芥川龍之介の『蜘蛛の糸』には、その原型となる本がある。それはアメリカの作家ポール・ケーラスの仏教説話『因果の小車』(カルマ)といふものである。

 犍陀多といふ主人公は同じであるし、蜘蛛の糸が切れて極楽には行けなくなつたといふことも同じである。

 ただ、違ひもいくつかある。その中で私が最も気になつたのは、芥川の場合にはお釈迦様は、直接犍陀多には語りかけないといふことである。蜘蛛の糸を垂らしてきた理由も、その糸が切れてしまつた理由も、犍陀多には一切分からないのである。そのことが私には人生のより深い位相を感じさせてくれた。

 それは何か。

 私たちは、一瞬後に起きる出来事も分からないし、ましてやその意味も分からない。したがつて未来にかうなるから、今はかう考へるべきだといふことも想像することができない。それだからこそ、自分で考へ、時に祈りつつさらに深く考へ、決断し、行動するのである。さうやつて一生「何が正解だつたのか」が分からないまま死んで行くのであらう。その実相を罪人犍陀多を通じて描いたのが『蜘蛛の糸』である。『カルマ』では、すべて因果が明かされてゐる。仏教的な解釈ではさういふことになるのであらうが、私たちはそれを知ることはできない。『カルマ』の犍陀多は、納得してゐるのであらう。しかし、私たちの姿はそこにはない。

 芥川は「ぼんやりとした不安」を感じて自死したのであるが、さういふ彼だからこの名作は生まれたのである。