ことばだけは、いつだって自由だ。
私たちは自らLGBTと名乗ることを選んだ。
それが適切だから、ではなく、一般的な理解に背丈を合わせるため。言葉を借りることに抵抗はなくて、いつかの自分のためなるのならば、いつかの誰かのためになるのならば、甘んじて受け入れようと、そう思っている私たち。
〜改定前*広辞苑第7版より~
LGBT:(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーの頭文字)多数派とは異なる性的指向をもつ人々。GLBT
さあ、自由なことばたちの行方は。
ハイ、maaiの想定通り、”性的指向”という表現に”性自認”が加わりました(2018.01.25. 訂正文を発表)やはり改定のなかには「SOGI」という語句の存在があったことが伺えますね。
行動の背景を考えることによって、意味付けが可能となる。行動の意味付けによって、適切な次の行動を選択できる。それが正しい学習。
つぎに我々が注目すべきは、"性的指向が「異性愛」でない人々"という記述。
オシイあと一歩、と親心さえ芽生える我々は、やはり多数派とは異なる感覚をもつ人々なのでしょう。「異性」でも「同性」でもなく、「女性」「男性」で捉えるからこそ、”SOGI”というコトバが意味を成すという本質を、社会が理解するまでには、もう少しだけ時間が必要。だからこそ、ココにつながるみなさまには、どうせならば真の理解者で在って欲しい。
そう願って今日もまた、コトバであそぶ。
そもそも、辞書というものはステレオタイプ構築の道具であるとも解釈できるわけで、その1ページにLGBTという語句が記載されることによって、”マイノリティである”ことが公式化されることになります。一般化されること、これが何を意味するのか、行動の意味を知ろう。
異議を唱えること、それも大事。
けれど大切なのは、何故異議を唱えたのか。
そこさえ見失わなければ、だいじょうぶ。
世界はやさしく在れるはず。
いつでも本質のもっとずっと奥にある、
真意を見抜けるヒトでいよう。
Lism/maai