酒場人生覚え書き

酒場は、人と人の架け橋のような気がしながらカウンターに立ち続け、もう少しで

半世紀

その歳月の中で出会い、そして去っていった人々の面影も今は定かではない。

歩み続けた足跡の上に歳月が降り積み、全てが茫洋とする前に、せめて書き留

めておこう思ったのがこのブログである。

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続・続 人間機雷 379 

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ
1 情縁(15) 


坂の下ににじむ家々の明かりがみえる窓際に座り、飲み干した茶碗の底を見つめながら、過ぎ去ったその歳月の流れをたどっていた秀敏に「秀ちゃんきて」と聴き取れないほどの小声が聞こえた。
我に返ったように振り返ると、小さな常夜灯の薄ぼんやりした明かりの中に、肌襦袢になった妙子が横たわって居るのが見えた。
秀敏のどことなく躊躇いがちの思考がとまり、長い禁欲生活から解き放された欲情が生きもののように全身を駆け巡り、動悸だけが頭の中で鳴り響いた。
秀敏は妙子に添い寝をするように横になり、「妙ちゃん」とかすれ声で言いながら、その身体をそっと抱きしめた。
妙子はもどかしげに秀敏のシャツのボタンを外し、手荒く剥がすように脱がせると肌身に爪を立てるようにしがみついてきた。
ふたりとも無言のまま衣服をむしり取るようにすると、確かめ合うかのように互いの肌をかき抱いた。
「逢いたかった」秀敏がつぶやくように言うと、妙子はその両頬をはさみ持ち、そっと唇を寄せ「わたしもよ・・・・」応えたが、その眼には常夜灯の薄明かりの中に小さく光る涙が浮かんでいた。

 

                                  

いとなみは、途中から貪り合うような激しいものになった。
妙子はむさぼるようにもとめ続け、秀敏は自分でも予期しないような激しさでそれに応えた。底の見えない愛欲の深みに落ちて行ったのは、歳月の空白がもたらした渇きと、二人のさだめない行末が指し示している不安のせいだったかも知れない。
秀敏も妙子も、人知れず心の中に抱えるその空虚を、相手から奪うもので満たそうと、身もだえていた。
終戦直後、妙子とその両親に絶望し、どこにも寄る術もなく白神一家に身を寄せた秀敏だったが、三下奴の身であっても女の味はそこそこ知った。しかし、昭和24年暮れに心身を鍛えるためにと至誠館に身を置くようになってからというもの、己の欲望のすべてを封印するような歳月を送ってきた秀敏にとって、妙子の濃密な接し方は想像もできないものだった。 
妙子は終戦とともに進駐してきた米軍黒人兵数名から陵辱を受けた。
16歳にしてまだ未開花の花心を踏みにじられたのである。
その難儀をいたわってくれた日系二世の米兵と、2年ほどの結婚生活を送り、離婚後浅草に流れ花柳界に身を置いたことはすでに述べた。
芸子時代の妙子が成熟した女として否応なしに磨かれたのが、秀敏とも因縁の深い鬼塚義城に囲われたことに寄るだろう。そして秀敏と再会することによって、その魔手から逃れるようにして横浜に逃げ帰ってきた。
それから孤閨を守っての5年間は、独り身を揉むほどの寂しさと、いつ会えるかも定かではない秀敏の面影を追い求め続ける孤独の時間でもあったのだ。
だから満たされながらも、どこかしら苦行を思わせる時の流れであった。
妙子は幾度も闇に裸の手を這わせた。それはおのれを深く満たしつつあるものの存在を確かめているかのようだった。
そして、あくことのない長い抱擁のあとについに満たされたことを告げる叫びを洩らしたときも、その声は苦行の成就を告げる苦痛をふくんでいなかったとは言えない。
妙子は、秀敏が身体をはなして横になると、ふと我を取り戻したかのように、常夜灯の薄ぼんやりとした明るみに眼をこらした。
その灯りの中に秀敏を見極めると、そっと体を寄せ秀敏の胸に顔を寄せ、静かな呼吸を繰り返した。

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続・続 人間機雷 378 

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(14)


酔い覚めの喉を潤す冷酒はおいしかった。


妙子が庇護を受けていた鬼塚の怒り狂った怒声に、秀敏の後を追うようにして浅草を出奔した後、その尻拭いのため小津政吉が一肌脱いだことなど、秀敏はもちろんのこと妙子でさえ知るよしもないが、そのときの政吉の押さえがなかったら、あるいは横浜の“あいざわ”でさえ安息の地にはならなかったかもしれない。
その夜、二人が一夜のねぐらと決めたのは、東ヶ丘からほど近い野毛坂の成田山横浜別院の裏参道になっている路地にある旅荘“野毛坂”である。このあたりは戦前からそのまま残っているような古びた連れ込み旅館街だった。

この宿の女将であろうか夜更けであるというのに、きちんと和装で真っ白な髪を一筋も乱れないひっつめ頭にした老婆が、穏やかな笑顔で奥まった部屋に案内した。他に泊まり客の気配はない。

