" 木の住まい " に出会って、杉の家 -235ページ目

"木の住まい”

ここのタイトルが「"木の住まい"に出会って..」だっけ。

この"木の住まい"は木の家で暮らすHさん発行のミニコミ誌で、
木の家に住む人の体験談や大工さんの声の他、建築に関すること、
日本の林業のこと、建前の見学会の企画やレポートなど、
とてもふつうのサラリーマンが編集しているとは思えない雑誌で、

多くの若い大工さんや、木の家に住みたい人の支えだったように思う。

ここでの「木の家」は、木の家ならなんでもいいんじゃなくて、
日本の伝統の建築技術を受け継いでいこうとする、木組みの家だった。

新聞記事を読んで知ったのだったろうか、
"木の住まい”に出会っていなかったら、今頃どんな家に住んでいただろう。
Hさんの発信地は仙台市だったのに、名古屋支部なるものができて、
大工Nさんに出会ったのは、日進市での見学会だった。
ただ、この時点では「木の住まい」は
私たちにとっては半分は夢の話で、まず、
大工さんより設計士さんを捜さなくてはならないと思い込んでいた。
大工Nさんは当時20代後半で、若過ぎて眼中になかった(ごめ~ん)
私の感覚では、大工さん=年配の人で、こどものころに見ていたら、
Nさんも年配の人に見えたのかもしれない
(笑)

Hさんの設計士さんは埼玉県で遠過ぎてどうにもならない、
日進市の家の設計士さんは、うちから高速道路で1時間と少しで、
遠いんだけれど、なんせ比較が埼玉なので随分近い。
もしかしたらお願いできるのかもしれないと、
設計士さんと話がしたくて、かすかな期待を持ってでかけたのだった。

なかなか言い出せないまま帰りの時間になってしまって、
やっとの思いでそれとなく話したら、
「そんな遠いところ、行けるわけない。」みたいな冷たい返事だった。

この日、夢の実現はふりだしにもどってしまった。

その後、借りていた家は出なくてはならず、
当時は大手メーカーすら頭を抱えていた土地不足のここで
土地取得のために、取り壊し前提で中古住宅を手に入れた。
輸入住宅の工務店と親しくなって、契約寸前まで話がすすんだ。
木の家ではあったけれど、"木の住まい"とはほど遠い家だった。

寸前で、契約が成立しなかったのは、生活が苦しくなりすぎることに気付いたから。
土地の予算を500万円オーバーしてしまい、
もし、家を建てたら...の返済の計算を私がまじめにやってみたからだった。
工務店担当者は「大丈夫ですよ。」と説得しようとしたけれど、
パソコンなどうちにはなかった当時、
ワープロの表計算機能でこと細かく計算した私の表は、
彼の意見を訂正させるのに、1分もかからなかった。

どうせ苦しい生活をするなら、
今、家にお金がかけられなくて後悔するよりも、
本来なら返すべきローン分を貯金して、それを建築費にあてよう。
2~3年、買った土地に建っている中古住宅に住もう。
その時に、こちらから出向くよ。と約束して、契約を中止した。
(嘘になっちゃったよ。一筆書かなくて、良かった...)

しかし、話はまだまだ続く...。
取り壊す家にお金をかけられないけれど、
傷み過ぎている畳だけは替えてもらおうと畳屋さんを呼んで、
畳をあげてもらったら、シロアリによる占拠発覚。
土地選びでずっと気をつけていたのに、やっと見つけた土地、
「どうせ壊す家」、で油断していた。

業者さんに来てもらったら、2階建てだから75万円かかるという。
(◯協の紹介だったけどちょっとあやしかったな)
2~3年のために、畳代も入れて90万円近くになる。
社宅のアパート代は年間約30万円。
シロアリにおびえて暮らすよりも、社宅の方がいいではないか。
夫の会社に相談して、アパート社宅へ引っ越すことになった。

