人は色んな一面(顔)を持っていると思います。(平野啓一郎氏の提唱する『分人主義』は、この一面を「分人」と呼びます。相手やコミニュティに合わせて変化するそれぞれの「自分」を「分人」とし、すべての「分人」が本当の自分であるという考えです。)
私も、職場で見せる一面と友達に見せる一面、初対面の人に見せる一面、家族に見せる一面は違うと思います。
この『一面』とは、主にその場、コミニュティでの振る舞いのことです。
本日、とある芸能人の年の差結婚が話題になりました。
その感想の中で、印象に残ったのは
『自分側の人間だと思って共感してたら、あっち側の人間だった。これって、ホント地味にダメージを食らってしまう。他人(今回は芸能人)の自虐ネタは信用しないことにしている』
芸能人に限らず、私にはブログでも、SNSでも『あっち側かよ』って思う瞬間は、たまにあります。
それを見た時は、なんとも言えない気持ちになります。
その人が意図してそう振る舞っていたのかもしれませんし、私の勝手な思い込みのせいかもしれません。
『こっち側』と見せて『あっち側』と同じ様に、振る舞いのギャップに言葉を失くすことがあります。
正々堂々としている風でありながら
陰で他人を陥れようとしていたり
気にしていない風を装いながら
めちゃくちゃアンテナを張り巡らせていたり
毒舌や持論を強引に展開する芯の強さをアピールしながら
他者からの反論を、敢えてスルーし、気にしていない体でいるけれど、実のところ自分の影響力(自分の味方や仲間の人達の怒りや賛同を意識させること)で相手の声を抑えようとしている
そういう振る舞いを垣間見てしまうことがあります。
そんなギャップが予想通りの人(薄々感じている)もいますし
そんなことは絶対あり得ない(そうであって欲しくない)と思う人もいます。
どちらにしても、そんな振る舞い(ギャップ)を見てしまうと、私は言葉を失います。なんとも言えない感情に支配されます。
他の読者は、それは、それとしてそのギャップを垣間見た人を受け入れているのかもしれません。
けれど、私はその人の振る舞いを全くの猜疑心無しにた捉えられることが出来なくなってしまいがちです。
なぜなら私はSNSやブログでしか、その人を知らない。よく知らない人のことを、また信じることへのハードルが私にとっては高いのです。