こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯を手がかりに他人に流されずに生きるヒントを探し続けている、
歴史大好き社労士で、シニア未来サポーターの山路 貞善です。
いよいよ猛暑の季節がやって来ました。皆さん、熱中症にはくれぐれもお気をつけくださいね。さてしばらく投稿間隔が空いてしまいました。
今回から新たな章に入ります。では早速、続きを始めましょう。
慶応3年(1867年)10月、勝は江戸にいました。
海軍伝習掛を拝命し、軍艦奉行としてイギリス海軍の指導の下、海軍の人材を育てるための海軍伝習事務に専念する毎日を送っていました。
軍艦奉行の職務の一つとはいえ、勝は海軍伝習の実務に明け暮れるだけの日々に飽き足りないものを感じていました。これまで何度も登用と罷免を繰り返してきたとはいえ、新たな国家の政治の仕組みづくりに身を投じる覚悟を持って仕事に取り組み、経験を積み重ねてきたという自負が勝にはありました。
ですが、もう一年近くも中央の動きから遠ざかり、この国の行く末を案じながらも自身が果たすべき仕事が見つからず、その機会にも恵まれない日々が続いていました。
こうした鬱屈した感情を抱えながら過ごしていた勝は、この頃、越前の松平春嶽に宛てた書簡の中で、次のように伝えています。
「私儀も碌々(ろくろく)在官空々にて、世上の様子も一向に承らず、…」(同年8月7日 書簡)と鬱々とした心情を吐露した上で、今は為す術がなく、どうにもならないが、「御一新」を期待して、時機が到来するのを待ち続ける。そう自分を慰めるしかない、と自らの境遇を振り返っています。
【 京で孤立を深める慶喜 】
同年10月、京では徳川慶喜が大きな政治的決断を行いました。
すでに将軍となっていた慶喜が、ついに大成を奉還したのです。
学校の歴史では、徳川幕府が終焉を迎える頃のエピソードとして取り上げるため、この頃、唐突に「大政奉還」という出来事が起きたかのような印象をお持ちの読者も多いのではないでしょうか。
ですが実はそうではありません。このブログでは、これまでに何度も「大政奉還」について触れてきました。熱心にお読みいただいた読者の方の中には、ご記憶の方もおられるかもしれません。
直近で取り上げたのは、勝が長州藩との間で起きた戦争を終結させるための交渉を行った回(第178話)です。
大成奉還に至るまでの流れは、とても複雑な動きがあります。よくご理解いただくために、その前年からの流れを整理しておきましょう。というのは、この一年で、慶喜を取り巻く政治環境は大きく変わっていたからです。
ここでは、第二次長州征伐で幕軍の敗北が決定的となった以降の情勢について簡単に振り返りましょう。
・慶応2年(1866年)7月20日 14代将軍家茂、大阪城で没す。享年21歳
・同年8月14日 慶喜からの呼び出しにより、長州との停戦交渉の使者を命じられる
・同年9月2日 勝、宮島の大願寺にて長州と交渉、「一新」の趣旨を説く。
・同年9月 慶喜、勝に使者を命じる一方、朝廷から休戦命令の勅書を出さ
せる。慶喜の裏切りにより、勝が長州藩と交わした約束は反故に
・同年10月1日 勝に帰府命令(江戸に帰る)が下る。同月16日、江戸着
・同年12月5日 慶喜、将軍職に就く
・同年12月25日 孝明天皇、崩御
慶喜は、長く京から離れられずにいました。
孝明天皇が幕府びいきであったことも理由の一つですが、元治元年(1864年)に朝廷から禁裏守衛総督に任命され、禁門の変で長州藩を撃退したことで慶喜は天皇から絶大の信頼と支持を勝ち得ていたからです。その後、二度に亘る長州藩との戦争が起きました。
さらに、もう一つの大きな政治課題がありました。
「兵庫開港問題」です。
すでに前年10月(慶応元年)、慶喜の奮闘により幕府は条約勅許を獲得(第153話)していましたが、今なお兵庫開港は実現していませんでした。京に近いため、孝明天皇が頑なに拒否し続けていたからです。