結局は6年間をそこで過ごすことになったが、
結果的には、これがとても良かった。
結婚して以来、見知らぬ土地での同じ年代の話し相手ができた。
こどものことなんかも、お互いに助けあったりしながら過ごせた。
そして、ここでの友人たちも、同じ頃に家を建てて出て行った。

1995年の11月にアパート社宅入居。
家作りのスタートはそれから4年目の1999年3月。
実は、この数年間に
、"木の住まい"はさらなる発展を続け、
私たちの夢の状況はガラリと変わっていた。

そして、埼玉県の設計士Tさんと名古屋市の大工Nさんが、
この地に足を運ぶことになる。



炊飯器

宿題の棚が届かないので、写真が撮れないのだけれど、納戸は”ほぼ完成”から10日後の水曜日の夜には、ようやく片付いた。
あとは、ダンボールにつつき込んだわけわからんものを夫が処分してくれれば、さらに片付く。
わけわからんもの...バイクの部品やら、その小さな部品が入っていた空き袋やら。だまって捨ててやろうかと思ったけれど、このあいだ、なんか小さいの捜してたしなぁ...と思ってがまんした。

「納戸が片付いた」、つまり、中身を出していた玄関も片付いた。
”あと一息”からが長くて、それでも少しずつモノは減っていき、
水曜日の不燃物のゴミの日に、最後まで迷っていたいろいろを思い切って処分した。

大工NさんとKさんが現場で使っていた、1升炊きの炊飯器以外は。

私が圧力鍋でご飯を炊くようになってから使っていなかったこれを彼らに提供した。
自宅を離れてこの地で暮らしていた彼らの昼食は、
出前のお弁当屋さんで配達してもらったおかずに、自分たちで朝セットした炊きたてのごはん。
役目を果たしたあと、用はなくなってしまったのだが、まだ使えるので捨てきれずにいた。かなり邪魔なのだが、その後、私の職場で一度だけ役に立ったことがある。

「よし、今度こそ捨てるぞ!」と、袋から出したら、時計がまだ、動いていた。
「『捨てないで』ってあがいてるのかねぇ。」と、ちょうど出かけるところだった夫が、余計なことを言った。
時計が動いてるってことは、電池が...。
もしかすると、炊飯器の正しい捨て方があるのではないかと思い、調べてから処分することにした。

実は、この炊飯器には忘れられない想い出がある。

いつものように炊飯器は”ご飯を炊く”という仕事をしていただけなのに、
その日に限って、よくある事故が起きてしまった。
蒸気の吹き出し口に、3歳の息子が手をかざしてしまった。
現場で何度も見ていて、珍しいことではなかったはずなのに。
でも、家で使っていなかったから、教えてやったことがなかった。

しばらく水で冷やしたけれど、指2本に大きな水ぶくれができてしまって、
4日くらい病院に通ったかなぁ。
覗きこんだんじゃなくて良かった。手で良かった。

そんなことを思い出していたら、ますます捨てづらくなってしまった。
写真...撮っておくか。
炊飯器

はじめに

居間の棚の一番上の...、
脚立を使わないと取れない 高さの棚に手を伸ばして資料を取った。
設計士Tさんが遠方だったため、手紙やFAXでやりとりをした資料。

私は、Tさんが閉口する程の大量の文章を送りつけたらしい。
「こんなにあったから読むのが大変だった。」と
指で厚さを示された事がある。
情報は多いに越した事はないと思って、何でも書いた。
書き方がまずかったな、と思っている。
一番読んで欲しいところを読み落とされたりしていた。

もうひとつ、Tさんを困らせた事がある。家相。
家の図面を一冊の本のようにして渡してくれたのだが、
表紙を開くと、家相の線をひいた図案が書かれている。
ユーモアなのか、実は嫌みなのか...苦笑するしかない。
ただし、家相は全部自分で調べて要望を伝えた。
最終的には、一番避けたかった東北の水場となってしまったけれど
あがくだけあがかせてもらった結果なので、
あとで何かが起きても家相のせいにしなくて済む。

さて、どこからさかのぼろうか。
家を建てるきっかけから?
「この家」を建てるきっかけから?
うーん、どうしよう。