エホバの証人の長老の権威の正しい行使の仕方 | ヨハネのブログ

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Katahira, age 66.

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 エホバの証人の長老はどのようにその権威を行使すべきでしょうか。ヘブライ1317節には、「あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い,また柔順でありなさい。彼らは言い開きをする者として,あなた方の魂を見守っているのです。」と述べられています。

 ですから、確かに指導の任に当たっている人たちは、他の信者たちから柔順を期待できる根拠があります。通常、他のクリスチャンは、指導の任に当たっている人たちに従順さを示すことが求められています。しかし、それは無制限のものでしょうか。

 「指導の任に当たっている人たち」とは、「あなた方にの言葉を語った人々」です。(ヘブライ13:7)ですから、指導の任に当たっている人たちとは、一般の信者に神の言葉聖書から教える点で率先する人々です。彼らは、「監督」と呼ばれます。(テモテ第一3:1)

 ですから、監督たちは、何に従うようにと教えるべきでしょうか。それは、神の言葉です。それで、監督たちは神の言葉聖書に示されている神の律法と原則に従うようにと教えるべきです。では、監督たちは、聖書に調和しない事で、従順を要求する権威があるでしょうか。


 Photo: Robert de Jong.
エホバの証人の長老は第一に聖書から教えなければなりません



 もちろん、クリスチャンが第一に支配者として、従う立場にあるのは、エホバ神です。使徒たちは、「支配者として人間より神に従わなければなりません。」と述べました。(使徒5:29)そして、二番目の立場にあるのがイエス・キリストです。(コリント第一11:3)

  ですから、長老たちは、当然、聖書より自分たちを上にするべきではありません。聖書に反して自分たちに従うよう要求するとすれば、エホバに示されるべき崇拝と従順を自分に求めているのと同じになってしまいます。それは、偶像崇拝と同じです。

 私は不法の人が統治体であるとか、長老たちであるとか考えてはいませんが、「不法の人」は、「自分をすべてその(神と呼ばれる者)上に高め、・・・自分を神として公に示します。」(テサロニケ第二2:4)もし、聖書と調和しない自分の命令と意見に従うように要求するなら、自分を神の位置に置くことになるでしょう。


 絶対的な従順を示すというのは、その人に栄光を与えることになるでしょう。(ルカ18:43)しかし、エホバ神は、ご自分以外の偶像に栄光を与えないと言われています。(イザヤ42:8)

 それで、長老たちは、何かの助言を与えたり、指示を与えたりする場合に、それが聖書と調和したものとなるように気をつけるのは当然です。

 監督の資格のひとつは、「教える資格」があることです。(テモテ第一3:1)何を教えるかというと、聖書です。


 それで、監督たちは、聖書中の神の律法と原則について妥当な範囲で知識と理解を持っており、それに忠実である必要があります。他の信者も長老が自分たちより聖書の知識があり、神の律法と原則に従っているであろうと考えて、長老たちの権威に敬意を払うでしょう。

 監督たちは、聖書に反することを行なうよう成員に要求しないようにするのは、一層当然のことです。それは、権威の乱用です。

 ダビデはヨアブにウリヤを戦いの中で死ぬように取り計らうようにと指示を出しました。ダビデの指示は、罪のない人の殺人であり、律法に違反することでした。ダビデのように、神の律法に違反する命令を会衆の成員に与えるべきではありません。(サムエル第二11:14,15)


 神の言葉に調和しないことを行なうように成員に指示するのは、ダビデの権威の乱用でした。ダビデは、後になってその権威の乱用の報いを受け、神からもたらされる災いを経験することになりました。

  

 さらに、聖書に基づいて成員が聖書の預言の解釈を述べる場合、それが聖書と調和しているならば、会衆から追い出すことをするべきではないです。結局、エホバの証人の組織も聖書の解釈で何度も変更してきました。その成員の言うことが正しかったことが後になって明らかになるかもしれません。


