続・続 人間機雷 369
第七章 蒼穹遙か
一 巨星落つ
1 情縁(5)
6年ぶりに再会した秀敏との、飽くことを知らななかった一夜の情事の温もりに、身を包んだ妙子を待っていたのは、すごい剣幕で怒鳴り込んできた鬼塚義城のだみ声や、平身低頭して謝り続ける女将律子の泣き出しそうな声であった。
その鬼塚の怒声に追い立てられるようにして、身の回りの荷物を風呂敷にくるむと勝手口から飛び出し、“秀ちゃんのところに行こう”と思い定め電車に飛び乗ったのが5年前である。
鬼塚の荒々しい情事はこころの通わぬ野獣にのし掛かれたようでもあり、時には冷血な大蛇に絡みつかれているように、執ようで凶悪であった。
抱かれるたびに妙子の心身を蹂躙した黒人兵を思い出させ、その恐怖心から喜びも快感もなく、恐れは悲しみに変わるのだ。
それにくらべ5年前に別れた前夫ウイリアムとの、ただ優しいだけとも違う秀敏との情事は、身も心もとろけるようだった。
下腹部からの残滓だけが妙子のこころを温めてくれのを感じながら、この夜はじめて心の通った性の喜びを知ったとも言える。
“松乃屋”を飛び出しても、妙子の帰るところは東ヶ丘の小料理店“あいざわ”しかない。
突然の帰宅に、父親の良三も母親の千恵も姉の美子も驚きはしたが、薄幸な道をたどっているような妙子を、壊れ物を手で包むようにして迎えてくれたものである。
母親と美子は「何かあったの」と聞いてきた。
そこで大井秀敏と再会をしたことをこくはくしたのである。
「秀ちゃんに会ったの」
「えっ、秀ちゃんて大井君?あの予科練帰りの?」
「そうよ。お座敷で・・・・」
「お座敷って・・・・秀敏さんは浅草にいるの?」
「横浜よ。海岸通りに近いところに・・・・」
「最後にあったのは家に尋ねてきてくれたときだったわねえ・・・・あのときは可哀想だったわ。飛び出すようにこの家を出て行ってそれきり・・・・」
と姉の美子は哀れみを言葉に漂わせていった。
「お父さんの話では、野毛の悪い人たちの仲間に入ってるらしいって言ってたけど、いまは何をしているの?まだその悪い仲間のなかにいるのかしら」
「海運関係の会社に身を寄せているって言ってたわ・・・・でもあまり詳しいこと話してくれなかったし、その時間も無かったの」
「お座敷じゃそんな話も出来ないわねえ・・・・悪い人たちの仲間に入ったって聞いたときには、せっかくおまえを訪ねてきたというのに、追い払うようにした私たちにも責任があるような気がしてたから、海運会社の社員になっていたのならお母さんもひと安心よ」
「でもねお座敷をもってくれたのが、浅草の小津組の親分さんだから、その世界とは全く関係ないとは言えないかもしれない。だけど二人だけになった時にいままでのこと全部話したのだけど、秀ちゃんはそんな私でも一緒に暮らさないかっていってくれたの・・・・わたし泣いちゃったわ」
「妙子も秀敏君のこと好きなんでしょ?」
美子は軽さを込めていった。
「ちっちゃな時からね・・・・」
「だったらいいじゃないお姉さんは大賛成!」
「そうねえ・・・・ウイリアムも良い人だと思ったけど、縁が薄かったねえ。二人が本当に幸せになってくれるのならお母さんも賛成よ。もちろんお父さんだって反対しないと思うわ・・・・予科練から帰ってきたとき、この店の跡継ぎにしたいって考えていたくらいなんだから」
「秀ちゃんねえ、私とのことを社長さんに相談するため、横浜に帰ってきているんだけど、私がここにいることは知らないのよ。お世話になっている社長さんの了解がとれたら、浅草に飛んで帰るって言ってたから、それが心配なの・・・・秀ちゃんにはいま面倒見てもらっているダンナのことだけは言ってないし、置屋のお母さんからバレたりしたらどうしよう」
続
次回2月3日
続・続 人間機雷 368
第七章 蒼穹遙か
一 巨星落つ
1 情縁(4)
しかし、事件の真相を探り当てたのは、政財界から裏社会までを取り仕切る龍王寺義嗣である。彼がいまもって率いる元特高や秘密機関員で構成される、私的秘密捜査機関が密かに捜査し横浜連続殺人事件の真犯人は、大井秀敏であると嗅ぎつけ、新生塾を中核に置く右翼活動や、反共工作の即戦力として至誠館を中心とする同志たちとともに組み込もうとしたのだ。その見返りが大井秀敏の無罪放免である。その案件を抱えて加賀町警察捜査一課の本田警部補を訪ねてきたのが、この鬼塚義城だったのだ。