                   
玄関は古びた感じだが、部屋はこぎれいだった。
茶道具と茶請けの菓子をのせた盆を座卓にのせると、「ゆっくりなさいまし」と下がっていった。
妙子はホッとしたような顔で秀敏の顔を見ると「お茶飲む?」と消え入りそうな声で聞いた。
「あゝ」と秀は素っ気なく答えたが、酔い覚めと言うよりは、思わぬ成り行きに喉がカラカラだったから、冷めた渋いだけの番茶がおいしかった。
二人が初めて肌を合わせたのは、小津政吉の五代目襲名の祝賀金を、白神一家の親分名代で届けに行き、小津組からの謝礼の祝宴で偶然にも顔を合わせたその夜だった。 
  秀敏が白神一家でヤクザの道を歩み始め5年が経った23歳、愛沢妙子が生まれ育った横浜を出て浅草に流れ、菊弥という芸名で花柳界で名前が売り始めたのが22歳だった。昭和26年4月のことである。
それからもう5年が経っている。季節もちょうど桜の花が散り始める今ごろだった。
秀敏が白神一家の先代組長からの特別の許しを受け、国難のために身を投じるために武技錬磨に至誠館での修行に没頭したのは、妙子への慕情を断ち切るためもあった。
昭和29年には山梨の塩山・雲峰寺で剣の道ばかりでなく、国士としての覚悟を高めようと、昭和最後の剣聖と言われている臨済宗妙心寺派の重鎮小笠原月心老師に教えを求めて俗世界を投げ捨てたような、禁欲の世界に身を投じてきたのである。


挨拶に出向いた野毛の白神一家の若頭、武井国松の誘いのままに、両親が営む小料理屋「あいざわ」にきたのも、忘却の彼方に押しやっていた妙子にこころ引かれてのことであった。
こうなってみると本物の国士たらんとした己の覚悟のほどが、なんと脆弱なものかと忸怩たる思いが胸をよぎる。
これでは妙子と結ばれた5年前、生死の覚悟をともにした予科練時代の戦友たちの思い出の中で、安易に結婚などと言う甘美な思いにこころ動かしているおのれが許せず、妙子の気持ちも考えず一方的に断ち切ってしまったあの時と何ら変わらないではないか。

飲み干した茶碗の底を見つめながら、過ぎ去ったその歳月の流れをたどっていた秀敏に「秀ちゃんきて」と恥じらいながらも帯をとき肌襦袢になった妙子が、横たわるとと聴き取れないほどの小声でいった。
秀敏のすべての思考が止まった。

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続・続 人間機雷  377

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(13) 


 「深味にはまっちゃいけない・・・・なんて、どうしてそんな他人行儀なことが言えるの?悲しくなるからそんな言い方やめてよ。ずっと前にも言ったけど、ママゴト遊びをしている頃から“私は秀ちゃんのお嫁さんになるんだ”ってずっと思っていたの。だから秀ちゃんが予科練に志願して出征したときは、本当に悲しくって何日も泣き暮らしていたのよ。戦争が終わってあの焼跡で、秀ちゃんに会えたときのうれしさは、誰にも分かってもらえないほどだった。あの時にも子供じみていたかもしれないけど“運命の赤い糸”は切れていなかったって、それはそれは有頂天になるぐらい嬉しかったの」
「そうだったよなあ。突然の敗戦で予科練を放り出され、家に帰ってみれば跡形もなくなっていた。そんななかで身も心もボロボロだった俺が、かすかな希望の灯らしきものを感じたのは妙ちゃんに会えたからだった。それまで死ぬことだけを考えていた俺が、生きていて良かったと思ったのもそのときだよ」
「でも、神様はとんでもない意地悪をしたわ・・・・私がたどってきた人生のあらましは秀敏さんも知っているでしょ」
「もうそのことは言っちゃあいけないよ。過ぎたことだから」
「でもね二度と秀ちゃんとは会えないと思って生きていたのに、浅草 で巡り会うことができたのは、きっと神様がそんな私を憐れんでくれたのだと今でも思っているの」
声を詰まらせ泣きじゃくる妙子は、もう二度と離さないとでもいうように必死の力を込めて秀敏にしがみついた。


「だから今度逢うことができたら、どんなことがあっても秀ちゃんについていこうと心に決めていたの。お父ちゃんもお母さんもわたしの過去を知っているから、わたしを幸せにしてくれるのは秀敏さんだけだと、思っているのよ。泊まっていって欲しいのは私だけでなくって、両親の思いでもあるのよ」
「それは俺にも分かるような気がするし、妙ちゃんと結婚して、ご両親を安心させてあげたいとこころから思っている。でもそれにはもうすこし時間が欲しいんだよ。いまはまだ身の処し方も定まっていない風来坊のような俺なんだ。国松はさんに連れられて妙ちゃんやご両親に会えたのも、今月初めに殺された浅草の恩義ある方の葬儀のために、甲州の山を下りてきたことがきっかけだった」
「浅草の恩義ある方ってどなたかしら」

