「ヤハよ、あなたの見つめるものがとがであるなら、エホバよ、いったいだれが立ち得るでしょうか。あなたのもとには真の許しがあるからです。」(詩編130:3,4)
詩編130編には、冒頭の聖句にあるように、エホバが注目されるものが私たちの失敗や欠点ではないことを示しています。エホバは神の僕の側にとががあったとしても、許して大目に見てくださいます。そして、聖書の記録を調べるとエホバはご自分の僕の神に対する愛や奉仕を、すなわち神の民の側の長所を見つめてくださることを示しています。
たとえば、聖書は、ユダの王アサについて、「アサの心は,一生涯完全であった」と記録してアサをほめています。(歴代第二15:17)確かに、アサは、自分の影響の及ぶ範囲から偶像を取り除く改革を行ないました。(歴代第二15:8)また、エチオピアの大軍が攻めてきた時、エホバに頼って成功を収めました。(歴代第二14:11,12)
しかし、実際には、アサはエホバに頼る点で、失敗もありました。北のイスラエルが攻めてきた時、エホバに頼るのではなく、シリアに頼りました。(歴代第二16:7)また、自分に対する宣告に怒って予見者ハナニを迫害しました。(歴代第二16:10)そして、年をとって病気になった時、エホバを求めませんでした。それでも、聖書は最終的にアサのことを好意的に述べています。ですから、この聖書の書き方は、エホバが私たちの側の失敗や悪い点ではなく、エホバに対する忠実な部分を注目して見て下さることを示しています。
また、エホバはご自分の僕を戒める時でも、その僕の良い点をお忘れになりません。例えば、ユダの王エホシャファトは、邪悪なイスラエルの王に助けを差し伸べて、共に戦うという失敗をしました。その時、幻を見る者エヒウがエホシャファトに言いました。「助けが与えられるべきなのは邪悪な者に対してでしょうか。あなたが愛を抱くべきなのはエホバを憎む者たちに対してでしょうか。それで,このために,あなたに対してエホバのみ前からの憤りがあります。それでも,あなたのもとに見いだされる幾つかの善い事があります。あなたはこの地から聖木を取り払い,心を定めて[まことの]神を求めたからです」。(歴代第二19:2,3)
エホバは、エホシャファトが間違った態度を示した時も、預言者を通して、彼が偶像を取り除き、ご自分を求めたことについて言及され、彼のご自分に対する愛と専心を忘れておられないことを示されました。
私たちは、事情があってかつてのようにエホバに対する愛や専心を示すことができなくなっているかもしれません。しかし、聖書はエホバについてこう述べています。「神は不義な方ではないので,あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え,今なお仕え続けているその働きと,[こうして]み名に示した愛とを忘れたりはされないからです。」(へブライ 6:10)クリスチャンは、過去に示した神のみ名に対する信仰と愛の業を,エホバ神が覚えていてくださることを知って、慰められます。
エホバは、私たちの側の失敗や弱点ではなく、私たちが神に対して示した信仰と愛の業を注目して見てくださいます。そして、エホバ神は、良いことの記録に基づいて私たちに報いてくださるでしょう。このエホバの愛と憐れみを考えると私たちは愛あるエホバに引き寄せられ、この方を崇拝したいと思うのではないでしょうか。