TLM社長ブログ「人間なくして事業は有り得ず、進歩発展は人が編み出すもの。」 -44ページ目
昭和29年終戦から
9年目に高校に入学した。
毎日ドカ弁を持って
自転車やSLの信越線に
乗って通学した、
入学式で校長が高校時代は
一生で一番仲の良い友達が
出来る年齢だから
良い友を多く作るように
言われたのを今でも覚えている、
結果として確かにそうであった、
今、俺お前で付き合っている友人は皆高校時代
の同級生である、
会えばその時のままである。
殆どが大学進学希望の学校で
単位が取得出来なければ
容赦なく落第留年であった、
勉強の辛さが身にしみた。
大学に行ける見通しが立ち、
焼けなかった東京大森の
家に帰れるのが楽しみであった。
東京に帰ったころ東京タワーが
建ち始めたのである、
今スカイツリーが伸び続けているのを
電車の窓から見るたびに、
思い出しなが ら時代の変化を痛感している。
終戦から6年たった中学生時代は
食料事情も少しづつ良くなり
衣服もだいぶ増しになってきた。
初めて習う英語に戸惑ったりしたが勉強は
負けたくなかった、
朝型人間の自分は朝の静けさの
有る時間に勉強した。
部活で庭球をしていたので
夜は疲れてバタンキュウであったから。
疎開の家庭は大変な財政事情であり二人の兄と
姉は高校に行けなかった、
つぎが自分なので有るが
高校へはどうしても行きたかった、
出来れば大学まで、が夢であった。
当時としては大きすぎる希望であった。
同級生が受験にあたり補習授業を受けていたが
親に負担をかけられなくて自分流で頑張った。
最後の最後に親兄弟が高崎高校に受かるなら
進学してもよい、と言ってくれた、涙が出た。
安中中学からは毎年一人か二人しか合格しない、
落ちたら就職という約束だから夢中であった。
受かった時の喜びは忘れられない、
家中で喜んでくれた、
あとは毎日片道16キロの砂利道を
自転車で通学なのだ。
しかし夢の半分は実現できた。
1945年昭和20年ぼろぼろの一年生であった。
あと5カ月で敗戦という物資の何もない時である。
殆どつぎの当った衣類やら草履や下駄の履物で
通学した、
雨でも雪でも長靴などなくて下駄や草履を
腰に縛りつけて裸足で走ったのが強烈な印象として
残っている。
一年、二年はやさしい女の先生であった。
モンペ姿であったが清楚な美しさがあり輝いていた。
その時代背景の中で大人になったら先生になるぞ、
と心に決めていた。
その後時代の変化で学校の先生には
ならなかったが、その気持ちは待ち続けていた。
自分が子供を持つようになり40歳になってから
地域のサッカークラブを立ち上げてサッカーで
スポーツ少年団の先生になった。
真っ白な子供の指導はひと時も気を抜けない、
大変さである。
30年経ったいまは100人の生徒がいる。
その指導者を指導している、
小学生時代の夢が頭から離れず
実現したのかもしれない。