 

 

「そうか、妙ちゃんは浅草が長かったんだよなあ。浅草に縄張りを持つ老舗の一家、小津組の五代目小津政吉さんて方なんだけど、おれが白神一家にゲソ付けしたばかりの頃からの縁があって、その後もいろいろとお世話になった方なんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。いま小津さんが殺されたっていったの!」
妙子が叫ぶように言った。
「そうだけど、浅草小津組の五代目小津政吉さん」
「信じられない」
「妙ちゃんは“浅草妙清寺事件”って新聞で見たことないかい?」
「知らない」                                               
「同じ組の兄弟分が親分の葬儀の席で、殺し合いをした事件だけど、その事件に関わったとして、どちらかの残党に殺されたんだろうと警察も推測してるらしいけど、まだ犯人も捕まってないんだよ。ところで妙ちゃんと小津さんはどんなつながりなんだ」
「つながりなんてものじゃない。浅草の花柳界はずっと前から何かにつけて小津組の庇護を受けていたらしいわ。先代が戦死してから、一時は小津組も看板を下ろしていたけど、昭和26年に政吉親分が五代目を襲名し、小津組が再興してからは、昔からのしきたりが復活したばかりなのよ。稼業のひととは思えない温和な方で、先輩姐さんたちの人気者だった。わたしも駆け出しの頃から何度かお座敷に呼んで頂いたし、秀敏さんと偶然会えたのも小津組の宴会場だったゃない。信じられない・・・あの政吉親分が殺されたなんて」
「奇しき縁だなあ。ふたりとも政吉さんのお世話になってきたなんて」
「ほんとにそうだわ。秀ちゃん政吉さんの冥福のため献杯しましょ」
「そうだな」
一度は片づけた一升瓶から、湯飲み茶碗に注いだ酒を掲げると「政吉さんに献杯」小声で唱え一気にあおった。

                                                                      続 

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続・続 人間機雷  376

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(12)


 4月も終わろうとしているが、咲き残った桜の花びらが、妙子の髪に舞い落ちてきた。
フト我に返ったように「妙ちゃん、中にはいろうか」と秀敏が言った。
「待って、もう少しこうしていたいの」
妙子はそう言うと、秀敏の首に巻いた手に力を込め、唇をもとめてきた。
柔らかく湿った唇に言葉を奪われながら、秀敏は遠い昔に忘れてきたような懐かしく切ない想い出に包まれたが、それがいつのことだったかさえ思い出せなかった。
この夜更けに水面を覆い隠すほどの夜霧の中を、出航する外国航路の船があるのだろうか、遠くに霧笛が意外なほど大きく、数度にわたって聞こえてきた。


その音にうながされるように、二人が店に戻ると良三と母親の千惠は後片付けに大わらわだった。
「お母さんごめんなさい。父ちゃんもご苦労様でした。後は私がやるからもう休んでください」                                       
 「突然お伺いしご迷惑お掛けしました。お父さんにもご造作お掛けしました。自分も手伝って片付けますから、どうぞお休みになってください」
「いいのよ。そんなことより妙子は、秀敏さんとつもる話があるんじゃないの」
「ほんまにそうやって。 片付けなんてどうでもええから、二階に上がって一服したらどないどすか。国松さんのお付き合いで気疲れしたやろう。ええ人やけどくどいさかい」
「とんでもない。あのお方たのおかげで、こうして皆さんにもお目にかかれました。ご亭主やお女将さんにこそ、ご迷惑お掛けして申し訳ありません」
「そないな他人行儀なことは言わへんどぉくれやす。大事な息子やとほんまに思てるんどすさかい」
その言葉は昭和20年、突然の敗戦という混乱のなか、横須賀伏龍特別攻撃隊から復員した17歳で秀敏を、実の親のように迎えてくれたときと同じだった。
それから10年、世間の荒波にもまれた秀敏にとっては、心にしみこむような暖かさを感じたのは、沼津に疎開したままの両親や、幼い姉弟とはいまだに絶縁状態のままであるさみしさも手伝ってのことだろう。
店の片付けがすべておわったのは夜半過ぎだった。
「今夜は泊まっていっとぉくれやす」
「そうよ秀敏さん。妙子からもお願いしなさい。わたしたち先に休むわね」
良三夫婦はそう言うと、一階の居間に続いた寝間に引きあげていった。


「秀ちゃん、泊まっていくでしょう」
二人だけになった店の客卓で、肩を並べて座った妙子が、すがるようなまなざしで秀敏を見つめながら言った。

 

 