このことに目をつけた薩摩藩は、結びつきを強めていたイギリスと連携して幕府を窮地に追い込もうとしていました。イギリス公使パークスが、即時での開港を要求する一方で、薩摩藩は幕府の手で開港の勅許が下りるのを阻止する動きに出たのです。
こうして慶喜は、反幕に転じた勢力との攻防に身を置き、幕府を孤立化させようとする薩摩との政争に明け暮れていたため、江戸に戻ることができなかったのです。
(慶応3年3月 大阪城での徳川慶喜)
この間、慶喜を悩ませたのは、幕府のためにどれだけ働いても、身内とも言うべき将軍家茂や江戸の幕閣からは信用されず、疑いの目を向けられ、敵視されていたことです。双方の関係は、改善することなく悪化の一途を辿っていました。
とはいえ、前将軍家茂が亡くなった以上、その後任には慶喜以外に将軍を受け継げる者がいないことは、誰の目にも明らかでした。
慶喜は、幕府の数ある歴代将軍の中で群を抜く異色の将軍でした。
その理由の一つは、慶喜がこれまでの将軍のように老中に政務を任せることなく、自らリーダーとして指導力を備え、初代の家康に匹敵する有能な将軍であったことです。
しかしながら、孝明天皇という強力な後ろ盾がいなくなったことは、慶喜にとって大きな痛手となりました。これまでは天皇の支持を取り付けることで、朝廷工作も幕府優位に進めることができました。
ですが、今や完全に敵に廻った薩摩藩などの反幕勢力が朝廷内で強力な巻き返しを図ってくるようになれば、幕府は孤立してしまうかもしれません。慶喜としては、引き続き天皇の支持を取り付け、越前などの親幕派の雄藩も自らの陣営に引留めておかねばならない状況にあったのです。
強気で自信に満ちていた慶喜は、自ら軍を率いて長州藩との戦闘を指揮しようとします。ですが、小倉城陥落との報が入ると、たちまち征長戦の中止を独断で決定し、周囲を混乱に陥れます。
周囲の怒りと反発を買い、孤立した慶喜は松平春嶽に助けを求めます。
春嶽は、将軍不在の今、幕府が存在しないも同じと考え、徳川家も尾張、紀州と同列の徳川家となり、今後のことは、朝廷の下で諸侯会議を開催して決めること。また大成を朝廷に返上するよう求めます。そして長州にその伝達の使者として勝海舟を使うことを提案しました。
ですから、勝が長州に伝えた「一新」とは、大政奉還のことです。
勝は命を狙う者たちがいる敵地に単身で乗り込みました。宮島の大願寺での談判の経緯については、すでにお伝えしました(第178話)。
ですが慶喜は、当面の時間稼ぎのために二人の提案に乗った素振りをしてだけで、その裏で朝廷からの停戦命令を出してもらうよう画策し、終結を図りました。春嶽も勝も、大政奉還する気持ちなど微塵もない慶喜の手玉にとられたのでした。
煮え湯を飲まされた勝は、怒って辞表を出しますが、老中板倉勝静に取りなされ、軍艦奉行に留まり、その後、江戸に戻るよう命じられます(慶応2年10月1日)。
この時の慶喜は、徳川宗家を相続するとは表明していたものの、まだ将軍宣下は受けてはいません。ですが、その振る舞いは将軍も同然でした。家茂の喪の発表と共に自身を「上様」と呼ぶようにと通達した(同年8月20日)のが、何よりの証しです。
同年12月5日、慶喜はようやく将軍職に就きます。
前月、孝明天皇が将軍宣下を慶喜が固辞しようとも受けるように命じたと言われています。
この時、慶喜は30歳。勝は45歳でした。
そのわずか20日後、孝明天皇が亡くなります。
この10カ月後、慶喜は大成奉還を朝廷に申し出ます。ですが、その真意はどうにもならなくなったから政権を投げ出すというものでは全くなかったのです。
そのことについては次回にお話することにしましょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館
・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「勝海舟全集2 書簡と建言」 講談社
・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房
写真:Wikimedia Commons「Tokugawa Yoshinobu」(Public domain)より
