宗教学者の中沢新一は、『森のバロック』のなかで、かう書いてゐた。

 

「近代社会の権力は、生活の細部、心の内面にまで、深く忍び込んでくる性格を持っている。近代型の権力は嫉妬深い。それは、自分の内部に公の権力がおよばない、自由の空間が残されてあることを、好まない。それがたとえ宗教のように、心の内面にかかわる領域であったとしても、そこにおこっていることを、たえず知っておきたいと、この嫉妬深い権力は欲望するのである。そのために、いちばん有利な方法は、権力の力によって、社会と人々の精神構造を理解のおよぶようなかたちにつくりかえておくことである。」

 

 そのやうにして始まつたのが、学制であり学校令であつた。教科書の国定や検定、学習指導要領の制定などは、その路線にある。寺子屋のやうな「自由」を許さないのである。

 今日の我が国の政治権力にそのやうな強い欲望があるやうには見えない。政治はサービス業に堕したやうに見えてゐる。しかし、それは本当だらうか。隣の国やその隣の国、そして更に隣の国は元気いつぱい欲望を振りかざしてゐる国こそ、この図式が当てはまる。人々にはさう見えてゐるかもしれない。

 

 しかし、実のところ、私たちの国の権力はもつとしたたかで、権力がないやうに見えて権力を使用してゐる。注意深く中沢の文章を読めば、権力の主体は国家や政府であるとは書いてゐない。さうも読めなくはないところもあるが、冒頭に書かれてゐるのはあくまでも「近代社会の権力」とあるばかりである。

 今日の権力者と言へば、メディアである。いまやオールドメディアと揶揄されるやうになつたが、断末魔のやうに権力を行使して、心の内面に入り込まうとしてゐる。

 そんなことを、連日の報道を見てゐて感じる。彼らこそ嫉妬深いのである。自分たちが権力を喪失しつつあるのを予感してゐるからこそ、昨今の変更報道は目に余るほどである。