「それではあまりにも無遠慮過ぎるだろ。今夜は帰るよ。山梨に帰るのは少し先に延ばすから、明日にでもゆっくりと逢おうよ」
「じゃ今夜はどこに泊まるつもりなの」
「俺が横浜にいるときは至誠館という道場を、根城にしていることは知っているんだろう。その近くに寄宿舎のような宿泊施設があって、内弟子の何人かはそこに寝泊まりしているんだ。俺の仮住まいもその中の一室さ。それもこれも至誠館の創設者、妙ちゃんにも話したことのある菅井欽一さんの好意によるものなのだよ」
「思い出したわ、菅井さんて港湾荷役業の菅井組の社長さんでしょ」
「そうだよ」
「こんなこと言っていいのかどうか分からないけど、その人がらみの事件で秀ちゃんが大変なことになっているってことも知ってるのよ」
「えっ、なんで、なんで妙ちゃんがそんなことまで知ってるんだ」
「私の一番大事な人のことだから、なんでも知ってるのよ」
「誰がそんなことを妙ちゃんに言うんだ」
「それは明かせないわ。でもねその人に言われたの。秀ちゃんを追いかけると苦労するって」
「そうかもしれない。今日ねここに来て妙ちゃんの働いている姿を見たら、妙ちゃんの本当の幸せは、ご両親に育まれながらなんでもない平穏な暮らしの中にあるんじゃないかってね。国松さんが言っていたように、これからの自分は大半の人には理解されない生き方だと思う。どなたの助言か分からないけど、この大井秀敏に安寧な幸せをもとめても、叶えられないかもしれない。妙ちゃんのことは大好きだし、最愛の人だと思っている。だからこそ・・・・好きだからこそこれ以上の深みにはまってはいけないのかもしれないという迷いがあるんだ」
そう言いながらも心のどこかで言葉が虚ろうのを感じた。
それがなぜなのかは分からなかった。
                                                                  続 

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続・続 人間機雷 375 

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(11)


「ガキじゃああるまいし、オメエたちに手を引かれなくたって帰えれるぜ。そんなことよりこっちえ来て一杯えのみな。今夜はなあ、めでたさが半分と俺の悲しさが半分の酒盛りなんだ。まあ、お前らに言っても分かるめえがな。さあ飲め」
「せっかくのお言葉ですが、親分が心配して東ヶ丘の“あいざわ”にいるはずだから迎えに行ってこいって言われたものですから、頭をお送りしたら親分に報告しに戻ります。お酒を頂くのは次の機会にして頂きます」
「そう固えこと言うな。この俺が飲めって言ってるんだよ」
「頭、すいません。赤い顔して親分の元に行けません。勘弁してください」
「てめえ、この俺が言うことを聞けねえのか」
といいざま一升瓶を逆手に持つと、鮫島の頭めがけて振り下ろそうとした。
その手を秀敏が間一髪でつかんだ。

 

                            
 

「国松さんこらえてください。鮫島さんお迎えご苦労様です。自分が責任を持ってお送りしますから後は任せてください」
「おい!こら!テメエいまなんていった。頭のことを国松さんだと!いつからそんな口聞けるようになったんだよ。この半端ヤクザが!先代や五代目から少しばかりかわいがられたからって、なめた口きいてんじゃあねえぞ。馬鹿野郎が!」
「鮫島さんすいません」
「わかんねえ野郎だな。この俺をつかまえて“鮫島さん”だと!テメエたち若衆の頭を務めてるんだよ!口のききようがあるだろう」
「すいません」
「おい、鮫島。そのくれえにしとかねえか。大井もなあ身体半分は身内だが、後の半分は先代のお墨付きの国士様なんだ。一朝なにかあるときにゃ命を的に突っ込んでいくんだ。俺たちが白神の看板のために命を張るように、大井は国のために命を張ろうてんだよ。見上げたもんじゃあねえか。おっと、今この席にやふさわしくねえ話だったな。ごめんな妙ちゃん」


「国松さんいいんです。この人が何を考えて何をしようとしているのか、分かっているつもりです。というよりは秀敏さんのことを好きになった以上、覚悟してます」
「なんかよお、オメエらの話聞いてると戦時中の夫婦みてえだな。秀敏やっぱり妙ちゃんはてえしたもんだ。お前さんにはピッタリだぜ」
「それに鮫島よ。雑巾がけからたたき上げてきたオメエにしてみれば、腹に据えかねることもあろうとも思うが、若衆頭として束ねていくにゃあ度量も必要だぜ」
「わかりました。親分が心配なさっているのは、またぞろ中華街あたりがウチのシマを狙って、ごそごそしてやがるもんですから、若頭の身に何かあったらってこともあります」
「まあ、そんな話はこの席にはふさわしくねえ。秀敏も親父さんもいまの話は忘れてくれ。ということで今夜はこれでお開きとしよう。親分が差し向けてくれた鮫島の顔を立てておとなしく帰えることにするよ」
「親父さん今夜はうまい酒飲んだよ。ありがとうよ」
懐から出した分厚い財布を良三の前に放り出し
「これで足りなかったら今度のときに言ってくれ」
と席を立った。


