あちこちで見かけるこの言葉。
「神に愛されたい」
不可知・無宗教のりんごはいつも不思議に思うのです。
「神は愛だ」
と謳いながら
「神に愛されたい」
「神に愛されるために」
というこの言葉が。
「神は愛だ」
そう信じるのなら、なぜ今更
「神に愛されたい」
と願う必要があるのでしょう?
「神は愛だ」
それならば、何の心配が要るものか。
安心して自らの人生を歩めばいいものを。
神はありのままのあなた自身をもうすでに愛しているのだから。
「神に愛されたい」
その言葉は、実は裏返すと
「今、神には愛されていない」
そんな不安が隠れているように感じます。
それは、信仰告白にも似た不信仰告白。
「神は愛だ」
そう謳う宗教をしながら、それをその実かけらも信じることができない人たち。
愛されているのかどうか、いつも不安が消えない人たち。
その不安を利用して、人々を支配し、自分たちの欲望を満たそうとする輩も多くいて。
だいたいちょっと考えてみて。
「神に愛されるためには、わが社の雑誌を配布する無償の労働力にならなければなりません」
そんなの、おかしくない?
怪しさ満載でしょうに☆
「神が愛」
ならば。。。
どうか安心してね。
あなたは間違いなく、他の誰かと同じように等しく神から愛されているから。
「他の誰かと同じじゃイヤ」?
そうやって
「他の誰かより余計に愛されたい」
と思う欲望が、永遠の不安に結びついてしまうのだから。。。
誰かを蹴落とさなくとも。
あなたは神に愛されている。
誰かを蹴落とし、貶めてしまうと。
あなたは神の愛を信じられなくなる。
なんとも皮肉な話だと、そう感じてしまう不可知なりんごでした☆