6月20日 | 我が心の。

我が心の。

我が心の故郷への想いと日々の出来事を備忘録がわりに記す。

結論から言うと、客席は終始暖かく大きな力強い拍手で、再開した宙組を迎えた。

 

開演前、飾り幕ではない緞帳の前に緊張しきって喉カラカラ風味の理事長が登場し、言葉を選びながらつっかえながらのご挨拶。気の毒なほどぎこちない動き。

 

最初の理事長ご挨拶も、ラストの組長、芹香さんご挨拶も、公演中止、延期、ご心配をおかけしたことについてのみの謝罪で、彼女についての一連のことには一切触れず。。

再び開いた幕での言葉も「本日は本当にありがとうございました」のご挨拶のみで。

 

一般の方の知りたい部分はそんなところでしょうか。

 

さて、ベルばら初演で宝塚ファンとなり、ベルばら50 ならず、ベル婆50と半世紀のファンである自分が、この宙組で起こった出来事(いや宙組だけでなく現在の劇団内の状態とでもいいましょうか)は、50年前からその花園を見聞きしてきて、許容されてきたことが(許容されざるを得なかったことも含め)、その当時は「愛ある厳しいご指導」と言われてきたものが、いつしか時代は変化し、たとえ当時と変わらぬご指導だったとしても、受け取る方が生きてきた時代が新しくなったことで、ご指導とは受け取れなくなってしまったこととして、深く考える事案であった。

 

何度もブログに書いてきたけれど、SNSの普及による、発信の変化。

それまで噂話程度で身近なファン同士で済んでいた話が、瞬時に世界発信となり、デジタルタトゥとなって拡散される恐ろしさ。

 

この件については、それまで聴いてきた情報と、週刊誌で拡散された内容に乖離があり、いまだ腑におちずであるが、あまりに多くの方がその週刊誌に書かれた情報を信じ、酷い言葉でなじることの驚き。実際に見て、聴いたのだろうか。なぜに鵜呑みにできるのだろうか?

 

ということで、今回の宙組再開に際し、実際にこの目で観て何を思うのか。

その思ったことが自分のこれからの宙組へのスタンスであろうと、運よく初日のチケットを入手し、歴史の瞬間に立ち会うこととなった。

 

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緞帳が開くと、飾り幕に「Le Grand Escalier」の文字が。

 

芹香さんのいきなりの「モンパリ」で緊張した心がほどけ、無意識に涙する。

名曲のもつ威力たるや。

それからは、110周年タカスペ宙組版といったところで、過去の宝塚名曲で全編構成され、最初はパリ、レビューシーンではモンパリ、モンマルトル、パリジュテームなど大階段、銀橋、すっぽんフル回転で次から次へと繰り広げられる懐かしい楽曲の数々に、復帰を待ちわびたであろう客席の手拍子は熱を帯び、高なり。

 

パリジュテームは、その昔、麻路さきさんとお花さまの初々しいコンビが銀橋を渡った大好きな曲。

数年前、デリシューで和希そらさんも素敵に歌っていた曲。

その歌を時を経て、芹香さんと春乃さんが歌い継ぐ。

 

指揮の塩田先生も絶好調で指揮棒を踊りながら振り、最初は硬かった生徒の表情も満面の笑顔に輝いていく。

 

宙組に詳しくない自分なので春乃さんはほぼ初めましてなのだが、なんと華やかで歌にパンチがある娘役さんなのだろうか。天彩峰里さんも痩せてさらに美しく、笑顔満載でプロなお嬢さん。

 

と、次から次へと場面がスペイン、イタリア、夢人、ノバボサ、宙組名曲?(未来へ、シトラス)と、まだ学生だった頃から、宝塚に憧れ、何度も繰り替えしビデオやレコード、CDを聴いて、身体に沁みついている楽曲ばかりだから、自然と心の中で一緒に歌い、歌っているスターさんの後ろに当時憧れたスターさんが見え隠れし、懐かしさ恋しさに泣きながら手拍子する怖い女と化す。

 

この構成!斎藤吉正 天才! してやられた! 嗚咽必至!