「今夜はわてのおごりと言ったやおまへんか!無粋なまねせんというおくれやす」とわめきながら財布を返そうとする良三を押しのけて出て行った。
その国松を送って出た秀敏に「秀敏、妙ちゃんを泣かすんじゃあねえよ」と真顔で言うと車に乗り込んだ。
テールランプが見えなくなるまで見送った秀敏が、“あいざわ”に戻ろうとすると、いつの間にか店の外に出た妙子が、身体をぶっつけるようにして抱きついてきた。
秀敏はその肩を強く抱いた。
ほのかな酒の香りと妙子から漂う甘い匂いが、和服の襟元から立ち上ってきた。
「逢いたかった」
「俺もさ」
後は言葉にならない二人だった。

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続・続 人間機雷 374 

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(10)


卓をつなげ席を作ると、良三はのりきらないほどの料理を作って並べた。
若い頃には京料理の老舗で修行したというだけあって、素材は簡素でも心を込めた品々がその夜の酒席を盛り上げた。
白魚の卵とじや韮の味噌和えなどの小鉢の他、今が旬の蛤鍋や嫁菜を添えた鱒の味噌漬は数日前から仕込んだものだろう。別の大皿には薬味をのせた鰹の刺身がある。
「よお、親父さんもう料理はいいから、こっちにきて一緒に飲もうぜ。酒もいちいちお燗なんていらねえから、一升瓶ごとここえ並べちまいな。今夜は実に楽しい。けどな俺にとっちゃあ片思いの終幕さ。なあ妙ちやん」
「国松さんはお姉ちゃん目当てで来てたんでしょ。ちゃんと知ってんだから」
「馬鹿言うなよ。俺はねえここの親父さんの作る料理が好きで、通ってきてたんだよ。それにわざわざ灘から仕入れてるって言う酒の虜だったのさ。本当だよ。だけど美子ちゃんが注いでくれる酒はうまかったなあ。いやいや、妙ちゃんが注いでくれた酒はもっとうまかったけどな。それも今夜を限りにあきらめるぜ。秀敏と恋の鞘当てなんざあしたくねえしよ。やい!秀敏!てめえこの野郎!妙ちゃんを泣かしたらこの俺が許さねえから覚えとけ」
「分かりました。この命ある限り妙ちゃんを大事にします」
「おお、命ある限りとでたか。そりゃそうだ、死んじまったらそれまでだもんな。妙ちゃん聞いたかい。生きてる限り愛し続けてくれるそうだぜ。そのセリフ。この俺が証人だ」
酔いの回った国松が、体をゆらゆらさせながら見得を切った。
「この男はウチにも居る予科練帰りの中でも、腹の据わったヤツでねえ、やる事なす事いまに居ねえ快男児なんだよ。戦争はとっくに終わったというのに、未だにお国のためなら命をまとに戦いますなんて時代遅れなことを言ってやがる。先代の松岡菊治親分がそんな秀敏のためにって、白神一家の守り刀とも言うべき“國廣”を贈ったんだよ。そのくれえの男だからヤクザの世界に朽ちせるのはもったいねえと、先代が修行の旅へ追いやったんだな。そんでいまは山梨の山奥で武者修行なのさ。いましばらくは山からも下りられねえかもしれないが妙ちゃん待ってやってくれよ。親父さんも女将さんもそのあたりは分かってやってくれ。さっき此奴が“不実な男とさげすんでいたろうね”なんて言ってやがったが、不実でも何で寝ねえ、男の生きる様からの食い違いなのさ」
何のことはない、この国松の弁明で秀敏が心の中に引っかかった、命ある限りにおいてと言う命題は妙子には分かってもらえたかもしれない。
この夜白神一家若頭武井国松の独壇場だった。

看板を消し暖簾をしまった“あいざわ”であるが、明かりは表に漏れ活気ある声が表に漏れているものだから、何人かの客が扉をガタガタさせたり、声をかけたりしていたが、それもやがてやんだころ、「すいません。白神のものですが、若頭を迎えに来ました」と声がかかった。
「おぉ、ウチのもんだ。すまねえが開けてやってくれ」
妙子が鍵を開けると三人の男が立っていた。
若者頭の鮫島登が二人の若衆を連れ、車まで迎えに来たのだ。
鮫島は秀敏の兄貴分に当たる。
「頭、遅くまでご苦労様です」
鮫島が両手を膝頭に置き、深々と頭を下げ慇懃に言った。
二人の若衆もそれに習った。
                                                    
                                        続 
                              
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続・続 人間機雷  373

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(9)

 

