この間から書こう書こうと思いつつ、なかなか書けなかった記事です☆
これは、皆さまご存じの通り、マタイ25章31節から始まる有名なたとえ話です。
羊を右に。
やぎを左に。
栄光の座についた「人の子」がすべての人々をひとりひとり仕分けるという話。
右に分けられた羊とされる人々は
「王国を受け継ぐ資格があるもの」
左に分けられたやぎとされる人々は
「永遠の火に入るもの」
「人の子」は羊とされた人々に説明します。
「わたしが飢えると、あなた方は食べ物を与え、わたしが渇くと、飲み物を与えてくれたからです。
わたしがよそからの者としてくると、あなた方は温かく迎え、裸でいると、衣を与えてくれました。
わたしが病気になると、世話をし、獄にいると、わたしのところに来てくれました。」
ところが人々には身に覚えがありません。
「主」に対してそのようなことをした覚えがないからです。
すると「人の子」(王)は言います。
「あなた方に真実を言いますが、これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは、それだけわたしに対してしたのです。」
同じくやぎに分けられた人々にはこう言います。
「あなた方に真実を言いますが、これら最も小さな者の一人にしなかったのは、それだけわたしに対してしなかったのです。」
このたとえ話。
聞くところによると、JWでは
「小さな者」
をJWコミュニティの信者に限定したり、統治体ブラザーズに限定したりしてしまったり。。。
また
「あの人は話を聞いてくれるから羊さんね♪」
(もちろん自分たちは羊さんよ♪)
「あの人は話を聞いてくれないから、やぎに違いないわ」
などと、他人を裁くことにも活用しているとか。。。
ところで、聖書素人の一般人のりんごが読んだ印象では。。。
「小さな者」
は文字通り、単純に
「社会的弱者」
を指していて、おまけに
「神に愛されたい」
「神に気に入られたい」
などという下心などなく、ただ身近にいる困った人々に対してほおっておけずに思わず手を差し伸べるような自然な優しさを持っている人々をこそ、神は見落とさずにきちんと見守っているよ。。。
という話なのだと感じました。
だから
「社会的弱者」
に対して、できるだけ手を差し伸べ守り、助け合おう。。。
と。
ところで、先日、あるJW現役の方がマザーテレサのことに対してこのようなつぶやきをしていらっしゃいました。
「悲しいかなマザー=テレサは貧困下にある子供達を助けたい一心で修道院に入ったのか・・・
神に仕えたい動機がないなら神を知る事など出来ないのも仕方ないナ。
唯一神エホバだけが貧困者を救えるというのに・・聖書を読みもしなかったのか・・・・」
マザーテレサについては様々な話もありますが。。。
でも
「貧困化にある子どもたちを助けたい一心で修道院に入った」
のだとしたら。。。
私はその動機は素晴らしいものだと感じてしまうのですが、このJW現役さんはそうは考えないご様子。
「子どもたちを助けたい」
という動機だけではまるでカスのような言いようです。。。(-_-;)
やはりそれには大きな思想のギャップを感じてしまいました。。。