「ゴジラ -1.0」を見た。ネタバレとダメ出しを含むので、この作品を未視聴&好きな方はここから下は読まないでください。
この映画を見て、開始15分ほどの感想は「この主人公は好きになれない」だった。
この映画の主人公「敷島」は、「特別攻撃隊」の隊員で、何度かマシントラブルのため特攻できずに戻ってきている男として登場する。
なるほど、運悪く(運良く?)マシントラブルのせいで死ぬに死にきれない男なのかと思ったがどうやらそうではない。
実はマシントラブルは虚言であり、普通に死にたくないから戻ってきているだけとわかる。
まぁそれは仕方がない、自分だって死んでこいと言われてハイそうですかとは言い難い。
生に執着する主人公というのもままある話だ。
しかし、ゴジラ初登場シーンから段々と雲行きが怪しくなる。
「敷島」は突然現れたゴジラに対し、零戦の機銃でゴジラを撃って欲しいと整備長の「橘」に頼まれる。
それを引き受けた「敷島」は身を隠しつつなんとか零戦に搭乗。
身動きできない零戦だが、運よく射線上にゴジラが移動してくる。
よし、今だ!引き金を引け!と声を押し殺しながらも叫ぶ整備長「橘」。
だがここで「敷島」は恐怖で機銃の引き金を引けないのである。
「いや引き金ひかんのかい?!」と思ったのは私だけではないはずだ。
ゴジラを見て逃げ出すでもなく、唯一の攻撃手段の零戦に勇よく乗り込むまでは良かったが、実に一度も引き金を引くこともなく無惨にやられる「敷島」。
引き金を引けなかった結果、整備兵は全滅し「橘」整備長と「敷島」の二人だけが生き残る惨事となる。
「橘」に叱責される「敷島」。
そりゃそうだろう。
どうやらこの映画の主人公「敷島」という男は生き延びることを美徳としていると言うより、単に臆病なだけのようだ。
英雄願望はあるが、土壇場では度胸のない人物。
ゴジラファンの方は「ゴジラに機銃を撃ったって効くわけがない」と言うかもしれないが、我々と違って彼らはゴジラなんてものを初めて見るので、やってみなければわからないはずなのだ。この時点でこの人物に対する私の評価は「臆病者」であった。
その後はしばらく「3丁目の夕日」のような日常が続く。
成り行きで、何故か孤児を抱えた女性を居候させるのだが、ずっとプラトニックな関係を続けていく。
これが青春ラブコメなら主人公が奥手というのもわかるが、戦後のあの時代に、年頃の女性と暮らしながらそういう関係にならないのは美徳ではないのでは?と感じる。
おそらくこれも、「女性を助ける正義感はあるが、女性と関係を持つ勇気がない」ゆえの行動だろう。
ここでも覚悟を決められないのだ。
そして掃海艇に乗って機雷を除去したりして暮らしていき、ようやく平和が戻りつつあった頃、日本にゴジラが現れる。
(しかし今回のゴジラは正直何をしに来たのかよくわからない。
初代などは原子力に引き寄せられたり、毎回何かしらのテーマがあったと思うのだが)
掃海艇や巡洋艦で対抗するも歯が立たず、結局ゴジラは日本に上陸してしまう。
ゴジラは日本が嫌いらしく日本を破壊して(ついでにヒロインも殺して)海に去っていく。
なぜか動かない米軍。
なぜかなにもしない日本政府。
理由はよくわからないまま物語は民間主体で対処するという流れになっていく。
もっとも、民間主体とは言うがその実ほぼ退役軍人と残った軍艦&戦闘機で対処することになる。
(友人が「今回のゴジラは民間の力で倒す」といっていたので、タンカーや漁船、商船で戦うのかと思ったら、結局戦艦と戦闘機に元軍人がのって戦っていて、それは民間なのか?との疑問が心に残った。)
そんな中、主人公「敷島」に再び英雄願望がむくむくと膨れ上がって来るのであった。
戦争で死んだいった家族、戦友、(自分のせいで死なせた)整備兵たち&恋人に殉ずるためにも、自らの命と引換えにゴジラを倒そうと決意を固める。
