引越しをして荷物の整理をしてゐたら、たぶん松原正さんの講演の時のメモだらうが、「絶対のない国には本当の相対もない」といふことを書いたメモがあつた。
いまその言葉だけを腑抜けた正月の、更に全身筋肉痛で倦怠感に襲はれてゐる頭で考へても、まもとな思考は始まらないが、ふと考へてしまつた。
絶対といふものを生活のなかに取り入れてしまへば、すべての言動をその支配下に置くことになる。読むこと、考へること、話すこと、書くこと、関係を作ること、それらすべてを絶対の支点で「私」といふものを位置づけ、物、体、心、他者との関係を生成することになる。そして、もしその絶対の支点といふものが不在であることを認めたとき、すべてのものはばらばらになる。その関係の欠如が相対といふ状態である。それが本来の在り方だとするのが相対主義者の考へである。
しかし、そもそも絶対といふものに支へられたといふ経験もなければ認識もない者にはその考へはない。比喩で言へば、動物や植物などのやうに、一個の存在がゐるといふことであり、そこに関係性はない。関係性と言つてもせいぜい「縄張り」程度のものであり、本能的生存戦略であらう。だから力に基づく支配被支配である。さうであれば、それは力絶対主義といふものであり、相対主義ではない。
相対主義は、虚無主義(ニヒリズム)になるほどの喪失感がないところには生まれない。そもそも信じてゐるものがない者にはそれが失はれるといふことがイメージできない。だから、力に支へられてゐる動物的関係主義を相対主義だと勘違ひできるのである。
日本社会の現状は、をかしなリベラリズムや異常なポリティカルコレクトネスに絡めとられてしまつてゐるのは、似非相対主義の変装であらう。そしてその真相は、力主義なのである。「ハラスメント」といふ言葉がそこら中に蔓延してゐるが、それを口にする人がハラスメント体質を持つてゐるからである。力主義で社会が成り立つてゐることを知つてゐるから、自分がそのパワーにつぶされないやうに、相手をパワーで排除しようとしてゐるやうに私には見える。