精一杯の「選択」を しただけよ | 魂の選ぶ声を聴く ~言葉にならない想いをつなぐ~

魂の選ぶ声を聴く ~言葉にならない想いをつなぐ~

無意識のストレス反応を意識的に変化させて
気づきと自然治癒力を高め 自分や周りのひとの存在に光をみる人生を楽しんでいます

「ある」できごとがあって
父親を変えようとして
イラついていた私

できごとにふれて
ずーっと持ち続けている「癖」が
わき上がってきたのだろう
 
 
「人を変えることはできない」
 
「変えることができるのは 自分だけ」
 
タッチフォーヘルス・キネシオロジーでも
禅カウンセリングでも
そう教えてもらっている
 
 
自分の思い通りにしようとするから
(思い通りにしようとしても うまくいかない)
「苦」が 生まれるそうだ
 
 
「あー、こんなことを考えていても仕方がない」
 
と ぐるぐるするものを取っ払って
他のことに取り掛かろうとした
 
 
‥‥が、それでいいのか?
というものが ふと わいた
 
 
ここから 「禅カウンセリング」をもとに
セルフカウンセリングをしていく
 
 
「父親を変えようとしている」
「変えようとして イラついている」
 
ことは、何か 問題があるのか?
 
 
「こんなつまらん、せこい人(と 私が勝手に想っている父親)に育てられて
私が つまらん、せこい人に育った(と 私が勝手に想っている自分)こと」
 
が 出てくる
 
 
あぁ、私は 父のこともだけど
自分のことを
「つまらん、せこい人」
だと 想っているんだね?
 
 
「つまらん、せこい人」だと
困るのか?
 
 
「困る」
「周りの人に対して 恥ずかしい」
 
 
・・・では、「つまらん」とは
具体的に どういうことか?
 
 
「自分の考えや経験だけが すべてであり
正しいと思っていること」
 
 
・・・では、自分の考えや経験だけが
すべて で、正しいと思わなければ
いいのか?
 
 
はい
自分の考えや経験は 
これまでの自分が生きてきて 得たものだから
それは軽んじるものでも 否定するものでもない
 
だけど、同じように 
自分以外の他者にも
これまでのその方が生きてきて 得たものだから
それも 軽んじるものでも 否定するものでもない
 
上でも下でもなくて
どちらも 「ある」 もの
 
 
・・・「せこい」
というのも、「つまらん」と 同じように
とらえることができるか?
 
 
できそうだ
どこにエネルギーをかけるかは
その人のそのときの選択
 
私は こうだけど
他者も 同じとは限らない
 
私自身でも
そのときによって変化するだろう
 
 
父を「つまらん」「せこい」と 想っている、決めつけているのは 私
 
私のことを 「つまらん」「せこい」 と 想っているのも 私
 
 
・・・「つまらん」「せこい」父が育てたら
「つまらん」「せこい」者が 出来上がるなら
同じ父の元で育った、ふたりの妹も
「つまらん」「せこい」者に なるのか?
 
 
ううん
妹たちが
「つまらん」「せこい」人だとは 想わない
ふたりとも 個性的で素敵な人だ
 
私の尊敬する人たちだ
 
 
・・・それなら
私が「つまらん」「せこい」人だとしたら
父のせい‥‥ということには ならないね?
 
 
うん、そうなる
 
 
「こうして欲しかった」
「こうして欲しくなかった」
 
というものはあるけれど
 
父は父なりの
精一杯以上のもので
三人の娘を育ててくれただろう
 
 
 
「つまらん」「せこい」人だと感じるのは
私の「無痴」が為せるものではないか?
 
 
 
人を変えることはできない
 
自分を変えることはできる
 
 
それなら 私にできることは何か?
 
 
私が 私を
「つまらん」「せこい」人だと 想いたいのなら 想えばいいが
そうでないなら
 
自分を貶めたり、傷つけたりするようなことは やめにして
 
自分の「選択」を 認めよう
 
 
「つまらん」選択をした?
 
いや、そのときの私の精一杯が したことだ
 
 
「せこい」選択をした?
 
いや、そのときの私の精一杯のエネルギーをかけたのだ
 
 
それだけのことだよ