【自分の経験上で書いたものであることを予めご了承くださいませ】
昨日ウェブでニュースを眺めていると、
また老人が列車の座席を占領
という記事に出遭った。
(画像:アンサーチャンネル)
案の定、コメント欄は高齢者を非難するものが大半。
どの世代にも自己中はいる
長い人生で何も学んでこなかった世代
譲ろうとすればキレられるから狸寝入りが一番
本当に悲しくなった。(もちろん良い意見もあったのでそれについては後述)
考えがここまでデジタル化しているものか、と。
私の定義では
デジタル化とは個々が結びつかない、有機的でない、無機的な関係
ということ。
なぜ高齢者にしかフォーカスできないのか、それを生んでしまった背景はどうなんだろう。
私はそういう意見をコメント欄に書きこんだ。
中国へ来る前、私はさほどそれを意識していなかった。
しかし、この国へ渡ってきて、本ブログをご覧の方も経験済みかと思うが、
そういう方に席を譲ることは本当に当たり前であるということを再認識した。
(画像:wikipedia)
以前、日本の番組で老人に席を譲らないという問題が取り上げられていた。
司会者はそれは良くないことだというスタンスで、視聴者の譲らない理由
「あちらは仕事をしないで悠々自適の身だが、こちらは仕事の関係で乗っている。
とても疲れている」という回答に
「今までお年寄りはそれを何十年繰り返してきたと思っている?」
と批判していた。
(おそらくその司会者は電車に乗らなそうな気がするが)その通りだと思った。
自身も数年前東京の地下鉄に乗った時、妊婦の方が近くに来たので譲ったら
「そ、そんな。 ありがとうございます。」
と、本当に驚いた様子だった。
(老人が妊婦にすり替わっていることは同方向ということでご容赦を)
この時も驚きと悲しさを感じた。 そんなに稀なことなのかと。
今度は中国側の話で、以前教師をしていた時の学生の作文に書かれていたこと。
地下鉄の車内で座っていた若い女性が目の前にいる老人を無視。
周りもそれに業を煮やしたのか、譲った方がいいよとの声をかける。
しかし、それでも無視。
もうどうしようもない女だと思って周りもあきらめ、老人は他の場所へ。
(おそらく、他に座っている人はみな年齢が高かったと思われる)
小さな例だが、これは象徴的なことだと思うし、
車掌のいるバスでは車掌が乗客に指示することもある。
私が以前いた北京、大都会で生活が大変でそれぞれが自分のことに忙しい。
でも、譲る。
もう「譲らないのが悪であるという社会的コンセンサスが根付いている」
かのように譲る。
「席を譲ろうと声をかけるのが恥ずかしい」、「老人に見えるのかと言ってキレられそう」
本心でこう思う方はこのコメントを実践したらどうだろう。
年寄りが前に立つと、降りるようなふりしてその場から離れるようにしてる。
誰しもいつかは老いる。
自分が一因となった社会的背景がいつしかわが身に返ってくることを思うと・・・。