「国松さん、本当にありがとうございました。ひとりではここに来られる勇気もなかったです」
「そうだろうと思ったから、こうやって引っ張ってきてやったんじゃあねえか。全くだらしねえ男だなあ。ぼーっと突っ立っていないでなんか言ったらどうなんだい。えっ、秀敏ちゃん」
「妙ちゃん。不実な男とさげすんでいたろうね。申し訳なかった。許してくれ」
妙子に向かって頭を下げた秀敏が、ぎこちなく言った。
「不実なんて・・・・思っているわけないじゃない。ズーッと待ってたわ」
唇をかみしめ、涙をためた眼で秀敏を見つめながら言った。
「本当にすまなかった」
「いいの。こうしてまた会えたんだから。国松さん本当にありがとうございました」
「言っただろ。必ず俺が連れてきてやるって。特にかわいい女の子の頼みとあっては、おとこ国松は死んでも約束を守ります」
これが横浜野毛に根を張り、敵対する中華街ヤクザをしっかりと押さえ込みながら、多摩川からこっち川崎までも縄張りに納める、関東白神一家のナンバー2は思えぬほどにひょうけてみせた。


「よお、親父冷やで一杯くれや。俺まで興奮しちまって喉が渇いたぜ」
大ぶりの湯飲みになみなみと注がれた日本酒を一気に飲み干すと、「親父もなんか一言挨拶はねぇのかよ」と矛先を変えた。

「秀敏君、沼津から帰ってきてくれたとき、あんないけずな仕打ちをしてほんまに申し訳あらへん。一番に悪かったのはワシやがな。ゆるしてな。ほんまのこと言うとこの店を秀敏君に継いでもろたらええと思っていたんよ。ほんまやで」
親父の良三はかぶり物ものをとると、それを両手で揉みしだきながら秀敏に言った。
「親父さん。何をおっしゃいます。大概のことは妙ちゃんから聞きました。当時の親父さんの苦しい胸の内も分かっているつもりです」
「そないにゆうてくれはったら、長いこと胸につかえてたことが、のうなりますがな。ほへんまおおきにだっせ秀敏はん。妙子にもワシのおかげでほんま可哀想なことした。妙子も許してな」
「お父ちゃん。許してだなんて・・・・私こそいろいろ心配かけて悪かったわ」
妙子がたまりかねたように、嗚咽に途切れそうになりがらいった。

 

                                    
                                       
「親父さん。今夜はこの国松の貸し切りにしてくれねえか。それぞれが積もる話もあるだろうし、だいいち肝心の秀坊主と妙ちゃんの劇的な再会の盛り上がりが済んでねえ。どうだい、看板消して暖簾をしまい込んでじっくりとやろうじゃねえか」
「お父さんそうしましょ。10年前の夜のやり直しよ」と女将が声を弾ませた。
「国松さん。今夜はわてのおごりや。貸し切りだなんて水くさいこと言わんといて、大いに飲みましょ。妙子もそれでええよな」
良三が気を取り直したように言った。
「ええ」
地味な和服に割烹着姿の妙子が、目を潤まして秀敏を凝視しながら小さく頷いた。浅草で再会したときから6年。化粧気もない妙子は秀敏をして、近寄りがたいほどの清楚な美しさを漂わせている。
それは幼きころかくれんぼや缶蹴りをして遊んだ頃、妙子のようだった。
歳月が妙子のうえを過ぎ去っていき、忌まわしい過去すべてを洗い流し、純朴な幼女時代に蘇らせたのかもしれない。
                 
                                                                     続 

                                                   次回3月2日
 

続・続 人間機雷  372

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(8)

 

「おお、大迷惑だ。迷惑ついでに今夜俺と“あいざわ”につきあってくれ。いやとはいわせねえぞ」
白神一家の若頭武井国松の突然の強要が、秀敏のなかに呼び覚ましたのは、六年前に封印したはずの妙子に対する恋慕の情だった。
                                       
東ヶ丘の住宅街にある小料理屋『あいざわ』は、昔日のままの佇まいであった。
昭和20年9月20日、予科練から復員したばかりの秀敏を、実の親のように歓待してくれたのも、その年の12月に実家の疎開先沼津から戻ったとき、待っていてくれるはずの妙子の姿はなく“落ち着いたらこの店で修行したらええがな”と言っていた父親の良三の手のひらを返すような冷ややかな対応に、怒りと悲嘆にくれながら飛び出したのも、この小さな店が舞台だった。


予科練での約2年間、皇国を守らんがために、死ぬことだけをたたき込まれ、明日の出撃で果てる命を心待ちにしていたような大井秀敏17歳の青春は、かって日本が経験したことのない敗戦という一大混乱の中で、考えてもみなかった曲折に巻き込まれ、激流のごとく流れ去る歳月に押し流されながら、数奇ともいえる人生が始まった。
それから10年の歳月が経っていることを、我知らず思わざるを得ない“あいざわ”の暖簾であった。

 

 

それを目にしたとたんに秀敏の胸は、胸を突き破って周りに聞こえるのではないかと言うほどに高鳴り、顔が一気にほてった。
妙子には二度と会うまいと心に決めながらも、二人の縁は途切れることはなかったことに因縁をかんじる。
タクシーから降り立った関東白神一家若頭武井国松は、そんな秀敏の心中も知らぬげに、暖簾をはねのけ引き戸を勢いよく開けると、顔だけを突っ込み“はい、こんばんわ”“国松さんのお出ましだよぉ”と大きな声で言った。


