想いの道 ~会長の独り言~ -217ページ目

『事実を見る』

 晴れ梅雨が明け、一挙に猛暑がやってきました。しかし、心なしか私達が子どもの時に感じた肌を焦がすような灼熱感が薄れているような気がします。体の底からジーンと来るような心地よい暑さが消えてしまったようです。私の気のせいでしょうか。

 さて、今回のお話は『事実を見る』ということです。よくある例えですが、ここに、ジュースが半分入ったコップがあります。これを見て皆さんどう思いますか?「ジュースが半分しかない」と思う考え方と、「ジュースが半分ある」と思う考え方があります。「半分しかない」と思う考え方は、ジュース以外をみています。「半分ある」という考え方は、ジュースそのものを見ています。これが事実を見る考え方と事実以外を見ている考え方の違いです。「半分しかない」と思う考え方には、頭の中に全部入っている状態をイメージしている、あるいはイメージしていた、または全部飲みたいという欲求があったのかもしれません。いずれにしても全部入っている状態が、コップのジュースを見る前提条件になっています。その前提条件が基準になっているから、コップ半分のジュースを見て基準から足りない方を強く感じることになります。それに対して「半分ある」と思う考え方は、何の前提条件も持たずにジュースそのものを見ています。

 分かりやすい様に、もう1つ例を挙げます。ここにアル中の母親がいたとします。彼女は病気のために部屋の掃除もせず、お酒ばかり飲んでいます。掃除をするのは思い出したように月に1度くらいで部屋はいつも散らかりっぱなし。この母親を見て、皆さんはどのように思いますか?「母親のくせに酒ばっかり飲んで、ろくすっぽ掃除もしない」と思うでしょう。私もそう思います。

 何故多くの人がそう思うかといえば、多くの人の心の中には母親というものはこういうものだと言う先入観があるからです。多くの人の心の中にある母親のイメージを基準にしてこの母親を見ると、この母親は基準以下になるので基準より足りない部分を見て「母親のくせに……しない」という見方になるのです。この場合のモノの見方は、「母親とはこういうものだ」という価値観あるいは先入観がベースになっており、実体のないイメージを中心にしてモノを見ています。

 これに対して事実を見る見方は、何の前提条件も持たないでただ事実のみを見る。「月に1度くらい掃除をしてくれる」と実際にあったことを受けとめるモノの見方をします。事実を見る見方は先入観や価値観に惑わされず、基準をゼロにして実際にあるものや起きたことを足していくモノの見方ともいえます。

 「事実を見る」とはこういうことです。同じモノを見ても感謝できる人と不満を持つ人がいるのは、モノを見る基準が違うからです。先入観、固定観念、偏見等が強く基準の高い人は、基準より足りない部分を見がちになり、不満が起きやすいし対応能力が劣る可能性が高くなります。これに対し事実のみを見る眼は、基準が低く物事に感謝しやすく、対応能力も柔軟になるでしょう。

 私達がいくら豊かになっても決して満足感、幸福感を味わえないのは、モノを見る眼の基準がどんどん高くなって物事の足りない部分にばかり意識が向くからではないでしょうか?年をとると世の中の現象を批判的に見やすくなるのは、自分が生きてきた価値観を基準に物事を見るからではないでしょうか?

 足りない部分を見る眼から、満ちている部分を見る眼を養って行くことは人生を心豊かに生きていく大事な事ではないでしょうか。