「教育力」を七項目に整理している。すなわち、多様な学習資源を自ら選べること、体系的なコレクションによって知の広がりに気づくこと、専門職による相談・援助、図書館ネットワークを通じた継続的な探究、情報の再構成と発信、知的自由とプライバシーの尊重、そして図書館を使いこなす生涯学習者の育成である。これらは抽象的な理念としてではなく、学校司書や教師による具体的な実践と結びつけて示される。

この教育力を発揮するための条件として、とりわけ最大の課題とされるのが、専門性を担保された学校司書を正規・専任職員として配置する制度の確立である。学校図書館の充実を学校教育の周辺的課題ではなく、子どもの学びと学校改革の中心課題として提示する、理論と実践を結ぶ一冊である。

 

☆☆☆

 

 

本書は、2008年以降の大阪で進められた教育改革を、新自由主義的な競争・選択・成果管理の導入という観点から検証している。全国学力テストを契機とした学力政策、義務教育段階の学校選択制、高校入試制度改革と府立高校の再編を取り上げ、それらが学校現場と子どもに及ぼした影響を具体的に論じている。

 

本書の主張は、改革が掲げた学力向上という目標が十分に達成されなかった、ということである。約10年間を経ても大阪と全国平均との差はほとんど縮まらず、学校選択制は人気校と不人気校を生み、学校間格差や地域の分断を促したとされる。とりわけ、同和地区を含む校区への忌避を防いできた大阪の歴史を踏まえ、選択制が従来の公正重視の教育政策と衝突したという分析は、興味深かった。また、数値目標とPDCAサイクルによる管理が、教員の裁量や主体性を弱め、生身の子どもを対象とする教育実践を圧迫したという批判も重要だと思う。

 

しかし、学力格差が縮まらなかったことを直ちに改革そのものの失敗と結論づけるのはどうかと思う。家庭環境など改革外の要因も大きいだろう。また、橋下改革を支えた従来の教育行政への不信については、十分に論じられていない。著者は、公正と包摂を重視する大阪の教育実践を対抗原理として提示するが、その規範的立場自体を、選択、卓越性、説明責任といった競合する価値との関係で検証する余地も残る。

 

☆☆☆

 

 

本書は、日本の長期停滞の象徴として語られてきた「就職氷河期世代」の実態を、データに基づいて検証する一冊である。

本書では世代を、バブル世代(1987〜92年)、就職氷河期前期世代(1993〜98年)、就職氷河期後期世代(1999〜2004年)、ポスト氷河期世代(2005〜09年)、リーマン震災世代(2010〜13年)と区分し、労働市場、家族形成、女性の働き方、世代内格差、地域差という多角的な視点から分析を行っている。

まず、就職氷河期世代の状況は、前期から後期にかけて一方的に悪化しその後回復していく、という単純な図式では捉えられない。ポスト氷河期世代など就職氷河期を脱したはずの世代の年収や正規雇用率が氷河期前期世代を下回るケースが確認されている。

また、雇用の悪化が少子化の主因であるという通念も、本書のデータからは支持されない。世代全体で見ると、若年期の雇用状況の悪さと、未婚率の高さや出生数の少なさとの間に明確な関係は見出せない。それどころか、就職氷河期後期世代の女性はむしろ出生数が多く、逆に雇用状況が改善した2010年代後半には出生率がさらに低下している。

さらに、若年期の不況経験がその後の雇用・賃金に長期的な悪影響を及ぼすとされる「瑕疵効果(Scarring effect)」についても、氷河期以降のデータではその効力が弱まっていることが示される。ポスト氷河期世代は失業率こそ改善していたものの、賃金水準は氷河期後期世代とほとんど変わらなかったのである。

こうして、「就職氷河期世代は不運な世代だった」という漠然としたイメージを、データによって解きほぐし、その実像を示している。
 

☆☆☆

 

本書は、学校現場で深刻化する教員不足の実態と、その構造的要因を多角的に明らかにしている。教員不足は2010年代後半から顕在化していたが、文科省の本格調査は2021年にようやく行われ、しかも「配当定数」を基準とするため、実態を十分に捉えることができていない。

