「エホバの証人の「避け」について」シリーズも、もう23番目の記事になりました(^_^;)
今回は、エホバの証人が、もっとも「見習いたい」存在である、イエス・キリストについて考えてみたいと思います。
「イエスに倣う」
何かと言うと、エホバの証人関係者から出てくるセリフですから。
「悪行者とは一緒に食事をしてもならない。」
確かに聖書には
「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように。」
(コリ第一5:11-13)
と、書かれています。
でも、イエスは徴税人や罪人とともに食事をしていました。
そして、そのことを疑問に思うパリサイ人に
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
と答えました。
(マタ9:9-13、マル2:13-17、ルカ5:27-32)
とも書かれていますよね。
また、「エホバの証人の「避け」について ⑤ 」には、復帰にあたっての記事を紹介しましたが、そこには以下のような文章がありました。
「悔い改めが真実のものであることを排斥された人が実証するまで、長老たちは十分の期間、場合によっては何か月も、また1年かそれ以上の期間慎重に待つことでしょう。」
悔い改めを見極めるために、
「何か月も、また1年かそれ以上の期間慎重に待つ」
とのことでしたが、マタイ18:21-35には、仲間を赦すのは、
「七回までではなく、七十七回までです。」
(ちなみに、気になるのは、新共同訳では、ここのセリフは
「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」
と、もっとスケールが大きくなっています。
訳によって、ここの回数が違うのも変な話ですね。)
と、言っているくらいですから、イエスは
「悔い改めを見極める時間」
など、必要としていなかったのではないかと思われます。
そして、その後の喩え話では、主君に借金の返済を免除されながらも、自分は、自分より弱い立場の仲間の借金を許さなかったばかりに主君の怒りを買った家来の話がされています。
人が仲間を裁き、その後も許さないようなことを、決して「よし」とはしていないように思えますが、いかがでしょうか?
また、余談ですが、エホバの証人の間でよく言われる
「不完全だから」
は、自分より立場の弱いものを許す時に必要な言葉であって、立場が上の者が自らの不徳を庇うために、立場が下の者に許しを強要するのは間違いですね。
ルカ18:9-14には、2人の祈る人の喩えがあります。
自らを「義にかなっていると自負している人」は次のように祈ります。
「神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取るもの,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。。。」
収税人は、目を天の方にあげようともせずに、胸を叩きながら祈ります。
「神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください。。。」
その結果は、皆様、ご存じのとおりです。
もしも、イエスが、エホバの証人が排斥・断絶者を「避け」ているところを見たら、何と言うのでしょうね。。。