Long Goodbye 1981 -12ページ目

Long Goodbye 1981

日々思ったことをひっそりと

太鼓を同一感覚で叩くと、リズムは均等に分割された時間として現れるであろう。こうした抽象概念を図示すれば、------------------といった断続線となるであろう。リズムの強度は、太鼓の皮が叩かれるそのスピードに依る。間隔が狭まれば狭まるほど、ますます激しくなる。バリエーションもまた、太鼓を叩く間隔の組み合わせに依る。たとえば、-|--|-|--|-|--|-|--|-|--|-|といった組み合わせである。仮にこうした図式に還元されるとしても、リズムは単なる拍を越えた何か、部分に分割された時間以上の何かである。打と休止の連続は、ある種の意向、つまり、ある方向の如きものを明らかにする。リズムはある期待感を誘発し、ある切望を惹起する。もしそれが中断すると、われわれはショックを覚える。何かが崩れたからである。もしそれが継続するならば、われわれは、的確には表現し難い何かを待ち望むことになる。リズムはその<何か>が到来した時にのみ鎮められるであろうような心理状態を、われわれの内にかもし出すのである、それはわれわれを、待ち望む状態に置く。われわれはリズムとは、それが何であるか判然とはしないが、とにかく何かに向かって行くことであると感じる。あらゆるリズムとは何らかの方向であり、意味である。つまり、リズムとはただ単に空疎な拍というだけではなく、ひとつの方向であり、意味なのである。リズムは拍ではなく、本源的時間である。拍は時間ではなく、時間を計る方法に過ぎない。ハイデッガーは、あらゆる計測単位が「時間を実在させる形式」であることを示した。暦や時計は、われわれの足跡を記録する手段である。これらによる時の提示は、本源的時間の変形、あるいは抽象化を意味する――時計は時間を提示するが、そのために時間を、意味を欠いた均等の部分に分割してしまう。一時性――これは人間そのものであり、それゆえに、彼が触れるものに意味を与えるのであるが――は、その提示以前のものであり、その提示を可能にするものである。

時間はわれわれの外に在るものではないし、時計の針のごとく、われわれの目の前を通り過ぎてゆくようなものでもない。――われわれが時間なのであって、過ぎ去るのは年月ではなく、われわれ自身である。時間はひとつの方向、ひとつの意味を持っている、なぜなら、それはわれわれ自身だからである。リズムは暦や時計とは反対の働きをする。

――オクタビオ・パス『弓と竪琴』