龍王寺にしてみれば横浜連続殺人事件のもみ消しなど、造作もなかったことである。
前にも述べたが鬼塚の後ろ楯ば龍王寺義嗣で、政財界を牛耳る黒幕と言われる男である。
龍王寺は終戦のどさくさに紛れて、海軍の軍資金を懐に入れたばかりじゃなく、日銀の地下倉庫に隠匿されていたダイヤモンドや、日本軍が本土決戦に備えて在庫した燃料・アルミ・銅・貴金属・食料まで盗みだし、闇ルートに横流しして莫大な利益を懐に入れたという噂の絶えない巨悪であり、横領した金額は約2400億円相当(現在の貨幣価値に換算して数十兆円)であり、それを政界・官界に金をばら撒き、政治を牛耳ろうとしているのだという。国民は配給も滞り1000万人が飢餓死するんじゃないかと言われていたあの時期にである。後に戦犯として巣鴨に放り込まれた龍王寺が、だれよりも早く出てこられたのもその金の力だったとも言われている。
その懐刀と自他共に認める鬼塚が、資金力にものをいわせ資金的にも苦労してる置屋“松乃屋”のスポンサーでもあった。
その鬼塚がいかにかき口説いても「浅草芸者は芸は売っても身は売らぬ」といって、色よい返事がもらえぬのに業を煮やし、女将の鈴木峰子にその仲介を強要した。
「それができないのなら、これまでつぎ込んだ金を耳をそろえて返せ」と恫喝したのである。
先代の女将から“松乃屋”を引き継いで8年あまりたつが、舞踏家としての才と経営の才とは全く別物であり折からの不景気風にさらされて、経営的には苦しく鬼塚のような経済的援助者に頼るしか方法がなかった。それは“松乃屋”だけでなく他の置屋にもいえることだった。
鬼塚からその話が持ち込まれたとき、女将の律子は当然のようにはねつけた。
すでに鬼塚とは贔屓を超えた関係になっていたし、愛弟子でもある菊弥が座敷での評判がく、このまま芸事が成長すれば浅草芸者として名だたる存在になれる可能性を秘めていたからである。
しかし、鬼塚の執拗な要求はやがて恫喝に変わり、江戸時代から続く“松乃屋”廃業の危機に追い込まれるような圧力が続いた。
そこにきて思いあまった律子は、菊弥に鬼塚を旦那として受け入れてもらえないかと、涙ながらに懇願したのである。
女将であり師匠である律子の申し入れを断るできなかった。
それに身を寄せてから着物や生活費、稽古ごとの月謝など、かなりの金額を投資してもらってきただけに、むげに断ることもできなかったし、そうなれば間近に迫った日本舞踊の名取り披露にかかる費用もすべて心配しなくてすむようになるし、荒み果てた我が身をことさら大事に思う気持ちも希薄だった。
そんな菊弥が幼なじみの大井秀敏と再会したのは、昭和26年4月浅草小津組の宴席であった。先代の根津恭一郎が戦死した後、長いあいだ看板を下ろしたままになっていた浅草小津組を、本家筋直径の小津政吉が五代目を襲名し再興した。
その祝儀を、白神一家五代目木村京介の名代として、届けに来たときの返礼の宴席で芸者菊弥として接待していた妙子に会ったのだ。
その夜、妙子が涙ながらに語った過去に「この幸せ薄い幼なじみを俺が幸せにしてやるんだ」とこころら決めた秀敏であったが、妙子には秀敏にどうしても打ち明けられない秘密があった。それが鬼塚義城が旦那であるということだった。もちろんこのとき鬼塚と秀敏の数年前からの関係など知るよしもない。
もしこの時点で妙子がそれを打ち明けていたとしたら、全く違う展開になったかもしれないのだ。
続
次回1月27日
続・続 人間機雷 367
第七章 蒼穹遙か
一 巨星落つ
1 情縁(3)
妙子とは結婚を考え白神一家の五代目を継いだばかりの、木村京介に相談したことがあった。 無論そのことは武井国松の知らぬことである。
幼い頃、石蹴りやかくれんぼをして遊んでいた妙子と秀敏が再び巡り会ったのは、予科練生だった秀敏が復員して、跡形もなく焼き尽くされた実家の前で、放心して佇んでいたときである。昭和20年9月末だった。
妙子の両親は実の息子が帰ってきたように喜び、それとなくではあったが、妙子と結婚をし“あいざわ”を継いで欲しいようなことさえいった。
