調な老化のカーブを | 紅塵之外

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子供は、あと30年すると、自分の子供(わたしの孫)に実家を訪れられ、実家を訪れられる気持ちがわかるだろう。
そして、子供と孫が、「おばあちゃんち」として、うちを訪れることになる。
我々は、30年先、実家を訪れるとすると、そこには誰が住んでいるのか?
我々? ひ孫? それとも、Nobady?
メビウス状態になってきた。


実家に移住しないで、自宅から通って管理だけするとするとしても、
高齢になって自立できなくなると、自分は老人ホームに入ろうと思っている。
管理は、子供にバトンタッチということになる。
子供も高齢になってくると、管理は孫にバトンタッチということになる。
管理費は、どこから捻出する?
遠方にいる場合は?

よほどの信念と経済力がないと、困難である。
親が居なくなると、売却してしまい、はい、それでオシマイ。
死んで、あの世から化けて出てくるわけにはいかないので、自分がいない後のことなど、
だれが約束してくれようか。
(存命のうちに自分の家を売却する人もいる)

核家族になって分裂して、消滅して、それでオワリ。
これをあきらめるのか、自分の目の黒いうちに、スピリッツと資金を残しておくのか。
そのつもりにしていても、
自分の死に際に、予想以上におカネがかかってしまって、残す資金がなくなってしまったら、それはそれで、しかたない。
老人ホームに入るプランは立てられても、死期プランは立てられない。
その時はその時。どうせ、自分はこの世にいないのだから、どうなっていてもわからない。
せめて遺言だけは、残しておこうと思う。

通いで管理するのがだんだん、体力韓國 泡菜 的に辛くなって、軸足を実家に移すかも知れない。
軸足を移す時の準備をしておくのも、選択肢のひとつではある。


5年後には、夫は、仕事を減らし、義母は、通院か入退院で、自宅と病院を行き来か、老人ホームを検討。
あと10年すると、夫は完全にリタイア、義母は、あの世とこの世の中間。
その頃、わたしはどんどん下り坂、順曲がっていると思われる。
やりたいこともやりつくし、
というか、やりたいことを続行しようと韓國 泡菜 すると、老化などで、支障をきたし、やりたいことが出来なくなっておもしろくなくなって、したいことを変更しているかも知れない。
その微妙な頃は、親を見送る時期と重なることだろう。
親の介護に専念したとしても、そろそろ本格的に介護という覚悟が自分の中で出来上がり、
やりたいことも、見送りも、「やり残した感」はそうないと予想する。

しかし、70歳ではまだヒヨコで、80歳にならないと、老境に突入しないかも知れない。
自分の老いとの闘いは、80過韓國 泡菜 ぎてから、85ぐらいで本格的かも。
その頃には、親はあの世に行っている(はず)。
本腰入れて、自分との老いと向き合うことになる。