からまだまだ続いて聖句の検証をしてみたいと思います。
では、オンラインライブラリーより「神の愛」に書かれている
「排斥された人にどう対応すべきか」
という記事を引用しました。
その中の
「徹底的に避けることは本当に必要か」
という部分があります。
第一の理由。
「神とみ言葉への忠節がかかっている。」
と書かれた文章への参照聖句は
「イザヤ 48:17。 」
「ヨハネ第一 5:3 」
です。
まず、イザヤ48:17に何と書かれているかというと。。。
(以下、聖句の引用はオンライン新世界訳聖書によります。)
「あなたを買い戻される方,イスラエルの聖なる方,エホバはこのように言われた。「わたし,エホバは,あなたの神,あなたに[自分を]益することを教える者,あなたにその歩むべき道を踏み行かせる者である。」
この部分には直接的に、悪行者を避けるようにという示唆は別に書かれてはいません。
ヨハネ第一5:3では
「そのおきてを守り行うこと,これがすなわち神への愛だからです。それでも,そのおきては重荷ではありません。」
ヨハネ第一の手紙の大意は、
「神によって愛されているのだから、私たちも互いに愛し合いましょう。
それが『神のおきて』です。」
ということだと思うのですが。。。
ですから、
「そのおきてを守り行うこと」
は、互いに愛し合うことだと言っているのであって、悪行者を避けることを指しているようには思えません。
続いて第二の理由。
「悔い改めない悪行者から離れているのは自分と会衆の清さを守る。」
ここの参照聖句は
「コリント第一 5:6,7 」
ここには
「あなた方が誇りにしている事柄はよくありません。あなた方は,少しのパン種が固まり、全体を発酵させることを知らないのですか。古いパン種を除き去りなさい。あなた方は酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです。実際,わたしたちの過ぎ越しであるキリストは犠牲にされたのです。」
ただし、コリント第一5で語られている淫行は
に書いたように、
「諸国民の間にさえないほどの淫行」
なんですけれどね。
そして第三の理由。
「聖書の原則を固守するなら、排斥された人にも益が及ぶ場合がある。」
ここの参照聖句は
「ルカ 15:17 」
です。
ここは。。。
有名な放蕩息子の喩え話の部分です。
「本心に立ち返った時,彼は言いました,「わたしの父のところでは実に多くの雇い人にあり余るほどのパンがあるのに,わたしはここで飢きんのために死にそうなのだ」
ところで、放蕩息子の父親は、この息子が財産を持って家を出た後、この息子のことを「避け」ましたか?
いいえ。
この父親は息子のことを心配こそすれ、
「聖書の原則を守るために、自分から息子のことを避ける」
ことなんてしていませんでした。
財産を分けることに対しても、息子が遠くに旅行に行くことにしても、父親が反対したという記述もありません。
この放蕩息子の喩えでは、好き放題に過ごした弟息子が、自らの行動を反省して父親のもとに帰った話ではありますが、父親がその弟息子を
「聖書の原則のために避ける」
話では、断じてありません。
こうしてみていくと、
「徹底的に避けることは本当に必要か」
という問いには、おおいに疑問を感じるばかりです。
これらの参照聖句のどこにも
「徹底的に避ける必要性」
が書かれていないからです。
さらにこの「避け」に関連した他の部分の参照聖句についても検証してみたいと思います。