秀敏がなにはともあれ沼津に疎開したという両親を訪ね、無事帰還した報告を済ませて横浜に戻ってきたのが11月末だった。そのときには“あいざわ”に妙子の姿はなかった。
すべての夢が霧消し自暴自棄になった秀敏が、野毛の屋台で日本人でありながら、中華街に巣くう台湾系ヤクザの手先となっていた“くず鉄”こと青木鉄男ともめたのが、関東白神一家にげそ付けするきっかけとなったのである。その年の12月のことだった。
後で知ったことだったが、一日千秋のおもいで沼津から帰ってくる秀敏を待ち続けていたある日、進駐軍の黒人兵数名にさらわれ、挙げ句の果てに焼け跡の古ビルの中で輪姦され、その難儀を救った日系二世のウイリアム吉野という将校と結婚したとのことだった。
その結婚もウイリアムの帰国によって破れ、横浜を去り浅草に流れていった妙子が、菊弥という名前で芸者になっていたとき、奇しくも秀敏との再会をしたのである。
その夜秀敏と妙子は初めて結ばれた。
妙子が涙ながらに語る過去のすべてを知った秀敏が、凄惨ともいえる薄幸のなかに沈んだ彼女との結婚を決心したのはそのときである。
妙子が前途に望みも抱けないまま、過去を振り返らずに生きるためには新天地をもとめようと、東京に出てきて、知人から勧められるままに浅草の花柳界に身を沈めようと心に決めるのに、さして躊躇もなかった。
芸事を仕込んでくれたのは、置屋「松乃屋」の女将の鈴木峰子だった。峰子は藤間流の家元でもあり、多くの浅草芸者の師範でもあった。妙子に日本舞踊の天賦を見いだしたのか日に夜を継いで激しい稽古を強いた。妙子もまたよくそれに耐えたのは、傷だらけの自分からなんとか脱しようとしていた心意気だったかもしれない。
三味線の稽古間をつけてくれたのは、吉原最後の芸者 “四代目みな子姐さん”というひとで、峰子も一目置くほどの姐さん格の芸者で、口癖は「芸者はね、芸を持たなきゃただの者だよ」と、「人にお見せできる芸を持ってこそ価値があるのよ」ということを徹底して教え込んでくれた。踊りも三味線も端唄の稽古も厳しかったが、妙子もよくそれに耐え
一年後には菊弥という芸名をつけてもらい、半玉として宴席に出られるまでになったのである。
若く美しいうえに芸事もそこそここなし、人をそらさない会話もさることながら、こはかとない色気をまとった立ち居振る舞いに菊弥はたちまち浅草花柳界での人気者となった。
そんな菊弥に目をつけたのが、戦後急激に勢力を伸ばしつつあった右翼団体のひとつ“新生塾”の総裁と名乗っている鬼塚義城という男だった。
奇しき縁とでもいおうか、昭和25年に横浜港湾荷役業者「金港興業」社長をふくむ関係者5名が相次いで殺され、まもなく金港興業は壊滅した。
これは過去に例を見ない凶悪な大事件として、所轄である加賀町警察に『横浜港連続殺人事件捜査本部』が置かれ捜査が始まった。当時22才の予科練がえりで利害関係もない若者の犯行とは、決して判るはずもなく捜査は難航した。
続
次回1月20日
続・続 人間機雷 366
第七章 蒼穹遙か
一 巨星落つ
1 情縁(2)
至誠館に身を置いている大井秀敏と伊東将男を除けば、桜木町駅構内で発生した列車火災事故で、乗客はドアが開かなかったため脱出できず、多くの死傷者を出した桜木町事件で乗客救出のために活動中、高架橋から転落死した池田義夫と、この雨宮猛とがほぼ同時期に白神一家の敷居をまたいだのである。雨宮猛がそんな事件で逮捕されたことを、伊藤に知らせなかったのは五代目木村京介の“至誠館に身を置く大井秀敏と伊東将男は渡世とは別の道を歩んでいる”のだという配慮からだったろう。
挨拶を済ませて白神一家を後にしようとした秀敏を、追いかけるようにして呼び止めたのは、いまでは白神のナンバーツーまでのぼりつめた若頭下村国松である。
「おい、秀敏。おれに挨拶なしで帰えるなんざあ冷てえじゃねぇか」
「あっ下村さんこれは失礼しました。ちょっと急いでいたもんですから」
「そうかい。急いでねえ・・・」
ニヤリとしながら「じつはある人から言伝を頼まれてんだが、それも聴く暇はねえってのか」と言った。
「ある人?どなたですか?」
「おまえ、小料理屋の“あいざわ”って店知ってるよな。ほら、東ヶ丘にある関西なまりの親父がやってる店だよ」
「ええ、知ってます」