 
Photo: Robert de Jong.
エホバの証人の権威は第一に聖書にあるので聖書から預言の解釈を述べている場合排斥するべきではありません




 その場合は、それが組織の解釈と違うと言う理由で、その成員を排斥するならば、エホバの証人は、聖書に従うのではなく、組織が間違っていても組織に盲従することになってしまうでしょう。エホバの証人の信条は、土台は聖書のはずです。聖書が第一の権威です。

 クリスチャンは、聖書に合わせて自分を変化させていくべきです。終わりの時に、真の知識は満ちあふれることになっています。(ダニエル12:4)ですから、聖書の知識が増大するならば、聖書の解釈はそれに合わせて変化していかなければならないことになります。ですから、会衆の成員の言うことが聖書と調和しているならば、組織の教えと食い違っていても容認するのが正しいです。 

 しかし、生活の多くの分野は、聖書の律法や原則と関係のない分野の事柄も多くあります。もちろん、監督たちは、仲間の信者に協力を要請することはできると思います。しかし、監督たちは、直接神の律法や原則と関係のない分野でいたずらに、会衆の成員に従順を要求したりするべきではないと思います。

 もちろん、監督たちもさまざまな分野で意見を持っていて、それを会衆の成員に話すのは自由です。しかし、聖書の律法と関係のない監督の助言に従順に従わないならば、何かの特権を取り去ってしまうとか、排斥するというようなことをするべきではありませんし、そのように言って脅かしたりするべきではないと思います。

 イエスは、クリスチャンの指導の任に当たる人々に対して、「諸国民の王たちは民に対していばり,民の上に権威を持つ者たちは恩人と呼ばれています。だが,あなたがたはそうであってはなりません。むしろ,あなたがたの間でいちばん偉い者はいちばん若いもののように,頭として行動している者は仕える者のようになりなさい。」と助言されました。(ルカ22:25,26)

 

 

諸国民の王たちは民の対していばるかもしれません





 Waiter at the original Spago

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    けれども長老は若い者仕える者のようにふるまうべきです




  監督たちの権威は、イエスが言われたように会衆の成員のために「仕える者」の立場です。(ルカ22:25,26)会衆の成員のために自らの時間と労を「費やす」立場です。(コリント第二12:15)

 

 パウロは、「あなた方自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こるでしょう。」という時代が来ることを予告しました。(使徒20:30)曲がった事柄とは、聖書に調和しないことでしょう。また、自分の権威を高めるために、自分につかせるという目的で、権威を用いるべきではありません。


 つまり、監督たちが会衆の成員に何か助言をしたり、指示をする時に、そうする目的が単に何でも思い通りにするため、自分の権威を誇示するためのものであってはならないと思います。

 監督たちは、「言い開きをする者として,あなた方の魂を見守っている」と述べられています。(ヘブライ13:17)それで、監督たちが任命されている目的は、会衆の成員の救いと益のためです。それは、聖書と神に対する健全な敬意を保つためです。

 

 Photo: Robert de Jong. 

聖書が権威です―聖書と調和しないことに従順を求めて聖書より自分を高めるべきではありません




 確かに、監督たちの立場は、会衆の成員から敬われる立場です。しかし、監督たちの権威は、権威のための権威であってはならないと思います。


  エホバ神は、被造物から絶対的な従順を求めることのできる立場にあります。そのエホバ神がアダムとエバに要求されたことは、エデンの園のただ一本の木の実を食べることを禁じられただけでした。
(創世記2:17)エホバ神のおきては重荷ではないと述べられています。(ヨハネ第一5:3)


 

エホバが禁じられたのは一本の木の実を食べることでした
聖書に調和しないことを長老の権威で要求して成員の負担を重くするべきではありません

 


 ですから、監督たちは、仲間の信者たちに聖書の律法と原則に関係しない事柄は、できるだけ自由に選択する余地を残しておくべきだと思います。監督たちの要求が仲間の信者たちの重荷にならないようにするべきだと思います。

 長老たちの権威は聖書に第一に従って愛に基づいて行使されるべきです。監督たちは仲間の信者たちが救いにあずかって欲しいという動機でその権威を利他的に行使するべきです。ただ、いばったり、自分の権威をふるうための目的で、仲間の信者に従順を要求するべきではないと思います。