母は 亭主関白というか、独占欲・支配欲が強いというか・・・
そんな父から 離れる時間、ひとりで自由にできる時間を持ちたがるように見えた
父は「この女は わしのおもうようにならん・・・」 と ぼやくこともあった
父は 母に対して 傍若無人、人権無視みたいな言動をするが
娘たちより 母のことが第一なんだと
想えるできごとが ぽつぽつあった
私が小学校高学年の頃、父は 数カ月のアメリカ出張に行った
母にあまえっぱなしで、「昔の日本の父」みたいな父が
初めての異国で、英語も話せないのに どうやって暮らしていたんだろうか
洋食・・・ナイフやフォークだよ?
日本を発つときも パニックになっていたようだが
滞在中も ホームシックだったようだ
時差を考え、日本の夕方頃 国際電話があった
父の不在がさびしかった私は、久しぶりに耳にする父の声に 涙が出そうだった
そんな私の話もそこそこに
「おかあちゃんは?」
と 母に代わるよう、促す父
電話口の母の様子で、父が弱っているのを感じた
私が高校生だった頃には 母から父の愚痴をよく聴くようになっていた
「父のために 母の代わりにしっかりしなくては・・・」だった私は、「暴力的な父から 母をまもらなくては!!」に シフトしていた
母をまもろうと 父にたてついて
父の理不尽さや、矛盾を突くと
「妙子が そんなことを言ったら、おとうさんと おかあさんは 離婚するはめになるんよ??」
と 変な切り返しをされた
・・・え? 私のせいか? 事実を伝えると、そうなるのか?
父と娘のやりとりを目の前にして
母は 沈黙の一手だった
娘を身代わりにするんじゃない・・・
そう想いながら、父は 母と離婚したくないんだな と 改めて知り、驚きもした
60代後半になった父は 病に倒れた
突然のことだった
娘たちにも すぐには 知らされなかった
入院中 お見舞いに行くことも断られた
父は、おもうように身体がきかない状態を 誰にも見られたくないらしい
父の実家の親戚から 私が責められた
「なんで 病院にも行かれんのや」
「うん・・・私ら 娘も行かれんのよ、ごめんね」
「ひとりで生きとるんじゃないんで」
「うん・・・うん・・・」
叔父からの電話に 何も言えなかった
病室の父に逢えなかったので メールをした
父は 私からのメールを読んで
「妙子に 怒られる」
と 母に言っていたらしい
私は 何も怒っていなかったし、責めてもいなかった
私が送ったメールを読んで、母も そんな内容ではないことは わかっていた
・・・父は なぜ そんなことを感じていたのだろう
誰とも逢わず、できることなら 病に倒れたことを 誰にも知らせずにいたいと想っていた父は
病院での介助も 看護士さんではなく、母にさせていた
トイレから 清拭から なにから・・・
父が弱みを見せることができるのは
母 だけ なんだろう
「母の代わりをやってやる、しっかりと気の利いた女になってやる」
と 息巻いても、何をやっても くつがえされるものでは なかったんだな
・・・それは 「おとうちゃんっ子」だった幼い娘には 嫉妬の対象だったかもしれないが
幸せなことだよな