秀敏は国松の唐突の話に戸惑いながら答えたが、腹の底からジワリと湧きでる動揺があった。
「そこの娘っ子で妙子っての知ってるだろう。美人姉妹の妹の方だ。姉ちゃんは美子ってんだが、俺はその姉ちゃんに惚れ込んで通ってたんだが、二年ほど前に結婚しちまいやがった。俺は悲しかったねえ。それでね妹の方を口説こうと思ったんだが、てんで相手にしてくれねぇんだ。そのうちに俺がしつこかったのが気に障ったのか、あるとき“わたしには好きな人がいるんです。その人が迎えに来てくれるのを待ってるんです”とこうなんだよ。それでな“いつ迎えに来るんだい、お前さんの思い人は”って聞いたら、“わかりません、分からないけどきっと来てくれるはずです。約束したんですから”っていいやがる。
そんなやりとりがあって暫くしてから“お父ちゃんに聞いたけど国松さんは野毛の白神一家の偉い人なんですってね”とこうきやがった。別にえらかあねえけど白神のもんだよ。それがどうしたい?っていったらな、急に態度を変えて“それならお願いがあります。“白神さんにお世話になっていた大井秀敏というのが、わたしの幼なじみでわたしが待ち続けている人なんです。会えなくなって6年にもなるんですが、もし秀ちゃんに会うことがあったら、いまでも待ち続けていると伝えて欲しいんです”。って涙を浮かべて哀願されちまった。野毛の国松さんも形無しだわさ。【義を見てせざるは勇無きなり】とかなんとか言うだろ。こうみえても女の涙にはからっきし弱い国松さんだろ、俺にまかせておきな必ず会わせてやるよ…って約束しちまった。しかし、いま時あんな情の深い女はいねえな。
秀がどう思ってるか知らねえけど、俺がこうしてなかにはいったんだ。会ってやってくれよ。どうだいこの“色男め”」
「そんなことがあったんですか。国松さんにはご迷惑おかけしました」
「おお、大迷惑だ。迷惑ついでに今夜俺と“あいざわ”につきあってくれ。いやとはいわせねえぞ」
今夜にでも夜行列車で雲峰󠄀寺に戻る気になっていた秀敏だが、がらっぱちで乱暴な口のききようだが、真情実のある国松の話に心が乱れたのは、思いもかけなかった愛沢妙子のことが昨日のことのように思い出され、一別以来6年と思いだし、薄情に過ぎたかもしれないという悔いにとらわれたからでもあった。
続
次回1月13日
続・続 人間機雷 365
第七章 蒼穹遙か
一 巨星落つ
1 情縁
話の合間をぬって出してくれた“煮出し里芋の唐揚”や“イカげその醤油焼き”なども、埠頭の片隅にある屋台の料理とは思えないほどうまかった。
二本目の一升瓶が空になる頃、いささかに酔った伊東が軍歌を歌い出した。
大井もそれに合わせて声を張り上げた。
いつしか桜子までがそれに加わって、三人の声が夜更けた埠頭に響いた。
楽しい時間は早く過ぎるものだ。
「もうこんな時間か・・・・すっかり遅くまでお邪魔しました。お勘定してください」
「あら、もう帰るの。さみしいな」
「また来ます」
「約束よ。いっしょに軍歌を歌ったんだから戦友なんだから。だから今夜は私のおごり。お勘定なんて水くさいこといわないで」
「桜子さん!それはダメです!そんなことされては次から来にくくなってしまうじゃないですか」
「次からはいただくわ。今夜は慈母観音の桜子の顔立ててくださいな」
「どうしても受け取って頂きます。そうしないと帰れません」
「でもね大井さん、今夜は私すごく嬉しかったの。こう言っちゃあ他のお客さんに悪いけど、ごろんぼ稼業やカンカン虫のお兄さん達ばかり相手に、けんか腰に意気込んで商売してるじゃない。たまには今夜のような酒も飲みたくなるのよ。久しぶりに貴方たちと本当に楽しいお酒を飲んだわ。だからその良い気分を壊さないでちょうだい」
頑としてお金を受け取らない桜子に、亡夫が稼業人だったことを思い出させる鉄火の心意気を感じた大井は、いずれ埋め合わせする時も来るだろうと思い、帰ることにした。
すっかり酔いつぶれた伊東を「おい、しっかりしろ。帰るぞ」と揺り起こした。
「桜子さん好きです」伊東はろれつの回らない口調でわめいた。
「馬鹿なに言ってるんだ。黒崎師範にドヤされるぞ」
「黒崎がなんぼのもんじゃ。俺は震洋隊の伊東将男だあ。明日は出撃するぞお」
「あらあら、伊東さんずいぶん元気がいいわね。大井さん大丈夫?」
