こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 四カ国、最後通牒を将軍に送る 】

 

「日本がいつ、どんな風に開国したか」というテーマの3回目です。

 

将軍家茂が一橋慶喜に説得され、将軍職辞職を撤回し、二条城に入ったのは慶応元年(1865年)10月4日。先に幕府が四カ国から条約勅許の回答をするのに与えられた猶予期間は10日間でしたから、その期日はこの日の三日後、同月7日に迫っていました。

 

同じ日の4日朝、外国奉行山口直毅が英艦プリンセス・ロイヤル号を訪ね、二人の老中が朝廷から罷免を命じられたことを伝えました。知らせを聞いたパークスは、衝撃を受けます。

外国人のパークスにも幕府の重職を務める老中が帝により辞めさせられることの重大さが理解できたからです。他国の各代表たちも、今この国で大きな変化が起きつつあるという認識を持ちました。

 

こうした事態の発生に四カ国は、徳川将軍に対し各国代表が署名した四通の同文の最後通牒を送りつけることにしました。そこには驚くべきことが書かれていました。

 

「先に10日の猶予を認めたが、すでに7日が過ぎた。交渉のために将軍から遣わされた老中(阿部正外のこと)の罷免を知った。しかしどのような困難があろうと10月7日までに回答が文書により示されなければ、われわれは幕府によって正式に拒絶されたと見なすその場合、われわれは自らの判断にしたがい自由な行動を取るであろう

 

「自由な行動を取る」とは何か。それは四カ国が兵を上陸させ、京都に攻め入る軍事行動を開始することを意味していました。

 

 

【 奮闘する慶喜 】

 

さて慶喜です。

将軍と別れた慶喜は、すぐさま帰京し御所に向かいました。慶喜には大きな仕事が残されていました。

それは天皇から条約勅許を取り付けるというこれまで誰も成し得ていない極めて困難な仕事です。

 

参内した慶喜は、朝議の開催を求めました。

4日午後6時、孝明天皇が出席する中、小御所において朝議が始まりました。

参加したのは、幕府側から慶喜の他に松平容保(京都守護職)松平定敬(京都所司代)、小笠原長行(老中格)ら、また朝廷側から関白二条斉敬(なりゆき)、内大臣近衛忠房朝彦親王、山階宮(やましなのみや)らの国事掛らでした。

 

 

慶喜は口火を切りました。

「兵庫沖には異国の艦隊が碇泊しており、いつ戦端が開かれてもおかしくない緊迫した事態が続いております。幕府が安政年間に調印した条約の三港(横浜・新潟・長崎)勅許を願い上げます。さもなくば、恐れ多いことながら夷狄が京都にまで攻め上ってまいりましょう。

そのような事態になってから和を講じようとしても異国が応じることはありますまい。明日朝までに必ずご返答をいただきたい」。

 

 

(大河ドラマ「青天を衝け」の一橋慶喜)

 

さらに慶喜は、

勅許がなければ夷狄の兵が京まで押し寄せ、京の街も戦火に包まれ、帝の身の安全さえ保証しかねるとまで口にしました。天皇と公卿たちを脅してでも勅許を下すよう促したのです。

慶喜は非常の覚悟を持って会議に臨んでいました。幕末史上、最大の危機が目前に迫っていました。そのことを警告するため、天皇の怒りを買うことも承知の上で、開戦を避けるためには何としても条約勅許が必要なことを強調したのです。

 

これに対し関白二条が真っ向から反論します。

「異国が兵威を以って迫ろうと、公家にも諸藩にも(勅許を下すことに)不承知の者が多い。それゆえ容易に認めるわけにはいかない」

慶喜は、「今お許しがなければ国難が立ちどころに起きますぞ」と脅したり賺(すか)したりしながら気迫を込め弁舌を振るいます。

容保・定敬兄弟も勅許を求める意見を積極的に述べ、慶喜を援護しました。

 

 

【 薩摩からの提案 】

 

こうした激論が何時間も続き、やがて深夜になりました。

そんな頃、内大臣近衛忠房がある提案を行います。

その提案とは、幕府を通さず朝廷自ら使者を四カ国に差し向け、回答延期を申し入れ、その間に有力諸侯を集め会議を開き、「天下の公議」で兵庫開港勅許のことを決すべきというものでした。

 

近衛は薩摩の息がかかっている公卿で、この提案は大久保一蔵(後の利通の入れ知恵によるものでした。外国との交渉は朝廷から勅使を派遣し、薩摩藩士がそれに随伴して死力を尽くして行う故、十に八九は成功が期待できると近衛は説明しました。

勅使には大原重徳(しげとみ)を任命し、大久保一蔵他一名の薩摩藩士が従い、兵庫に派遣するというものでした。この提案により会議の流れは薩摩の策を受け入れる方向に傾き、一旦決まりかけます。

 

薩摩の狙いは、外交権を幕府から奪い諸侯会議に移すことにありました。今回の外交問題をきっかけに幕府の権威を失墜させ、雄藩連合政権の実現を図ろうとしたのです。

ですがそうなってしまえば幕府は政治権力を失くすだけでなく、二百数十年続いた徳川の世に終わりを告げねばなりません。そうさせてはならない慶喜は猛烈に反対するしかありません。

 

 

【 会議を制した慶喜 】

 