「誘導用」などと、なんとかだまくらかして戦闘機を一機調達する主人公。
だが、彼の心には秘密の企みがあった。
すなわち、”戦闘機に爆薬”を積んで”ゴジラへの特攻”である。
人のために死ぬという特攻隊のときにできなかったことを、今やろうと思い立ち、戦闘機を改造しようと考えたのだ。
しかしこんな馬鹿げた作戦、周り話すこともできず、なんとか飛行機を自爆機に改造してくれそうな男を呼び出すことにする。
そう、因縁の相手「橘」整備長である。
問題は自分を恨んでいる彼をどう呼び出すか。
普通に呼んだのでは来ないと考える「敷島」は、驚くほど卑劣な方法を思いつく。
「整備兵達が死んだのは、この「橘」整備長のせいですぅ~」という事実無根の誹謗・中傷する手紙を、整備長の関係者に送りまくったのだ。
無実の罪を自分になすりつけててきた「敷島」に対して温厚な「橘」整備長も流石にキレる。
そして思惑通りに「敷島」を殴りにやってくる。
この時点で主人公に対する私の評価は「卑劣な臆病者」である。
(きっと「敷島」は目的のためには手段を選ばないサイコパスで、他人の痛みとかはわからないのだろう)。
「橘」を呼び出すことに成功した「敷島」は、戦闘機を自爆機に改造してほしいと頼む。
「敷島」の決意を知り、戦闘機に爆薬をつむのを承諾、改造を始める「橘」。
さてここからが問題の核心なのだが、
1.作戦前日の夜に「敷島」に対してなにかを伝える「橘」
2.ゴジラ掃討作戦開始
3.すべての作画失敗
4.「敷島」は戦闘機での特攻を決意
5.「敷島」、特攻を決行、成功し、ゴジラ倒れる
6.ゴジラと共に死んだと思われた「敷島」だが、実は「橘」整備長によって戦闘機に脱出装置がつけられていたため、助かる
7.死んだと思われた恋人も実は生きていて大団円
だいたいこんな流れだったと思う。
しかし・・・だ。
ちょっとまってほしい。
普通に映画を一度見ただけだとわからないが、腑に落ちない点が一つある。
4.で「敷島」は、死を決意し特攻したように見えるが本当にそうだろうか?
あの臆病で決断できない男が突然、このときだけ覚悟を決めて特攻できるだろうか?
できない・・・できるはずがない!
そして実際、彼はこのとき決断などしていないのである。
なぜそう言えるのか?
それは時系列を追っていけば明快だ。
映画を見ている視聴者には明かされないが、「敷島」は1.の時点ですでに戦闘機に脱出装置を付けたことを「橘」から聞かされている。
つまり「敷島」は作戦決行中いつでも脱出可能の状態だ。
全く捨て身の作戦ではなかったのである。
なので特攻する時、彼は特に死の決断などする必要もなく、ただただ攻撃しただけなのだ。
当然失敗すれば死ぬかもしれないし、海に落ちても死ぬかもしれない。
ただ脱出装置があると無いのでは覚悟のレベルが違う。
視聴者が「死を覚悟し勇ましくなった男」と思ってみていたのは、「逃げ道のある今までと変わらない卑怯な臆病者」だったのである。
最終的な主人公に対する評価は「視聴者さえも騙して決断したように見せかけた卑怯な臆病者」になった。
そういったわけで結局この物語は、はじめから決断できない男が最後まで変わることのできなかった物語なのであった。
「そんなことはない!「敷島」は死ぬ覚悟があった!」と言う人もいるだろう。
だがロジック的には覚悟があったとは証明できないのだ。
もし本当に死を覚悟したと思わせたいなら、視聴者からツッコまれないよう、映画の中でちゃんと描写しなければいけないのだ。
そして実際、最後のシーンを少し変えるだけで、ちゃんと決断したと視聴者を納得させた上、更に主人公をかっこよくすることができるの方法があるのである。
ではどうやるのか?