「いらっしゃいまし」
「あら、もうずいぶん飲んできたんですか。ご機嫌ですね」
「顔だけ覗かせていないで、こちらにお掛けください。さあ、どうぞ」
開店したばかりなのか、待ちかねたように国松を迎える弾んだ声が聞こえる。
「こんやは一人じゃねぇんだよ。連れがいるんだ」
「まあ、珍しいじゃないですか。お連れさまがいらっしゃるなんて」

「よお、何をモジモジしてんだよ。はやくへえってきな」といいながら外に出た国松が、秀敏の背を押すようにして入り直すと、後ろ手に引き戸を閉めた。
秀敏を見て亭主の良三も、女将の千恵も、そして妙子も一瞬あっけにられたように表情が固まってしまった。
三人の顔を見回してから、深々と頭を下げた。
「お久しぶりです。皆さんおかわりもなく・・・・」
「ばかやろう!何が皆さんおかわりもなくだよ。気取ってるんじゃあねえ」
「おい、妙ちゃん。恋しい恋しい秀ちゃんを、約束通り連れてきてやったぜ。あらあら、顔を真っ赤にした鳩が豆鉄砲食らったような顔してねえで“会いたかったわ”とか“待ってたのよ”とか言ったらどうなんだい。全く張り合いがねえよな。秀坊主もそうだよ。妙ちゃんの手を握って“待たせて悪かったな”“いまでも愛してるぜ”ぐらいのことを言えねぇのかよ。俺はねえそんな活動写真のような場面を見たくって、脇役に回ってるんだよ」
と言いながらも国松は楽しげであった。
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続・続 人間機雷 371

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ
1 情縁(7) 


白神一家の木村京介から浅草小津組の小津政吉に宛てた手紙を懐にした秀敏は、浅草に戻ろうと桜木町駅に向かった。
上りの列車が出発するまで1時間ほど間がある。
所在なく雑踏の中にたたずんでいるとき、なぜかそのなかに6年前の自分の姿を見た。
予科練で支給された夏服に戦闘帽を被り、大きな背嚢を背負っている。
まだ晩秋には間があるというのに、心の中には木枯らしのような冷たい風が吹き荒び、歯の根も合わないほどの戦慄に全身が震えた。
太平洋戦争の末期、戦況の危惧の中で天皇陛下のため、御国のための志士になろうと予科練に志願し、燃えるこころを秘めて三重航空隊に旅立ったのもこの桜木町駅だった。
それから一年に満たない間に、思いもよらない敗戦を迎えた。
数ヶ月後、昭和20年9月20日横須賀鎮守の伏龍隊から復員した時、駅頭から見た横浜の町はあまりにも変わり果て、瓦礫が敷き詰められたなか鉄骨の無残な骨組みだけが灰色の空虚をつかもうと伸ばした骸骨の手のように所々に見えるだけだった。
住み慣れた横浜の町からどこか知らない廃墟の中に放り出されたような錯覚があった。
焼け焦げのにおいの残るなかを、安否もわからない伊勢佐木町の生家を目指して歩き始めた。
「死んで護国の盾となります」と誓った自分が生きて帰ってきたことをはずかしむこころが胸の中にどっしりと重く横たわり、そのささくれが17歳の少年の心を突き刺さす。
雑踏の中に見た自分の姿は老人のように背を丸め、足取りも重かった。

                        

あれから6年たち焼け野原に新しい建物が建ち始めても、桜木町の駅舎は当時のままくすんでいる。
雑踏の中に見た自分の姿が人混みの中に消えたとき、伏龍隊の訓練中に死んでいった戦友達の顔が走馬燈のように浮かんでは消えたが、仲のよかった磯部俊介の面影はいつまでも消えない。
「教官、この蛸どもが絡みついて離れません」
などと言いながら訓練中に捕った蛸を手首に巻きつけ、上陸してきたことが何度もあった。
磯部は蛸とりの名人だった。
「ずいぶんタコに好かれたものだなあ」
若い予備役の教官は苦笑いをしながら生唾を飲み込んだものだ。
焼いて食べる楽しみを幾度となく味わっている。 
いつもお腹を減らしている少年兵達や教官にとって、浜辺で焼いて食べる蛸のうまさはこたえられなかった。
その日訓練が終わっても磯部はなかなか上陸してこない。
隊員達は鉛を仕込んだわらじを引きずりながら、海岸に向かって歩いてきそうな気がして、帰営の命令まで暮れなずむ野比の海岸で待ち続けていが、とうとう帰った来なかった。
いまでもあいつは野比の海底に潜んで蛸を捕っているのだろうか・・・・秀敏のほほに一筋の涙が流れた。
その想い出の一コマ一コマが妙子との別れを決意させたのである。
                                                 
