まず。。。
「WT教義の基本的な部分」
として
「聖書は神の霊感を受けており、そこに矛盾は一切なく、書かれていることはすべて史実・事実である」
という大前提があるものと私は考えていますが。。。
JW関係者の皆さま。
基本的にはそういうことで間違いないですよね?
また、聖書の本文については、たとえばギリシア語聖書の、各福音書はそれぞれの名を冠したマタイ、ルカ、マルコ、ヨハネが書いたと信じられていて、パウロ書簡はすべてパウロが書いたものであり。。。
また、ヘブライ語聖書のいわゆるモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)はそのまま、モーセが、箴言・伝道の書(コヘレトの言葉)・ソロモンの歌(雅歌)はソロモンが、それぞれ書いたものであるとされているとか。。。
ところで、これまでにも、何度も聖書学者のバート・D・アーマン氏の本を取り上げてきましたが、アーマン氏の著作に書かれている通り、近年の聖書学の発展は目覚ましいものがあると思います。
近年の聖書の高等批評学では、各福音書の記者はそれぞれの名前の通りではない可能性が高いことや、パウロ書簡だとされてきたものでもパウロの手によらないものがあること、モーセ五書はモーセが作者ではなく、同じようにソロモンも。。。
と、研究が進むにつれて、これまでの
「聖書の定説」
が大きく揺らいできました。
更に、それぞれの聖書記者だけではなく。。。
聖書の内容にいくつもの矛盾が指摘され、どうやっても整合性が取れないこと。
また、その史実性・事実性についても疑問が呈されるようになってきています。
前記事「「旧約聖書の謎 隠されたメッセージ」 」のコメント欄で、笹さんがこの著者の前作に書かれていたまえがきでの言葉を引用してくださっていました。
「今日の学問的研究の成果を知らないままで、『聖書に書かれたことは歴史的にもすべて真実』と信じることが、本当の信仰だろうか。」
まさに、この通りのことを感じています。
聖書に対して
「全ては史実であり事実である」
というような、JW的信仰(原理主義的信仰)を持っている人に聞いてみたいこと。
聖書の今日の学問的研究の成果と、自分の聖書への思い込みが食い違うとき。。。
その時にはどうしますか?
もちろん、どのような信仰を持とうとその人の自由だと思います。
ただ、ちょっと不思議なだけ。。。
専門家による学問的研究を拒否しなければならない「信仰」の持ち方のことが。。。
なかなかタイトル通りの内容にまで行きついていませんが(^^ゞ
まぁ、ぼちぼちと参りたいと思います☆