「ダメだったら海に放り込んで目を覚まさせます」
もっと飲みたいと吠える将男を抱きかかえるようにして帰路についた。
二年前と同じように外まで送って出た桜子は、心なしか寂しそうだった。そして今夜もまた、桜子の後ろから射す“かもめ”の赤提灯の灯りが、慈母観音の全身から射しかける光背のように見えた。
至誠館の師範代理の立場にある伊東将男と、市営埠頭先にある“かもめ”で飲んだ翌日、雲峰寺に帰るべく支度をし、野毛の白神一家に木村京介を訪ね、ふたたび修行に戻る挨拶に出向いた。
「小津さんの葬儀も終わり、至誠館にも挨拶を済ませましたので、雲峰寺に戻ります。盃をいただきながらの身勝手は許してください」
「今さら固えことを言うなよ。先代もいってたが、お前さんはなあこんなちっぽけな世界で生きていく人間じゃねえ。俺たちの渡世じゃあ懲役にいくことで、人間を磨く修行をするんだ。秀はお山にこもって修行しろ。先代がその心構えを忘れぬようにと贈ったのが國廣の太刀なんだぞ」
「肝に銘じてます」
「俺たちは任侠のために体を張るが、お前さんは国のために体を張るんだ」
「もとよりその覚悟です」
「それにしてもお山の先生というのは、たいしたお方らしいな。お前さんの面構えが随分と変わってきたよ」
「雲峰寺の月心老師は素晴らしい方です。その元で修行ができるのは五代目や、多くの方のおかげです。今はただただ感謝で一杯です」
「おいおい、おだてるなよ。俺なんざあなんにもしてねえ。もし感謝するってのなら、先代の温情と度量にするがいい」
「分かりました。これからも命がけで励みます」
「そういえば偽特攻だったという雨宮猛は秀の仲間だったよな。あいつは腐れ縁の中華街愚連隊ともめて、一人叩っ切っていま懲役にいってる。前がねえし野毛にちょっかいを出してきた野郎が、素人衆に非道なことを繰り返していたことを、サツの方も調べ上げていたことだからそんなに長くはねえと思う。それでも放免の後は一回り大きくなってるに違えねえ。目下修行中だな」
「そうですか。雨宮がねえ。向こうっ気ばかり強いけど、気のいいやつです。これからもよろしくご指導ください」
「お前さんに言われるまでもねえ。若者頭の鮫島がずいぶん肩入れしているか、いい若い衆に育つだろうよ」
続
次回1月6日
続・続 人間機雷 364
第六章 夢幻泡影
三 歳月
4 国士への道 4(13)
「悪徳商人のモノとばかり思って仕掛けましたが、露店のネタモノと判り返しにきました。間違いは間違いでもご迷惑をおかけした事には言い訳は通らないでしょう。どんな処分でもお受け致します」
その潔さが木村の気に入りそのまま一族郎党数10数名が白神の仐下に降じたが、看板を背負って生きるよりは一日一日を太く短く、大胆豪放に生きたいという伊東の考えはかわらなかったのだ。
そして儲けた金を惜し気も無く浮浪児に分けたり、羅災者の為にたき出しをしたりもした。そんな時は白神一家の印半纏を着込み、一家の若衆としてふるまう俠気もあり、無頼漢でありながらある意味では、その時代が生んだ英雄であったかもしれない。
伊東将男の身の廻りにはそんな男達が続々と集まり始めていた。
大井秀敏は『渡辺組』や露店商組合からの注文や卸し等の折衝を、木村京介の舎弟『野毛の国松』こと武井国松の指導の下で修業を始めた・・・・地味な仕事であった。
秀敏は頑張った、このご時世に三度の飯にありつける事さえ果報者という事はいたいほど判っていたし、かといって伊東将男の様に他人様の物に手をのばす事など、死んでも出来ぬという思いもあった。
そんな秀敏の心情を知ってか知らずでか伊東は
「なぁ秀ちゃん、秀ちゃんはいずれ立派な俠客にならなきゃいけんぞ!こんな時代は永く続きはせん、いずれこの日本だって生き返るに違いない。そりゃ今はこのハマだって暗黒の中に沈んじまってつけど、それを蘇えせるのは俺達若者だと思う。しかし、俺みたいに強盗の真似した連中がハマに灯りをともす訳にゃいかんよ。今の修業は厳しいかもしれんが男を磨いてその時に備えてくれよ・・・・」
五分の兄弟盃を交わしたのはそれから数日後であった・・・・といってもひとつの茶碗に注いだ酒を半分づつ飲んだだけの真似事だった。