義憤に駆られて恩義ある菅井義一のためにと犯したのが『横浜港連続殺人事件』であり、憂国の志を果たさんために命がけで武技の鍛錬に臨んだのが『至誠館』であった。その決意を知り白神一家四代目松岡菊治が銘刀『國廣』を惜しげも無く贈ってくれたのには“お前の一命に代えてもこの国の行く末を頼むぞ”という死期を悟った彼の遺言であったに違いない。それは鬼塚義城が己の勢力拡充のために、殺人犯の無罪放免と引き換えに右翼団体『新生塾』の塾生に縛り付けようとした経緯とは全く異質のものであった。そのがんじがらめの束縛から解き放してくれたのが、至誠館館長である黒崎軍三や銀座HOLLYWOODの秋山柾充郎であり、その秋山征充郎のすすめで大菩薩峠の麓にある『雲峰寺』での修行三昧の日々が始まったのだ。

                                                                 続 

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続・続 人間機雷 370

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ
1 情縁(6)
 


「洗いざらい話したんじゃないの?」
「秀ちゃんが命をかけて戦おうとしていたアメリカ兵と結婚したうえ捨てられて、芸者に身を落としてるだけでも恥ずかしかったのに、金で身体を許しているダンナがいるなんて言えなかった。ましてはじめて身体をあわせた後は、その人のことは言えなかった・・・・」
「お母さんも知らなかったわ・・・・そんなダンナさんがいたなんて。置屋の女将には迷惑かからないの?」
 「浅草のお母さんのスポンサーでもあるから、関わりは出てくると思うの・・・・」
「そんなことよりダンナという人の存在も、洗いざらい打ち明けた方がいいと思うわ。妙ちゃんの気持ちも分かるけど、そこまで話しても秀ちゃんの気持ちが変わらないのなら本物だもの・・・・お姉さんはそう思うな」
「いまはただ秀ちゃんを失いたくないの」

 

 

「分かるわよ・・・・その気持ち。やっと人並みの幸せがこようとしているんだものね」
美子は目頭をおさえて言った。
「でもね、そうであけばあるほどすべてを打ち明けるべきだと思うわ、そうじゃないお母さん」
「お母さんだったら美子の言うようにするわ。大丈夫よ。秀ちゃん子供の頃から知ってるけど一途で真面目な子だったもの。そんなことで彼の気持ちが変わるとは思えないなあ」
「その一途で真面目なところが怖いの・・・・ひどく傷つけそうな気がして」


その頃、秀敏は菅井組の応接間で菅井欽一と話をしていた。
「浅草土産にしては粋な話だねえ。一夜で幼なじみと恋に落ちて、嫁さんにしたいなんて小説に出てきそうな話だ。浅草に行って良かったじゃないか。オレの方はそんなおめでたい話を聞くのに腰掛けるつもりはないけど、白神の木村さんにには木村さんなりの考えもあるだろうから、いまんところ手放しで祝うこともなあ・・・・と菅井欽一は言ったものである。


しかし、秀敏が横浜連続殺人事件の被疑者であることや、黒白がまだはっきりしていない立場であることも話はしてないことを知った欽一は「5人も殺してんだ。間違いなく死刑か良くても一生高い塀の中から出てこれねえ。龍王寺の話に乗っても、厳しい言い方だけど赤狩りの犬みたいな生活が待ってるだけのお前さんだろ・・・・独り身だったらどちらに転んでも、自分の信じる道を突っ走ってきゃあいいんだろうが、女と二人連れじゃあ越えられねえ山坂もあるんじゃあねえのかなあ。惚れた女に苦労させたくないんなら、懐に抱え込むのは考え物だな。ようは修羅道の底をのたうち回って生きていくことになるお前さんに、それでもついて行くって覚悟がその彼女にもあるかってことだ。だから肝心なことを言わずに先に進んじゃいけねえような気がする」と言ったことに、「少しばかり熱くなりすぎてました・・・・辛い人生を歩んできたこの女を、オレが幸せにしてやらなきゃあ思ってのことだったんですけど、冷静に考えてみればオレはとんでもない爆弾を背負って生きてるんですよね」とうなだれた秀敏のこころの中の色合いが消え、モノトーンの荒涼とした原野を、寒々とした風が吹き抜けていくのを感じたものである。
白神一家五代目木村京介を訪ねすべてを打ち明けたのだが「俺には異存はネエよ。めでてえ話じゃネエか・・・・で、俺に何か出来ることはあるかい」と今は直系から外れたところに居る秀敏に温情をみせたが、木村は「ところで先代から譲られた“國廣”の魂は忘れていねえだろうな」
「はい、胸に刻み込んでいます」
 そうかい・・・・それなら良いが、といった木村京介の口元に苦みが過ぎった。 

          

そして「先代が“日本のために死のうって大井の心意気へのはなむけだ”と言っていた裏側にある思いをくみ取らなきゃあいけねえ。沢山の人間をバラしたお前が日本のために死のうって大義名分を遂げる前に、殺人犯としてサツに追われることになっちまったが、例えそうなろうとも“國廣”の魂に恥じぬ生き方をしろっていう親分の思いがこもっていたに違いねえ・・・・」と言葉を継いだものである。                                            
                                                                               続 

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