特にエスカイヤガールズ、ソルイソンブラ、コンガ、ゴールデンデイズ、セマニフィーク、サザンクロスレビュー等々、銀橋、すっぽん、大階段を使い、次から次へと息つく間もない人海戦術。中詰めからの中詰めのさらなる中詰め(笑)は、もしかして思考能力を麻痺させ、何も考えさせない、単純に舞台を楽しむ作戦なのか、吉正よ。

 

盛り上がり最高潮は未来へから、シトラスへの全員合唱。

 

そして大階段を下りてきた芹香さんが歌う「愛の旅立ち」。

うそ。反則すぎる。上から峰ちゃんが見守っているでしょ。

宝塚頑張れって。

天を仰いで私は泣くばかり。

 

とにかく目白押しの名曲の数々が流れると、その頃の感情、生活も一緒に蘇るわけで、

今回、時間がなくの苦肉の策だったのかもしれないが、新たなショーでなく、古き良き宝塚の、先輩方の築いた夢の世界というイメージをお借りした作品ということが、舞台、劇場の神様たちに、背中を押して貰った公演のように思えてならない。

 

しかし、熱く応援する人の一方、全く微動だにせず、拍手も手拍子もない人もいらっしゃるわけで、その方たちには舞台の神の力届かず、目の前の作品ではなく、そこにはいない亡き彼女が存在した過去の舞台がよぎり、自分がして欲しい禊が済まない限りは心から楽しめないのであろう。

 

どんな気持ちで自分は対峙するかと思ってのぞんだ今日の公演。

宝塚と共に育ってきた歴史、作品や楽曲が半世紀染み付いた心身には、今日の幕をよくぞ開けることができたとそこは惜しみない拍手を。

しかし、ご時世変わり、過去の風習が通用しない今、この出来事を教訓に今一度、熟考して二度と繰り返してはならないと思う気持ちも新たに。

 

そんな宙組再開の今の感情を記す。

 

       

 

      

 

 

 

  

          

       

               

 

      

 

      

 

        

 

        

 

追記。

 

観劇後、その足で大阪と紀伊勝浦へ旅していたので、数日経った今の気持ち。

やはり彼女に対する弔いの形が舞台上でなかったことで、荒れているネット上。

 

ファン、観客の数だけ、今回の初日に対してこうあって欲しいという形があったと思うので、今回のこの初日の形が正解であったかどうかは、その人それぞれの胸に持つ感情が判断するのだろう。

 

私は昨年、大劇場の雪組公演が中止になった際、いつもは駆け足の日帰り観劇であるので、ゆっくりと足を運べない宝塚の街や、かねてから一度は訪れてみたかった元音楽学校建物の文化創造館、武庫川のほとりなどをゆっくりと観て回った。

 

 

その時の心情。

 

 実は今日ここに来たのは、祈りを捧げたかったこともあり。

 どうぞ安らかに。と対岸に向かって祈っていると、遠くにも同じように

 散歩の途中か、手を合わせている方が。

 

うまく言葉に表せないが、何より歌劇と共にある街であるから、そこに住む人々はあれからいつも忘れることなく、そこを通るたびに想い出し、心の中で手を合わせているように思う。

また大劇場のデッキから対岸が一望できるわけで、そこを訪れる人も、劇団に関わる方々の殆どが、様々な想いでそこの景色を目にしているのであろう。

私はあれから大劇場内には2度訪れたが、デッキから祈りを捧げ、ご冥福を祈るが、特に同じ組であった方たちはマスコミやネット、直接に言われるだけでなく、ホームタウンの心安らげた場所で、これからずっと対岸を見つめる度に何かを想うわけで、謝罪文という正式な形とは違うが、その場所で彼女を想うこと、それが故人への弔いとなるのではないか…というのは綺麗ごとか。

 

何もなかったことのように公演を再開していると言う方がいるが、違う土地に逃げることなく、この場でプロとして舞台を務めるというのは大変なことと思うのだ。

 

私は無から、たくさんの力が集まって、化学反応を起こし、心に感動を起こす舞台という存在が大好きだ。この初日、プロに徹して、それこそ「何もなかったことのように」素晴らしい時間を、心震える時間を魅せてくれたことに感謝する。