「将ちゃん、これで五分の兄弟分だぜ、どんな苦労でも半分づつ分け合おうな!将ちゃんの云う通り、俺は親分や木村の兄貴が好きだし、小津の政吉さんみたいな昔気質の親分も好きだ・・・・きっとこの稼業が性に合ってるのかも知れんな。日本の国は俺達を裏切っても、俺達は国を裏切る事はできん。いつか俺達のようなモンでもお国の為に役立つことがあると思うし、その為に修業をするんだと思ったら気が入るよ。それに予科練時代にくらべたらチョロイもんさ・・・・」
その伊藤が感じるところがあり、徒党から抜けだし、白神一家の三下として身を寄せたのは、それからまもなくだった。伊藤が19歳大井が18歳の時である。
以来、予科練同士の連帯感の絆から、大井が憂国の志を持って至誠館に出向するのに同行してきてからいまに至るのだ。
「俺たちに共通するのは、先の戦争の死に損ないって事です」
「そうなの。黒ちゃんが軍人だったことは聞いていてるけど、大井さんや伊東さんもそうなの?」
「軍人といっても黒崎先生は俺たちと格が違います。俺たちは予科練の死に損ないです」
「予科練さんだったのね」
「“予科練さん”なんて呼ばれるのは本当に久しぶりです。終戦後は道を歩けば、“特攻崩れ”と呼ばれたり、“お前はどこの舎弟や”といわれたりで、正直、何もかも嫌になってたもんです。そこから救い出してくれたのが黒崎先生だったんです」
「私の知り合いの予科練さんにも、自暴自棄になってヤクザの道にそれたのがいたわ。そんなのが多かったそうよ」
「白状すると俺たちもその類いです」
「その類いということはヤクザだったの?」
「いまも片足はそちらに預けたままですがね。半端な生き方やってるんです」
「そうなの。そんな風には見えないわ」
「黒崎先生のもとで死に物狂いで剣道に打ち込んでからは、自分たちの中から腐りかけた精神が鍛え直されたような気がしています。ら俺たちにとっての黒崎先生は神のようなお方なんです」
「アラ、貴方たちの前じゃ黒ちゃんなんて呼べないわね」
少しばかり酔いのまわった桜子は、妖艶に笑いながら、せっせと酒を注いだ。
一升瓶がほとんど空になった。
続
次回12月30日
続・続 人間機雷 363
第六章 夢幻泡影
三 歳月
4 国士への道 4(12)
“ここの大根は美味いぞ、やみつきになる”と言った黒崎軍三の言葉そのままに、薄味で煮あげたうすい飴色の大根が二人の皿に載せられてでてきた。
「お酒はなにがいいかしら」
「女将さんにおまかせします」
「大井さん、前にいらっしゃったときにお仲間にしてくれたじゃない。覚えてないの?だったら“女将さん”じゃなくて“桜子”とか“桜ちゃん”って呼んでよ」
「分かりました。黒崎先生に叱られるかも知れないけど“桜子さん”って呼んでいいですか」
「嬉しいわ。桜は桜でももう“うば桜”だけどね。弟みたいなあなたたちにそう呼ばれると、若返った気がする」
「女将・・・・じやなくて桜子さんき充分にお若いですし美しいです」
「あら、伊藤さん、お口が上手なのね。でも嬉しいわ。じゃ、お酒は黒崎さんの好きなこれにしましょ。大井さんとの再会を祝って最初の一杯は私のおごりよ」
カウンターの下から取り出した一升瓶のラベルには墨痕鮮やかに『昇竜蓬莱』と書かれていた。
「昇竜蓬莱・・・・ですか。いかにも黒崎先生のお好みの銘柄ですね」
「そうなの黒ちゃんに教えられたんだけど、この蓬萊というのはなんでも中国伝説の不老長寿の山のことで、そこから大空へ駆け上っていく竜のことを昇竜というんですって。辛口だけど美味しいわよ。私もその説明を聞いてから大好きになったわ。さあ飲みましょ」
大ぶりのグラスになみなみと注がれた琥珀色の酒を掲げ、乾杯をした。
一口飲むとさわやかな香り、そしてそこからうまみときめ細かな酸味が続く。
辛口のようでありながら、何かの果物のようなさわやかな香りがただよい、華やかな印象と、一瞬甘口のお酒と勘違いしそうになる。
「いい酒ですね」とはやくもグラスを空にした伊東が呟くように言った。
「そうでしょ。辛そうでそのじつ優しさのある黒ちゃんみたいでしょ」
「まったくその通りです。ただ厳しいだけではないんです。黒崎先生は」
「伊東さんも黒崎さんのお弟子さんなのね」
「はい、不肖の弟子です」
「でもこうして話していると、あなたたち三人からは同じ匂いがする」
桜子はグラスに酒を注ぎながら言った。