この日、慶喜は条約勅許に関して諸藩の意見を聞くという、およそ慶喜らしからぬ作戦を取りました。

会議の途中に在京諸藩の京都留守居役クラスの藩士を三十人余り呼び出し、朝議の場近くに席を設け、藩士一人ひとりに意見を述べさせたのです。独断で政局を押し進めることが多かった慶喜が諸藩の意見を聞いて事を決するなどこれまでになかったことでした。

 

慶喜の作戦は功を奏しました。条約の勅許を認めるべきとの意見が大勢を占め、近衛の提案を支持したのは備前藩一藩のみ。薩摩は完全に孤立しました。

この結果を受け、慶喜は薩摩の大久保に対し薩摩の策の具体的な中身を明らかにせよと強く迫りました。

 

「薩藩の見込みを尋ぬるに、是また何の奇策もなし」

 

慶喜の鋭い問いに大久保は何も答えることができませんでした。こうして薩摩の勅使派遣案は完全に退けられました。

 

 

勢いに乗った慶喜は、回答期限が迫っていることなればと、ついに聖断を仰ぎます。

昨日の夕方から一昼夜を超えて続く会議に疲労困憊した関白ら公卿たちは退散しようとします。慶喜は血相を変え、押しとどめます。

 

「某(それがし)不肖ながら多少の家臣がおります」と実力行使の用意があることをちらつかせて会議を続行させました。

さらに「斯くまで申し上げてもご許可がなくば、某はその責めを負い、腹を切る他なし。わが命は固(もと)より惜しむところにあらず。されど某が命を断てば家臣たちがおのおの方にいかような振る舞いに及ぶかはわかりませぬぞ。そのお覚悟がおありならご存分にされよ」と恫喝し、席を立ち去ろうとしました。

この発言がとどめの一撃となり、公卿たちの抵抗はピタリと止みました。孝明天皇も勅許やむなしとの判断に傾きました。

 

天皇の御沙汰書には、)条約の許容、2)条約の不都合な箇所は諸藩と評議を行い改訂することを求める、3)兵庫開港は差し止めの三点が示されました。

 

 

一昼夜を超える会議がようやく終了を告げたのは、翌日夜午後8時のことでした。実に26時間に及ぶ前代未聞のマラソン会議となりました。

この会議がいかに難航したか、この事実一つをとってもおわかりいただけるのではないでしょうか。

 

後年、慶喜は生涯に死を決したことが三度あると回顧していますが、うち一度がこの条約勅許を得ようとした時でした(残り二つは禁門の変の時と官軍が江戸に攻め入った時)

慶喜この時、二十九歳。その生涯において忘れられぬ出来事であったに違いありません。

 

こうしてようやく国内が開国一本にまとまりました。開国が国策として決定するまで実に七年の歳月を要したのでした

 

 

さて今回のお話した中で大河ドラマ「青天を衝け」にも登場したシーンをご紹介しましょう。

(一部割愛しています)

 

 

朝廷での御前会議

 

 (慶喜、天皇に条約の勅許を願い出る)

 

 慶喜:「公儀が調印いたした条約の勅許をお願いいたしまする。勅許をいただけねば夷狄の兵が天子さまも

     はばからず京に入ることになりましょう。

 正親町三条実愛:「夷狄が御所に。そんなことあってはならん。何としてもお上は勅許をいたしませぬ。

     こうなった責任を取り、将軍は辞職しなはれ」

 慶喜:「正親町三条様、将軍を辞職されよとはどなたの意見か。某はあなたの許に薩摩の者が出入りしているのを 

     存じておる。これほどの大事を誰かにそそのかされたとあってはそのままでは済ませぬぞ」

 (怒気を含んだ慶喜の言葉に一同の顔が青ざめる) 

     「……………………」

 

     「なるほどこれほど申し上げてもお許しがないのであれば、某は責を取り切腹する以外にございませぬ」

 (「一橋殿、またそのようなお戯れを」の声に慶喜、語気鋭く)

 

    「戯れではござらぬ!」

 

 (慶喜の気迫に押されたのか、静まる一同)

     「また某も多少の兵は持っておりまする。腹を切った後に家臣どもが各々方にいかなることを仕出かすかは 

     責めを負いかねまするのでお覚悟を…」

 凍りつく一同 「そ、それは…」

 孝明天皇:「二条、人払いを」

  (御前を退出する公卿たち)

 

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  (天皇に対面する者は慶喜ただ一人。御前近くに進み出る慶喜)

 天皇:「外国のことは慶喜がそこまで言うのであれば朕は慶喜の言うことを信じよう」

 慶喜:「ははっ」

 

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さていかがだったでしょうか。今回もとても長い話になりましたが、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄 3」 萩原 延壽 朝日文庫

 ・「幕末史」 半藤一利 新潮社

 ・「徳川慶喜公伝 3」 渋沢栄一 東洋文庫 平凡社

 ・「昔夢会筆記」 渋沢栄一編 東洋文庫 平凡社 電子書籍

 ・「朝彦親王日記 上巻」 国立国会図書館デジタルコレクション

 ・「勝海舟全集19 開国起源Ⅴ」 講談社

 ・NHK「英雄たちの選択」(幕末秘録・京都に外国軍侵攻?徳川慶喜 破滅回避への決断)  

  2016.9.15放映

 写真・画像: NHK大河ドラマ「青天を衝け」より