昨日の補足である。
「修身斉家治国平天下」といふ言葉がある。個人、家庭、国家、世界といふやうに広がる領域に応じて「統治」の名称が変はるといふ儒教の考へ方である。
「立派な人になれ」とか「他人に迷惑をかけるな」とかいふ個人の徳目としては残つてゐるだらうが、家庭の在り方については、「みんな違つてそれでいい」であらうし、国家の役割は国益を追求することであり、国家的エゴイズムを否定する言論はもはやない。まして「平天下」とは世界支配と同義であるし、ロシアや現代中国の覇権主義のことかと誤解されかねない。
儒教の教へでは、統治における「善」は領域に応じて変はるものではなく、「恕」であり、「己の欲せざる所、人に施すこと勿
れ」である。
そして、重要なことは、修身よりも斉家であり、斉家よりも治国であり、治国よりも平天下であるといふ秩序がそこにあるといふことである。つまりは、個人の目的よりも家庭の目的が、家庭の目的よりも国家の目的が、国家の目的より天下の目的が力を持つといふことである。それは善悪を度外視した人間の機序である。平天下の思想の前に個人の恕も家庭の恕も国家の恕も敗れてしまふといふことである。
日本国民が恕を求め、日本国家が平和主義を唱へたところで、平天下の覇権主義を唱える国があれば、支配されてしまふ。そのことをメカニズムとして知らなければ、その個人は善であると思つてゐる言動が相手を利することになつてしまふのである。
これもまた立体的な人間観を持たなければならない理由である。
統治のメカニズムを教へてくれるのも、また宗教である。道徳では分からない。