伊東将男は横浜伊勢佐木町の豪商の次男坊として生まれた。戦争末期持ち前の熱血から予科練を志願後、土浦から川棚の臨時魚雷艇訓練所に転じて魚雷艇の訓練を受け、間もなく特攻志願が許され震洋艇でいざ出陣という時に終戦を迎えた。
生まれ育った横浜に帰ってみると、すでに百余年続いた家も無く、家族も消息不明であった。孤立無援・職なく・金なく・住む家もなく独りぼっちの伊東将男は、悪夢の中の悪夢に投じられた男であった。
その彼が生きる為に何をするのかを考えたとき、答えはひどく簡単だった。つまり有り余っている所から持ってくるしか無い。そうするより手がない。
持ってくると言っても、持てる者はむざむざと持たざる者に分かち与える訳は無く、強奪である。強奪する事で生きて行くしか無かったのだ。類は友を呼ぶというか、彼の身の回りには瞬く間に数十名の同士が集まり、まるで飢えたオオカミのように、隠匿物資の隠し場所を襲いヤミ市に流れ込んでくるヤミ物資を輸送中に襲った。
罪悪感はみじんも無かった。ところがどう情報を間違えたのか、白神一家が野毛の闇市を仕切るテキ屋『相州八虎一家渡辺組』を通じて露店商に流す筈だった品物を満載したトラックを襲撃してしまった。
南部大型拳銃、口径8ミリの9連発を手に手に襲った彼等は、運転手を放り出すとトラックごと奪ってしまった。ところが、それが白神一家の物資と判り、伊東は木村に詫びをいれそれを返した。
続
次回12月23日
続・続 人間機雷 362
第六章 夢幻泡影
三 歳月
4 国士への道 4(11)
「ところで以前お邪魔したときいただいた、煮大根はまだありますか?」
「あるわよ。お出ししましょうね」
「それと日本酒を冷やで下さい。伊藤もそれでいいよな」
「貴様の勧めるものなら何でもいいぞ。今夜は徹底的に飲んでやる。二年もほったらかされたからな」
「すまん。俺が山を下りたら、つぎは貴様が行ったらどうだ。いや、それがいい。黒崎先生に話してみよう」
「実はな、道場で観た貴様の剣さばきの凄さこそが、この二年間の修業のたまものだと思った。道場生に対する訓戒も以前とは違う。お山がどんなところかは知らんが、俺も行ってみたいよ。俺も貴様のようになりたい」
「だけどな雲峰寺のあるお山には天狗がおるんだ。不埒な奴はその天狗に殺される・・・・」
秀敏は乱暴者だがなぜか憎めなかったという権六の死を、懐かしさを帯びながら思い出していた。
娯楽の少なかった田舎の村落では、村民を挙げての演芸大会が花盛りであった。
雲峰寺のある裂石村でも青年団が中心になり、歌や踊り演劇など様々な出し物を演じての大興行が執り行われることになっていた。
ところが演芸会をまえに熱の入った稽古を終え、帰る途中の何人かの青年が、手ぬぐいを盗人かぶりをした暴漢から、すれ違いざまに棒のようなもので、頭や脚や腕を殴られたのだ。それも一晩のうちにだ。襲われたのは五人であった。
その五人に共通するのは、去年の暮れ錬成館に岩間権六が現れ、芝居のための剣術を指導していた大井秀敏に試合を申し込み、無様にも呆気なく大井に打ち据えられたのを目撃し連中である。そのうち一番年下の留吉は難を逃れたが、盗人かぶりの男が、岩間権六であることは容易に判明した。
錬成館での立ち合いの時、木刀で大井の頭上に打ち込んだ権六が、袈裟斬りのような反撃をくらい一瞬にして気を失ない、朦朧として立ち上がった権六が、とつぜん奇声を上げて猛然と組み付こうとするのに、大井の竹刀が権六の脳天に炸裂した。こんどは丸太のように仰向けに倒れてふたたび気を失ったていたらくを、その夜に目撃した者達を選んで、襲ったとしか考えられなかったからである。
芝居の主役を演じることになっていた新谷金也は、右の上腕骨が複雑骨折。井尻源造は脛を打たれひびが入り、古屋喜六の頭にはジャガイモのような大きなコブが二つあったという。
他の二人もそれぞれキズを負ってしまったから、4月の演芸会で芝居など出来るわけがない。彼らにとっては怪我の痛みよりもそのことの方が辛かった。
権六らしいと被害者たちが口を揃えて言うのに、村の初老の駐在さんはろくに犯人捜しもしなかった。権六のしっぺ返しが恐ろしかったのかも知れないし、あとわずかで定年を迎える瀬戸際を、穏便に過ごしたかったのかも知れない。
