小学生の国語の授業。
セミがテーマの説明文であった。
ヒグラシ,ミンミンゼミ,ツクツクボウシが登場したので,「知っているかな?」と聞くと知らないと。
スマホでそれぞれの鳴き声を聞かせると,あー聞いたことある!という反応。
すべては「セミ」として理解しており,それぞれの名前分けはしていなかったらしい。
さて,ツクツクボウシの鳴き声を聞いてどう思う?
いや特に・・・。
ちなみにツクツクボウシは多くのセミの中でも比較的遅く,時期としては8月半ばから9月にかけて鳴く。
つまり子どもたちにとっては「夏休みの終わり」を告げるセミである。
夏の終わりの寂しさは,大人になっても感じるもので,私自身この歳になってもツクツクボウシには毎年寂しい思いをさせられる。
もう一度ツクツクボウシの鳴き声を聞かせてあげて,これが聞こえる頃には夏休みの宿題が終わってないといけないよ。
と言うと,生徒たちもようやく意味が分かったらしい反応をした。
そんなやり取りをしていると,最後の「この筆者がもっとも言いたいことは何か?」の問いに対して,
あ、これ間違えてる!
書き直していいですか?と。
もちろんいいよ。
文章の読み取りは「読解力」と一言で片づけられるものではない。
今回であれば,セミの名前,それぞれの鳴き方などの知識が足りたことで想像することができ,作者の言いたいことが理解できた。
知っていることが多いと,文章を読んで意味が分かりやすくなる。
知識量や語彙力といったものがある程度備わっていることが文章読解力につながるのだ。
ツクツクボウシの鳴き声を聞いて寂しい気分になる。
のは,ツクツクボウシが夏の終わりに鳴くセミだと知っているからこそ。
つまり,日常の感性ですら「知識」によって磨かれていくものなのだ。
テストの点数も大切だが,それ以上にたくさんのことを得られるのが勉強である。