これまでは私が長年の研究により私自身が立論したことを実践し、その成功体験を元に理論化した理論をLinQに適応させる作業を行ってまいりましたが、ここで少し休憩をしようと思います。というのも、私の理論は事例研究から発生するものでありながら、私の体験や経験については全く語ることなく現在に至っており、私自身のある程度の成功を頭ではわかっていても、「なぜ」についてはモヤモヤした感覚が残っているかと思います。それゆえに、理論編を完結させる前に私の体験・経験談をお話ししてみようと思います。
私は小さなころから芸能界にあこがれは持っていたものの、実際に芸能人になってみようとは思ってはおりませんでした。小さいころから勉強が嫌いな子供でしたから成績は悪く、高校に入学するまでは人生の中で一番つらいほどに孤立しておりました。家族からも相手にはされず、完全に見放された状況でありました。文章化するとその時のつらさというのは伝わりづらいのですが、学校の成績が悪かったことで人間性なども含め、すべてのことについて、それも家族も含めて私の周りの人の全てが私の全てを否定しておりまして、それはもう、壮絶な10代を過ごしたものでした。相手にされないわけですから、何をやってもなにも起こらなく、今から考えるととんでもない状況でありました。これが団塊ジュニア世代の大きな特徴です。
コンティンジェンシー理論ではないですが、そのような状況に置かれますと、そこから逃げ出すか、その環境に適応していくのかの選択を迫られるのですが、私は「できない」という状況に適応することに抵抗がありましたので、そこから逃げるのではなく、「脱出」することを選びました。ですから、高校は最低ランクの高校でしたが、常に学年ではトップの成績を保持するようになり、相対的なレベルは低いものの、その中では「トップ」になり、そこで得たものは「自信」というものでした。
大学進学などは到底かなわぬ夢であると私の両親も思っておりましたが、しかしながら、どうしても大学受験を突破してみたいという思いと、変な「自信」がありまして、私立の大学ではありますが当時の私のレベルでは受験できる最高峰の大学として近畿大学を受験したのでした。そしたらなんと、合格通知が届きました。家族や親戚一同、さらには近所の幼馴染までもが驚きまして、私が大学に合格した情報は私の小学校から中学校までの担任の先生にまで情報がまわり、大事件となりました。そのくらいに私の小学校から中学校にかけてはとんでもない生活を送っていたのでありました。ところが、私が大学に進学できると思っていなかった両親は生活費に全てお金を回していたため、大学に合格した時に逆に苦言を呈され、私の努力というものは微塵も認められることはありませんでした。しかし、この大学の合格が自信というものを「確信」へと変化させ、この段階で学者になる夢を持つに至りました。落ちこぼれ故の野望といっても過言ではないでしょう。
その後は私の略歴の通りで、私の人生の本格的なスタートは大学の学部を卒業した後から始まるのが特徴なのですが、ここでの物語で何を伝えたいかというと、現在の自分と未来の自分では常に立場が変化することです。しかも何かをやり遂げようとするごとに変化が待ち受けておりまして、この変化のサイクルはグレイナーモデルと非常に似ております。落ちこぼれあったときは世間様の最底辺にて生息しておりましたから、逆に違法なこと以外はなんでもできました。勉強をするもしないも自由ですが、猛勉強をする道を選びまして、そこで大学合格という結果を得ることができました。ここで勉強できない自分からある程度は勉強できる人間へと成長と発展を遂げたのですが、グレイナーモデルでたとえると、「危機」の部分を脱した時、すなわちそのタイミグが「大学合格」であり、この段階で一つの個性化の過程を経たということが言えます。楽に東大に入学できる人にとっては大学受験などは危機的状況ではないですが、私のような落ちこぼれにとっての近畿大学の受験はある意味で事件や事故に相当しまして、結果としてそれは危機的な状況となり、その危機を脱するには相当な葛藤が必要であることから、そのプロセスからしても個性化と考えております。
このように見ると個性ある人間になるにはそう難しくはないかと思います。理論だけを見ると個性ある人間というのは神様だけか?と思えるかもしれませんが、そうではなく、人生の山と谷の部分の山の部分をいかに、自分なりに登ったかが問題であり、他人の手を借りて登るような人はやはり個性化しないでしょうし、自分でしっかりと努力した人には個性化への道が開かれていると深層心理学的には考えられます。ところが、この個性化には段階がありまして、それはグレイナーモデルでは4つの危機があるように、一つ個性化を迎えると、その先にまた危機が現れ、更なる個性化を要求されます。この二回目や三回目の危機というのがものすごく精神的にきつく、これに耐えられずに芸能界を去っていく、ないし、最悪の場合は薬物に走ったりする芸能人が多いのです。
現在のLinQでたとえますと、第一段階はメンバーの結成時期で、まずは福岡で有名になること、そして九州全域で有名になることを要求され、それに向けて努力し、メジャーデビューまで果たし、本格的な芸能人として世間からも認められ、世間の目も「芸能人」という評価となります。これは素晴らしいことです。素人がプロとしての芸能人へと「個性化」したわけですから、これについては大きく評価されるべきであります。ところが、次に問題となるのが全国展開です。全国となると地方での個性化は全く役に立たず、全国展開できるだけの個性化を求められることになります。これをわかりやすくテレビの東京のキー局などがよく表現するのが、「芸歴ゼロ」です。これは地方で個性化し人気があったとしても、全国では全国としての個性化が必要となりますよという意味を一言で表したものであり、地方出身者が東京に出ていって最初に言われて壁にぶつかる言葉であります。ちなみに、私と宗子は芸歴ゼロからのスタートは嫌だったので、それを言わせない様にしてから東京へいきましたから、全国展開は非常にスムースでしたが、地方での立場を保持しつつも全国区としての個性化を展開するには困難を極めますが、新たなる個性化に向けて今後も若いパワーと知識でもって乗り切っていただきたいものです。また、そのための方法論にてお手伝いできれば幸いです。
以上のように、個性化とは一度きりのことではありません。少なくともユング派ではそう考えます。しかしながら、そう何度も個性化を迎えることはありません。私の場合、最初は大学受験の前後、その次は2015年に教授の役職に就く前後です。教授になるという、学者としては最高峰の役職にて個性化したがゆえに抱える問題も多く、これをどのように乗り越えていくが当面、10年くらいの目標となりそうです。
地方から全国で活躍する職業は芸能人だけではなく、政治家もその一つです。とりわけ、衆議院議員の小選挙区から選出された議員は参考にしておりまして、最初は町内活動から始まり、選挙でも選挙区からのものですが、それがやがて全国へ活動範囲が広がるこのプロセスは、個性化の議論からすると見事なものだと思っております。しかも、地元を基盤としながらというのがローカルアイドルの全国展開へのヒントとなるような気がしてなりません。
今回も長々とお付き合いいただきありがとうございました。個性化した後に新たなる個性化が求められるがゆえに、活動を続ける限りは常に「新たな問題」が発生し、そこには不満が募り続けるという事実をご理解いただくために今回は時間を割きました。LinQの皆様方、不平や不満、そして大きな不安があるでしょうけど、それらは個性化への肥やしですから、むしろありがたいと思い、日々のレッスンに励んでください。ご高覧、ありがとうございました。