教員定数は生徒数ではなく学級数を基準に決められており、学級が増えなければ業務量が増えても教員が増えない仕組みになっている。加配定数は単年度・目的別の運用になっているため、非正規依存を強め、自治体の裁量や人件費抑制、内部留保によって、名目上は定数を満たしていても学校現場では不足が生じる構造がある。

X県(おそらく神奈川県)の調査では、正規教員自体が大幅に不足し、その穴を臨任や非常勤で埋め、それでも足りない分を管理職や過重負担で補っている実態が明らかになる。特別支援学校や実技教科で不足は深刻で、雇用形態は極めて複雑かつ不安定である。少子化を見据えた採用抑制、特別支援学級増、自己都合退職や病休・産育休の増加が正規不足を加速させている。

著者は、行財政改革と教育改革が教員不足を生んだと論じている。学級規模縮小の停止、非正規化、免許更新制導入、業務量増大と長時間労働、給特法による残業代不支給が志望者減少を招いた。そして、教員不足は自治体の非正規依存と国の制度改革の帰結であり、公立学校を社会のライフラインとして、労働環境改善と長期的な定数政策が不可欠だと結論づけている。

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

『天皇と日本の近代』の下巻で「「教育勅語」の思想」という副題が付されている。本巻では、明治憲法をデザインした井上毅がどういう意図で教育勅語を作成して、それがどういう結果になったのか、その乖離が描かれる。井上は立憲主義に基づいて、特定の宗教や国体論から離れた道徳の確立を目指した 。しかし山県有朋によって、軍人勅諭と同じく儀礼的な公布形式になってしまったという。全体を通して井上毅を思想家として捉え、教育勅語を読み解こうとしている。

 

☆☆☆

 

 

上巻には「憲法と現人神」という副題が付され、近代天皇の二面性が論じられる。著者は天皇を「政治権力の主体(タマ)」と「神聖祭祀王(ギョク)」の二面性で捉え直す 。明治憲法において天皇は立憲君主を装いつつ、実際には法の外部に位置する「現人神」とされ、国家の根拠そのものとなる矛盾を孕んでいたとする。これにより大日本帝国は、天皇を祀り主とする宗教国家となったと論じる 。

 

☆☆☆

 

 

著名な実践家による、いじめ対策本。いじめは差別であり、絶対許さないという姿勢が見て取れる。かなり古い本であるが、現在でも通用する姿勢である。実践家だけあって、実際の教師目線から論じられている。ただ、いじめそのものよりもその周辺まで広く論じられている。

 

☆☆☆

 

 

 

南米最大の産油国で、経済的に豊かなはずのベネズエラ。ロシアがウクライナ侵攻をしたときにベネズエラのことをちょっと耳にしたので読んでみた。チャベス、マドゥロ政権の下で、経済が衰退していった過程を丁寧に描いている。チャベス・マドゥロ政権は貧困層の支持を得るが、権威主義になれば政治不正は起こるし、経済政策を誤れば経済は破綻する。特に経済については、やってはいけないことをすべてやってしまったという感じ。

 

☆☆☆

 

 

著者は憲法学の第一人者らしく、集団的自衛権が問題になっていた2018年の出版。政治的な本は著者と意見が違うと低評価になる傾向があるものだが、ちゃんと議論の筋を勉強したいと思った。とは言え、私と著者の意見の違いは「小さいながらあるかな」くらいだと思っていた。

 

しかし、読んでがっかりした。安全保障問題に関する意見の違い以前の問題だ。どんな本でも最後まで読むようにしているが、第2章で断念。語り下ろしとのことだが、それにしてもひどい。

 

著者は、憲法については専門の憲法学者が決めるべきだと言う。もちろん、専門家の見解は大事だ。しかし、刑法や民法やその他の法律とは違って、憲法は国民が読んで分かるものじゃないといけないんじゃないのか。実際、憲法は中学校の公民で学習する内容だ。著者の考えに従うと、政治のことは政治学者に任せるべきだということになるが、それでいいのか。

 

著者は、憲法改正に反対という立場で、自衛隊を合憲としつつ、立憲主義を強調している。これはこれでいいのだが、憲法改正について国民が考えること自体が異常だというのは異常だろう。ここまで露骨なエリート主義を公言して、誰も止めないのかな。

『憲法と平和を問い直す』(ちくま新書)を読んだときもちょっと気になってたが、この人の本は読まないことにしたほうがいいようだ。

 

☆なし