これまでの父の肝臓がんの話

 

その1 

その2

 

 

 

 

そして1月13日の早朝、母からのライン。

 

もうだめかもと。

 

なんでもご飯もまったく受け付けず、水すら飲まないと。

 

意識はあるらしいが。

 

 

この辺からあたしはいつ戻ろうかと悶々としだした。

 

どうせなら意識のあるうちに会っておきたい。会話をしたい。意識なくなってからじゃ意味ないんじゃ?

 

 

そして次の日。

 

父が声を上げて泣いたと母から聞いた。

 

つられて母も一緒に泣いたと。

 

寝たきりになった自分が悔しくてたまらないのか? もう先が長くないことを自分でも悟ったのだろうか?

 

入院になったら連絡すると母が言った。

 

 

 

逐一あたしから報告を聞いてた旦那は帰ったほうがいいんじゃ?と。

 

義母も帰らなくていいの?と。

 

 

 

そしてその次の日。

 

早朝に母から救急車で搬送されたとラインがきた。

 

あたしも母も、次入院になったら、もうこれで病院からでれることはないだろうと予測していた。

 

そしてその事態が起こった。

 

考える間もなく、あたしは即座に、この日の夜行便のチケットをとっていた。

 

このとき、初めて母は医者からその癌が末期であると聞かされた。

 

余命宣告はあと1か月。もって2か月。

 

癌は大きくなっており、転移も考えられるので、もしかしたら想像以上に早くなるかもしれないと。

 

延命治療はしないということでいいんですね?と念を押された母。

 

本人も望んでいないので、ただ痛みだけはとってくださいとお願いしたそう。

 

このことを知らされていない父は、介護士さんに体を拭かれながら、また涙を流していたそう。

 

 

 

母にはあたしが帰国することを父には言わないでもらうことにした。

 

なんだかもう最後だと父に思わせるのが嫌だったからだ。

 

 

 

気だけが焦り、帰路の間中、どうか間に合ってくれと祈るばかりだった。

 

ところが、夕方遅く駅に娘に迎えに来てもらい、病院へ直行すると思いのほか父は元気だった。元気っていう表現はおかしいか。てっきりもっとぐったりしてるのかと思い込んでいたから。

 

なんでも脱水症状を起こしていたらしく、そのため意識も朦朧としていたらしい。ところが病院で点滴を受けると、みるみる容態が落ち着いたと。

 

そうか、家じゃ好きなように飲み食いして、治療なんてまったくしてこなかった。水分も十分に取れてはいなかったのだろう。

 

だけど癌の状態は悪化して、肺も片方は水が溜まって真っ白になってるとのこと。もう癌が小さくなることはないと。

 

 

 

あたしはただただ、あまりにやつれきった父を目の当たりにして、涙がにじんだ。

 

必死に涙をこらえ、努めて涙声にならないようするのが精いっぱいだった。

 

あんなに頼もしく、なんでもこなす父親があまりにも小さく見えて、切なさで一杯になった。

 

 

 

それから毎日病院へと。

 

父は意識がはっきりしてるときと、うつらうつらしてるときを行ったり来たり。

 

それでもまだ憎まれ口を叩く元気もあったよう。

 

 

そして亡くなる数日前。

 

肺炎に罹ったと医者から。

 

酸素マスクがつけられた。

 

 

 

 

 

続く。