「あたたかくなって (いろんな意味で)出かけやすくなった頃
行きたいところはある?」
と 実家の母に聞いてみました
「・・・思いつかんねぇ」
「遠いところじゃなくていいんよ
『何か特別なことをする』とかじゃなくていいんよ
何かない? したいこと」
「そしたらね 前にね
河川敷の桜の下でお弁当食べたじゃない
あれがしたい」
「じゃあ 花見してお弁当食べようね」
「花が咲く前でもいいね
花が散って 葉っぱになってもいいね
豪勢なお弁当じゃなくてもいいね」
母と これからしたい楽しみをみつける話をしていました
先日いただいた「さくらや」さんの【百年桜】
今の季節 近所の河川敷の桜の木々は
寒々しく見えてしまう枝にかたいつぼみ?があるかな・・・なようす
今では20歳を過ぎた娘が まだ私のおなかのなかにいる頃
大きくなったおなかをさすりながら
桜の木の下を歩いては
「生まれたら一緒に桜を見ようね」
とおなかのなかの赤ちゃんに話しかけていました
娘が生まれてからは
「〇〇ちゃんがおなかのなかにおった頃
かあさんは おなかのなかにおる〇〇ちゃんに
『一緒に桜を見ようね』って言いよったんよ」
と まだことばも話せない赤ちゃんに話したり
毎年 かんたんなお弁当を作っては
公園遊びの帰りにお花見がてらのお昼ごはんをしていました
娘は私が話すおなかのなかにいた頃のようすを聞くことも
お弁当を持ってのお花見も大好きで
うれしそうに楽しそうにしていて
お弁当を持っていない子どもたちが公園から帰って行くのを
待ちきれないしびれをきらすようなようすもしていました
想い出すことが まるで夢だったような気もするし
想い出すと なぜかこみあげてくるものがあるのが
からだを持って体験したことだとも感じます
このからだを持って生まれて
あとどれだけ このからだでいられるのでしょう
このからだがあるだけ
したいことをやってみる
かつて
娘と話していたことを
直近では 母と一緒にできそうです