想いの道 ~会長の独り言~ -216ページ目

『急がば回れ』

 私たちには生きる上でどうしても従わざるを得ない自然の法則があります。例えば、いくら大きな声を張り上げても、1キロも遠く離れた人とは話が出来ないとか、鳥のように空を飛べないとか、いくら私達が努力をしても人間の能力には限界があり、それは昔も今も変わりはありません。

 ところが、人知がひらけて科学技術を進歩させ、文明の利器を開発してきたおかげで、今日では海をへだてた遠距離の人とも電話で話をする事が出来ますし、飛行機に乗れば高い空を飛ぶことも出来ます。

 今まで不可能と思われていた事が可能になってくると、次第に自分達は何でもできるのだという、人間万能の錯覚におちいりがちです。

 しかし、依然として自然の法則に支配されている事は動かしがたい事実です。そうした機械文明の恩恵に浴せなかった昔の人は、ことごとく不便な生活を強いられ、それが当然と思っていましたから苦痛に耐え、物事はそう簡単に自分の思うとおりにならないことをよくわきまえ、自然の法則に謙虚な気持ちで、自分を適合させるより仕方がなかったわけです。

 ところが文明の利器にならされてしまった私達は、便利さが当たり前と思い、ますます快適さを求めて、人間の欲望は肥大化の一途をたどっているようです。

 現代人にとっては、しあわせになることと、自分の欲望を満足させることが同義語化し、他の誰よりも自分がラクをしたい、トクをしたい、カッコウよくしたい、という3つの面での欲望の充足を、たえず追い求めているといっても過言ではないでしょう。

 しかし、はたして、そうした生活が私達にほんとうのしあわせをもたらしてくれるかどうか疑問です。

 たとえば、ラクしたいということについて、誰しも苦労するより、ラクするようになると、私達の手足は次第に弱くなり身体はふやけて思考力がおとろえ、文明の利器が発達すればするほど、心身は内部崩壊を早め退化していきます。

 トクしたいということについても、誰しもがソンをするよりトクすることを望むようになると、たえず自分が他人よりも有利な条件で競争に打ち勝つ事が要求され、ときには相手を押しのけたり不正な手段を講じてまでも自分だけがうまい汁にありつこうとします。

 カッコウよくすることについても、今日では人間の内容よりも表面が問題視され、外見がよくなければ価値を認めてもらえないところから、表面を飾り立てて人の注意をひこうとする傾向があります。

 このように、ラクしたい、トクしたい、カッコウよくしたいという欲望にほんろうされて、それらを得ることによって、あたかも、しあわせを約束されるかのような錯覚におちいりがちですが、その行き着く先には、自分や他人や物自体を裏切る落とし穴が待ち受けていることに気づくべきです。

 私達はとかくせっかちで、ときには手段や過程を省略してでも、なるべく早く目的を達成しようとあせりがちです。しかし、そうしたせっかちなやりかたは、どこかに無理があり、いつかはそれが表面化して、自分がそのシッペ返しをくらい、あぶはち取らずでかえって高いツケを払うことになります。

 私達は、ここではっきりと人生の喜びと生活の楽しみの違いを、知っておくべきでしょう。自分のしあわせに結びつく人生の喜びは、いくら生活の楽しみを文明の利器やお金を使って手っ取り早く手中におさめ数多くこなしたところで、けっして得られないことを銘記しておくべきでしょう。

 「急いては事を仕損じる」ということわざもあるように、急ぐときは危険でも近道を通りたくなるものですが、それはかえって失敗を招くもとになるものです。自然は急ぎません。「急がば回れ」です。