簡単な話で、1.のときに脱出装置があることを告げないことと、起爆用レバーについて説明するシーンを付け足すだけでいい。
この起爆用レバー、実際には脱出装置のレバーなのだが、「爆弾の安全装置をオフにするためのレバー」だとか、「このレバーを引いた3秒後に起爆する」とか説明しておく。
そして「特攻の寸前にこのレバーを引け!」と伝えるシーンを、あらかじめ視聴者に見せておくのだ。
当然だが視聴者にも脱出レバーだということは伝えてはいけない。
「敷島」を恨んでいる「橘」なのだから、仕返しをするような恐ろしいシーンになるはずだ。
そうすることにより
1.作戦前日の夜に「敷島」に対して「起爆方法」を教える「橘」整備長
2.ゴジラ掃討作戦開始
3.すべての作画失敗
4.「敷島」は戦闘機での特攻を決意
5.「敷島」、「起爆レバーを引き」特攻を決行、成功し、ゴジラ倒れる
6.ゴジラと共に死んだと思われた「敷島」だが、レバーを引いた際、整備長によって付けられていた脱出装置が動作したため助かる
7.死んだと思われた恋人も実は生きていて大団円
こんな流れになる。
これならば、「敷島」は確実に死ぬ覚悟で突撃したのだと誰もが納得するし、「橘」の粋なはからいで生き残るという、よくある当たり前のストーリになるのである。
だがこの文を書いているときに、ふと一つ頭によぎったことがある。
もしこの方法で進んだ場合、「敷島」は本当に特攻するだろうか?
あの決断のできない男のことだ、逃げる可能性もある。
いや、きっと逃げるに違いない。
それではゴジラを倒せない可能性が出てくる。
もしかすると、同じように考えた「橘」はあえて先に脱出装置のことを教えたのかもしれない?
「戦争を終わらせるために特攻したい!むしろ死にたい!」そういう覚悟の男に対して、「脱出装置を付けておいたよ!」とあらかじめ教えるほど「橘」は無粋な男だろうか?
私が思うにきっと「橘」は、「敷島」がまた土壇場で逃げることを危惧したのではないか?
逃げ道を与えないと最終攻撃をしないと考えたのではないか?
そう考えからこそ「死ぬ覚悟」を語る男に、脱出装置の存在をあらかじめ教えておいたのかもしれない。
それにしても実際に動作する脱出装置をつける「橘」は人格者である。
もし私が同じ立場であったなら、レバーはダミーで脱出装置は動作しないようにしておく。
そうすれば
1.脱出装置の使い方を教え、「敷島」に逃げ道を与える。
2.ゴジラ掃討作戦開始
3.すべての作画失敗
4.「敷島」は「脱出できると思っている」戦闘機での特攻を決意
5.「敷島」、「脱出レバーを引き」特攻を決行、爆破が成功し、ゴジラ倒れる
6.脱出レバーを引いて逃げられると思っていた「敷島」だが、実は脱出レバーはダミーで動作せず、ゴジラと共に海の藻屑に
7.部下の仇であるゴジラと「敷島」を同時に葬ることができ、大団円
こうするれば映画を見る中で溜まった「敷島」に対する私の鬱憤も晴れたことだろう。
まぁ映画としては大失敗だが。
私としては
戦地で機材トラブルで死ねなかった特攻隊員が
ゴジラに立ち向かうも歯が立たず仲間を殺され
帰国した焼け野原で出会った子連れの未亡人かなにかと所帯を持ち
実の子が生まれそうになるも日本に来たゴジラに殺され
自らの戦争に決着をつけるために死を決意し
爆薬を積んだ戦闘機を戦友の整備長に改造してもらい
戦闘機で特攻を行いゴジラを倒し
死んだと思ったが整備長の付けていた脱出装置で生き延び
妻と子がじつは生きていたことを知り大団円
こんな映画を期待していたのであった。
よくよく考えてみれば「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」で、あれだけ原作ファンの怒りを買った監督なので、さもありなん。
そもそも人とは感性が違うのかもしれない。