この週末に、新大久保一帯で行われた『在日特権を許さない市民の会』のヘイトクライム(と言って良いでしょう)デモの事件を知り、沢山の人の意見に目を通し、個人としても色々と思考を巡らすにつれて、何やら僕の頭の中は堂々巡りの様相を呈してきてしまい、随分と参ってしまった。
ここらへんで理路整然でいて、且つ軽快、明快な批判的考察をエスプリを効かせながらリズム良くばんばん展開することの出来ない、己の地頭の悪さをただただ呪う結果に陥ったという、僕以外の人間にとっては至極どうでも良く、しかも数少ないこのブログを読んでくれている人にも何のプラスの要因も与えることが出来ない結論が一足先に出たわけだが、そこで、今こんな調子で書き始めたこの記事はじめ、過去の記事も全部纏めて消去して、このブログ自体も閉鎖して、あとは涼しい顔して「無言の人」、または「リアクションの人」としてこれからはやっていきますと、あとちょっとのところで決断してしまうところだったが、そこは少し思いとどまって、切れ味のすこぶる悪い考察をのらりくらりと展開して行きたいと思う。
というか、させて下さい。
色々な人がこの件に関してツイッターなどで見解を述べていて、そのどれも考えさせられるものばかりだったけど、ぼく的には、この件に関してはnoiehoie氏の意見に一番共鳴したかな。
(以下引用)
夕べも書いたけども、どうも、「ポリティカルにアクティブだから在特会や行動する保守はいかん」「デモとかするから在特会や行動する保守はいかん」って総括に世論の大勢が落ち着きそうで、とても気持ち悪い。
「ああいう排外主義者は、仕事にもありつけない底辺なんですよねー」って総括にはなんの意味もない。そもそも実態を反映していないし、「◯◯な奴らは☓☓だ」って論法に、一切の価値がない。
「君や僕と何ら変わることのない普通の人が、なにがどうなったのか、新大久保で殺せ殺せといいながら練り歩いた」って考えないと、意味が無いし、対峙することもできない。
「当事者性を持ち出すべきでないところに当事者性を持ちだして、当事者性を持ち出すべきところに当事者性を持ち出さない人」が多すぎるんだよね。在特会等のヘイトクライムに関しては、僕らは「差別される側」としての当事者性を持ち得ない。当事者性を持ち出すべきなのは「差別する側」としてなのに
自分のアイデンティティが「日本人だ」という所にある人間が考えるべきなのは、「差別される側に立つ」ことではなく、「差別を許容してしまっている側に立つ」ということであって、ここってとても重要なポイント
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確かにnoiehoie氏が指摘するとおり、僕ら日本人が今回のレイシストたちのデモに当事者性を持ちえるとしたら、「差別を許容してしまっている側」でしかない。
であるからこそ、彼らを批判するポイントは、不特定多数の人でにぎわう街中で、多義的解釈の余地を残さない差別的な言説の流布と、「殺せ」といった合唱の、その犯罪性に的を絞るべきであると思う。
しかし、在特会もちょっと前までは、まだいくらか理性的であったような気がしたけどな。
すくなくとも、数年前までは「○○殺せ」みたいな、そこまで露骨に酷い言葉は放っていなかったように思うのだが。
この問題について考察してみると、もう色々な人に繰り返し言われていることだけど、やはり、「ポジティブな話題より、圧倒的にネガティブな話題についての方が「強い連帯」を築きやすい我々のメンタリティー」について考えずにはいられない。
そのネガティブなキーワードでクラスタリングされた人たちは、クラスタの内部でどんどん議論を深めてゆく(要は過激になっていく)。クラスタの外の人の他者の言葉は単なるノイズになってしまう危険性を多分に孕んでいる(現に在特会周辺の人たちはそんな感じなんだと思う。)
しかし難しいね。まあ、街頭で「○○殺せ!」なんて言葉は単純に法律的にアウトだと思うんで、そこはしっかり取り締まって欲しいけど、当人の心までは取り締まることは出来ないからね。
①表現される以前の差別的な感情をも踏み込んで規制すべきか?
②恣意性によって、多義的解釈可能な表現(差別と取られかねない表現)についてはどこまで踏み込んで規制すべきなのか?
①に関して、もし「規制すべき」という答を出した場合、僕たちは思想・信条の自由を完全に失うことになる。それはよく言えば「道徳の強化」になるわけだけど、“道徳的良心”が歴史的にいかにマイノリティを抑圧してきたかを知っている僕らはその路線は危ないとまず思うだろう。
②に関しては芸術作品などであれば多くの人の意見と同じようにゾーニングが有効だと思うのだが、デモなど街頭で不特定多数の人間に対しての表現である場合ゾーニングは技術的に難しい。しかし「技術的に難しい」から駄目だということになってしまうと、ノイホイさんが危惧していた「「ポリティカルにアクティブだから在特会や行動する保守はいかん」「デモとかするから在特会や行動する保守はいかん」って総括に世論の大勢が落ち着きそうで、とても気持ち悪い」ということのまさに実現になってしまう。
うーん難しい。いや、「○○殺せ」なんて街頭で言うのは明らかに犯罪行為なんだから、言ったやつを逮捕すれば良い単純な話なんだけど、言わなかった場合はどうなんだろってのが①であり、また②の問題なんですよ。たとえ言わなかったとしても彼らの差別心は実態としてあるわけなんだから、それに対してどう対応したら良いのだろうか。みたいな事を考えてしまうわけです。
すると結構暗澹たる気持ちになってしまう。。。
あと、今回のデモで在特会の人間を批判するときに、彼らの見た目とか「オタク性」を引き合いに出して批判すべきではないですね。そういうことをすると、批判する側の持つ“オタクフォビア”が露呈されてしまい、彼らを批判する正当性が失われるから。
そこは気をつけよう。
結局歯切れが悪いままだけど、今日はこの辺で終わります。