断絶、という感じ。セカンドレイプその他諸々について思うこと。ポランスキーのニュースに接して。 | 桃色テラス

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あはれ来て野には咏へり曼珠沙華

三橋鷹女が理想です。

 作品がすばらしいから、と言う理由で免罪されちゃうのは変だ。


〈13歳で強姦された女性がポランスキー監督を「気味の悪い老人」と表現するも「忘れたい」〉
*シネマトゥデイ http://www.cinematoday.jp/page/N0019916



 「作品の評価」と、「作家の気質・経歴」を混同すべきではないし、被害者本人も、〈わたしも、あの事件も、評価とはまったく関係ないことです〉とコメントしていた。
*シネマトゥデイ http://www.cinematoday.jp/page/N0019886?g_ref=mixi

 しかし、「事件と作品の評価をごっちゃにしてはならない」からこそ、事実ならば逃げたりせずにきちんと償うべきでしょう。有罪判決が出てるんだから。
 加害者も、擁護する人々達も、法に則って主張すればいい。法廷の外でメディアを利用するのではなく。
 「作品がすばらしい」――と言う理由で、罪を犯した作り手を擁護することこそが、事件と作品を混同し、尚且つ作品そのものを愚弄することになるのではないのか。


 マイミクさんの日記で知ってニュースをよんだ。リンクを辿るうちに、セカンドレイプの怖さが際立ってくる。
 加害者・被害者どちらかの知名度が高いと本当にヒドイ。それがまた加害者の売名(敢えて売名って書かせてね、お好きな方すまんです)に繋がって、起訴を取り下げねばならなかった被害者の心情はいかに。

 「セカンドレイプ」ってカナで書くと軽ゥく読み流せるが、漢字に直せば「二次強姦」だ。こうして衆目にさらされて(たとえば、私も知るところとなり)、それをネタにした映画も作られて……二度じゃ済まない。何回も何百回も繰り返し犯されるんだよ。

 セカンドレイプや、非関係者の無理解(=理解しよーという努力の放棄、又は「思いも至らねぇ」という無関心)が、起訴することはおろか、家族にも友人にも話せず、泣き寝入りしちゃう被害者の山を産むんだなぁ……。
 法の下で適切に裁かれたって、事件自体も記憶も消えるわけでは無い。けれど、それすらも叶わない今回の起訴の取り下げを本当に残念に思う。残りの人生は、なるべく穏やかに過ごせますように。



 性犯罪がらみの報に接するたびに、性犯罪の関係者と非関係者の断絶を感じる。
 決して埋まることのない海峡。
 乃至、加害者になり得る側(多くの男性=「自分はしない」と無根拠に信じ込んでいるため、無関心)と、被害者になりうる側(多くの女性=多かれ少なかれ、性的に不快な事件に遭ったことがある側)の間にそびえ立つ壁か。

 橋を架けたくてもドアーを取り付けたくても、片岸の住人が「必要だ」と感じていないから、決して、繋がることは無い。



■注釈1 カタカナで表記したら軽いけど。

 レイプ・チカン・ロリコン・セクハラ――エロ動画のジャンルでも有るのだがおしなべて犯罪です(ロリコンという嗜好だけなら勝手だけれど)。
 このようなカナ言葉も、話に出るたびに目眩がする。
 私はあきらめてしまったけれど、闘う気力の残っている皆さんには大いに頑張って欲しい。
 ふぁいとー。


■注釈2 作品と作家は別って言ったけど。

 本でも映画でも「作品と作家を完全に切り離して評価する」なんて幻想だ。聞き流す・読み流すのではなく、真剣に向き合うので有れば、尚のこと。
 「作家の内面世界が反映されている」(プ)なんて評されることが多々あるのだから、その逆もありき。作品から入って作家が気になるのは仕方の無いことでしょう。
 興味がわけば湧くほど、惹かれれば惹かれるほど、その作り手に、背景に、想像を巡らせるのは極めて自然な成り行きだと思う。
 
 そして、知ってしまった以上、知らなかったころと同様に鑑賞・評価することは不可能だ。
 
 たとえば「客観報道」が原理的に成立し得ないと同じく、不断の努力によつてこれを保持しようとする、位が限度ではないのか?
 努力無しには流されていく、努力したって100%はあり得ない。

 達成不可能なのに、無自覚なまま「事実を客観的に書いてます」「作品のみ純粋に評価してます」と思いこんじゃうのは危険なんじゃないかなぁ。


■注釈3 とかなんとか、色々かいたけど。

 『戦場のピアニスト』しかみてません。すんません……。

*2009年10月02日のmixiより転載。若かったなー。