その権六が笛吹川上流の重川の岩場で死んでいた。
事件からおよそ20日あまり後の、昭和30年2月12日のことである。
酔って転げ落ちたとも言われるし、眉間がかち割られたような疵痕から、木剣の一撃を受けたためだとも言われた。
権六を忌み嫌っていた村人のなかには「ありゃあ、雲峰寺の天狗さんがこの村の疫病神をやっつけてくれたダヨ」と噂するものもいたが、駐在さんは死因の究明よりも、引き取り手の無い権六の亡きがらの始末をどうしたらいいのかと右往左往していた。
岩間家先祖代々の墓のある菩提寺に葬られたが、無住寺院あったから回向を手向けたのは雲峰寺の月心老師だった。
村一番の暴れん坊で、預けられた雲峰寺から、金無垢の仏像を盗み出しそれを元手に、中国大陸に渡り、馬賊に身を落とした岩間権六の数奇な人生は終わった。享年51歳であったのだ・・・・そんな思い出話を伊東将男に聞かせた。
続
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続・続 人間機雷 361
第六章 夢幻泡影
三 歳月
4 国士への道 4(10)
雲峰寺に修業に行く前の昭和29年3月終わり頃、全てに希望を失い失意のどん底にいた大井が、やっと本来の自分を取り戻し、ふたたび剣の修行に取り組み始めたことを祝った黒崎軍三が連れてきてくれたのが、ふ頭入口近くにある一杯飲み屋「かもめ」である。
それはその年の10月に雲峰寺に行くことになったことを考えれば、奇しくも壮行の意味合いもあった。
横浜に帰ったら、ぜひともたずねたい場所だった。
ぼんやりと埠頭を照らす街灯の、灯りと灯りの間にポツンと赤提灯が見えてきた。
「かもめ」と書いてあるすすけた赤提灯が風に揺れている。二年前とまったく同じ佇まいだった。
屋台といっても4坪ほどのあり、ガラス戸もある小体な店だ。煮炊きの出来る広さの調理
場の後ろには、芋焼酎や合成酒がずらりと並び、その下の棚にはグラスや徳利・小皿など
が並べてある。これも相変わらずでなぜか安らぎを感じさせる。
洗い物をしていた女将は“いらっしゃい”という言葉を呑み込んだまま、大井の顔をまじまじと見つめている。
「思い出したわ。ずいぶん前に黒崎さんといらっしゃった大井さんですよね」
「二年ほど前になんですけど、覚えていてくれましたか」
「もちろんよ。私はねえいい男はよく覚えているのよ」
「お連れさんもいい男ねえ」
「親友の伊藤です」
「伊東将男です。よろしくお願いします」
「はいはい、伊東さんね。こちらこそよろしく。ちょうど客も引けたし、そろそろ仕舞いにしようと思っていたところなの。私も生酔いで飲み足りないところだから、三人で飲みましょうか」
「ご迷惑じゃなかったですか」
「ご迷惑なんてとんでもない。忘れずに来てくれたのがとても嬉しいのよ」
「黒崎さんは来ていますか」
「あら、何とかっていう道場でご一緒じゃないんですか」
「はい、二年ほど横浜を留守にしていまして、久しぶりに戻ったのですが、あいにく黒崎先生もご不在でご挨拶もしてないんです」
「そうなの。このところお顔を拝見してないわねえ。またご一緒にいらっしゃってくださいな」
「分かりました。必ず先生をお誘いしてお邪魔します」
「約束よ。久しぶりに黒ちゃんに会いたいわ」
「黒崎先生のことお好きなんですね」
「好きよ。でも好きって言ったことないの」
「先生が羨ましいです。こんな美しい女将さんに思いを寄せられるなんて。なあ伊藤くんそう思わないかい」
「思う思う・・・・羨ましい」
「なんだい伊東。女将の顔ばかり見つめちゃって。さては貴君も女将の虜になったかな」
「なった!」
「おいおい、素っ頓狂の声だすな」
「いやだは。二人しておバアちゃんをからかったりして」
「からかってなんかいません。なあ、大井」
「桜子さんのことからかったりしたら、黒崎先生に怒られます」
「あら、私の名前覚えていてくれたのね」
「もちろんです。山にこもってからも時折思い出していました」
「お山に籠もってらしたの?」
「黒崎先生の勧めでもありました」
「そうなの。ご苦労さまでしたわねえ」
続
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